リスターター

回めぐる

第1話

 夢が終わった夏が終わった。

 秋風が身に染みる。じんじんする。それは冷たい風のせいではなく、気持ちのせいなのかもしれない。

 マフラーに顔を埋めて、早足に街中を歩いた。何者でもない私を、誰も気にも留めない。私は街に埋もれていた。

 川を一望できる橋のそばまで来て、足を止めた。夕焼けに染められた水面のきらめきは、やけにチープに見える。柵に寄りかかって、バッグから紙束を取り出した。一枚、二枚、三枚、四枚……

 一枚ずつ細かくちぎって、川に放った。取るに足らないものたちは、あっけなく舞い散って、川の流れに呑み込まれていった。とうとう最後の一枚――今朝、ポストに投函されていたものも、私の手を離れて消えていく。

 ――このオーディションに受からなかったらやめると、決めていた。地元に帰って、現実に帰ると。

 これで清算は終わった。未練はない。私は「声優志望」という、人に大声で言うには無謀すぎて恥ずかしい夢から、降りる。飛び降りる。

「あー! 飛び降りちゃダメだよー!」

 突如、素っ頓狂な声が上がったかと思うと、私の右手が強く引かれた。びくりと震えて振り返ると、知らない男が肩で息をしていた。

「は……なに、離して」

「ダメだよ、離したら飛び降りるでしょ?」

 長い前髪で隠れた片目。ブカブカの黒Tに、ジーンズ。そして背中に背負ったギターケース。

 バンドマンらしき男は、そのいかつい恰好とは裏腹に愛嬌のある顔つきを曇らせて、私に訴えかけてきた。小さな垂れ目には、焦りがにじんで見える。

「降りないから」

「ほんと?」

「ほんと。もう降りたし」

「え? どこから?」

「夢から」

「……夢?」

「うん」

 夢という言葉の、ふわふわとしたおぼつかない語感に、不思議な感覚を覚えた。この言葉を声に出して言うのは、思えばかなり久しぶりのような気がする。

 私の手をやっと離したお人よしのバンドマンは、柵に手を掛けて、川をのぞき込んだ。

「おれ、てっきり川に飛び込もうとしてたのかと思ったよ。何か落としてたから、拾いに行こうとしてるのかなって」

「落としてないよ。捨てたの」

「何を捨てたの?」

「夢」

 片方しか見えない眉が、ぎゅっとひそめられた。そして、男はひどく真面目な口振りで、

「公共の川にものを捨てるのは、よくないよ」

 と、私を咎めた。そこか。いや、確かにその通りだけれど、もっと他に言うことはなかったのか。

「うん、捨てるのは、やっぱりよくない。今から拾いに行こうよ」

「無理だよ」

「なんで?」

「バラバラにちぎっちゃったもん。もう手遅れ、拾えない」

 夢は、一度捨てたらおしまいなのだ。いまさらかき集めて拾っても、もとの純粋な形には戻らない。

 片方しか見えない眉が、今度はへにゃりと困った形になった。男はしばらく、「あー」だの「うー」だの、意味をなさない呻き声をもらしていた。

「……夢を捨てて、君はこれからどうするの?」

「別に。現実に帰るだけよ」

「えー、ほんとにやめちゃうの?」

「私が何を捨てても拾っても、あんたには関係なくない?」

「関係なくないよ! 誰かに夢を届けるのが、俺の夢だもん」

 男はくるりとその場で回って、黒いギターケースを揺らして見せた。男とまっすぐに目が合った時、黒い瞳が夕日に反射して、直視できないくらいに眩しかった。

「よし。よしよし。わかったよ。じゃあこうしよう」

「何」

「今から俺が夢を提供するからさ、それを代わりに持っていってよ!」

 そう言うが否や、男はケースをコンクリートの上に置いて、ギターを取り出した。

 何それ。意味わかんないんですけど。あんたがただ歌いたいだけじゃない。

 男は歌いだした。日はいつの間にか落ちて、星のない都会の空は、街の光で明るんでいる。ところどころ音が外れている、なんの捻りもない歌だった。

 最後のフレーズまで歌い終えた男は、嬉々として私に感想を求めた。私は答えた。

「へたくそ」

 小さく笑みをこぼす。そういえば、私は今日、初めて笑った。

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リスターター 回めぐる @meguruguru

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