第2話 時空斬り

立ち合うと決めた更木一刀斎に迷いは見えなかった。その態度に、恭之介は心の中で賞賛を送る。


 一刀斎が右耳の横で刀を構えた。天下無双の名に恥じない大胆な構えだ。激しい熱がこもった剣。この熱い剣で、幾人もの遣い手を斬ってきたのだろう。


 しかし、差は歴然だった。恭之介はかすかな切なさを感じながら、地に刀の切っ先を向ける。一刀斎とは対照的な下の構え。 


「いつでもどうぞ」


 恭之介の声には答えない。ただ静かな集中。恭之介もわずかな心地よさを感じた。


「ふっ!」


 一刀斎が鋭く息を吐く音。


 斬撃。恭之介は一歩前に出て、暮霞を跳ね上げた。入れ違った形となり、背を向けあう。何かが地に落ちる音。


 音の正体は、一刀斎の腕が落ちた音だった。腕から上半身も斬られた一刀斎はそのまま地面に沈んだ。


「最後に尋常な立ち合いができて良かったです」 


 そう呟くと、恭之介は残された男たちに体を向けた。


「更木一刀斎殿と私の立ち合いは終わりました。ゆえに、これ以上血が流れるのは無意味だと思います。これで終わりにしませんか」


 恭之介の言葉を聞いて、侍たちは互いの顔を見る。何かを探り合っているようだ。


「行くぞ」


 それだけ言い、武士たちは一刀斎と仲間の死体を担ぎ、全員駆け去った。


 思わずため息をつく。疲れるほどの立ち合いではなかった。しかし、徒労感が身を包む。心が疲れたのだ。


 尋常な立ち合いだったとはいえ、身分があり名の知れた一刀斎を斬ってしまった。腕試しの者も増えるだろうし、もしかするとお尋ね者となり、更なる刺客が送られてくるかもしれない。


 これまで強者たちとの立ち会いは、強くなるためと恭之介自身も望んでいた。しかし、今はわずらわしさと虚しさが大きい。自らが天下無双となったからそう思うのか。


 いや、それが理由ではない。強さに果てはないし、更なる強者がどこかにいるに違いない。そう考えると、これまでと同様に強さを追い求める道もある。しかし、これ以上強くなってどうするのか。腕試しに来た者や刺客たちを斬り続けるのか。


 虚しい。自分は何のために強くなったのか。


 幼いころは、道場の師範だった父に従い、鍛錬をしていた。しかし、家を出て更なる強さを得るための一人旅をするようになってから、少しずつ強さの使い道を考えるようになった。


 強くなって何をするのか。どんなことができるのか。


 ただ具体的なことは思いつかなかった。考えるよりも強くなることを優先したせいもある。ただ、どこかで自分の力が役に立つのではないか。そんな希望を抱いていたからこそ、いつ死ぬかもわからない修行を続けることができた。 


 だが自分の居場所が見つからないまま、今日という日を迎えてしまった。指南役や用心棒など、自分を雇おうというところはあっても、そんなところで本当に自分の力が活きるだろうか。強くなった意味があるだろうか。残念ながらそうは思えない。おそらく身も心も腐っていくだろう。それだけはよくわかる。



 きっと、この太平の世に自分の居場所はないのだ。



 だが、それは良いことなのかもしれない。力が物言わない世の中は、決して悪いものではないのだろう。しかし、そうすると自分は何のために強くなったのか。結局、同じようなところで、思考は堂々巡りを続ける。


 きれいな満月だった。月の光が、草にかかった血を別の物のように照らしていた。しかし、恭之介は何も感じない。血にも死体にも人を斬ることにも慣れてしまった。


 人を殺すことに慣れている人間など、平和なこの世に何人いるのか。己の業の深さを感じる。


 悲しみとも怒りとも言えない、自分でも説明できない感情が心を支配する。しいて言うならば虚しさだろうか。


 ふと手元の刀を見る。家を出てから常にかたわらにある暮霞。


 小さな道場だった実家には似つかわしくないほどの名刀だった。祖先が手柄を立てて、下賜されたという。今は恭之介の佩刀である。


 地面に落ちていた着物の端切れで刀身をぬぐった。幸いあまり血はついておらず、拭くことできれいになった。


 虚しさを誤魔化すように、暮霞を構える。ゆっくりと振り上げ、素早く下ろす。それを何度か繰り返した。振るごとに気持ちが澄んでくる。


 体の位置、振り方、足の運び、それぞれ少しずつ形を変えながら、素振りを続けた。何度も繰り返してきたことだが、いつも新たな気づきがある。


 幻想的な月夜だった。


 獣の息吹も虫のざわめきも感じない。世界から切り離されたような空間。


 刀を振る音すら包み込む静寂。恭之介は、無心にただただ暮霞を振り続けた。


 ふと不思議な感覚に包まれる。


 気持ちが妙に研ぎ澄まされ、それでいてどこか不安になる心の置き所のない感覚。


 腕が上がるときに感じるものに似ていたが、いつも以上に強烈な感情の揺らぎだ。


 恭之介は虚空を見つめる。


 ある閃きを感じたからだ。当然ながら、そこに斬れるものなど存在していない。しかし、なぜか斬ってみようと思った。自分は空間を斬れる。確信に近いものがあった。


 暮霞を振り上げる。一瞬息を止め、そのまま素直に振り下ろした。


 次の瞬間、恭之介はあるはずのない手ごたえを感じた。


 虚空には、漆黒の刀傷のようなものが現れた。


 裂け目は、見ているだけで吸い込まれてしまうような黒さである。


「……中に入れそうだ」


 不可思議なことの連続だが、恭之介は妙に落ち着いていた。そして、いつの間にか虚しさは消え、かわりに好奇心が恭之介を支配している。


 そしてそのまま好奇心に突き動かされ、恭之介は漆黒の裂け目をくぐった。

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