第31話

「旦那様、何をお求めですか?」

「殺鼠剤を頼む。メイドが買い忘れたと家内がヒステリーを起こしてね、大急ぎで出て来たところさ」

「ご苦労、お察しします。大きなお屋敷ほど、その種の被害は甚大ですからね」

 チャリングクロスロードと交わるケンブリッジサーカスからやや入った場所にある雑貨屋。

「?」

 トム・ボローは顔を上げてカウンターの隣に立ったその紳士へ視線を向けた。だがすぐに鼻先へ突き出された大きな包みが小柄な少年の視界を塞ぐ。

 馴染みの店員が笑顔を添えて言った。

「トミー、お待たせ! いつも買出し、大変だな。お袋さんが早く良くなるよう祈ってるよ。今日もキャンディをおまけしといたからな」

「あ、いつもありがとうございます」

 受け取った包みを抱えて店の外へ出ると待たせていた弟たちが我が家へ向かって一斉に駆け出そうとした。

「待てよ、まだ走るな、転んじゃうぞ!」 

 小さな弟たちをトム・ボローは叱咤した。

「1インチでも動いたら棒キャンディは無しだ」

「えー」

「やだぁ!」

「見て、見て、僕は動いちゃいないよ、兄ちゃん!」

「よし!」

 一緒に歩き出そうとした次の瞬間、顔が強張るのが自分でもわかった。

 今、追い越して行った男――雑貨屋で隣り合わせた紳士だ。その姿を改めて頭のてっぺんから爪先まで眺める。

 シルクハットを被り、頬髭を生やし、山羊革の手袋を嵌めた手にはステッキ、グレイのウィンドウペン地の4つボタン三つ揃えスリーピース、そして……

 トムは大きく息を吐くと、まず膝を折って弟たちに言った。

「ジミー、ウリー、おまえたちは一個ずつ、この包みを持て。ダニーは二人が落っことさないか、後ろから見張り続けろ。三人とも透明人間になって誰にもぶつからず無事家まで帰り着いたなら、一本ずつキャンディを食べてよし。以上、指令はわかったな?」

「アイアイサー、兄ちゃん!」

「兄ちゃんはどうするの?」

「俺は用ができたのであとから帰る。これから、兄ちゃんも透明人間にならなきゃならない」

 トム・ボローは身を翻すとさっきの紳士を追いかけた。

 足を止めたのは一度だけ。路上に靴磨きを見つけた時だった。トミーは駆け寄ると早口で告げる。

「緊急事態だ。速攻でマードゥに伝えてくれ。俺が〈頬髭の男〉を追跡してると」

 靴磨きは赤い上着の裾を払って立ち上がる。

「誰かと思えば、トムか。了解!」

 トムは再び追跡を開始した。


「おい、トム、頬髭野郎を見つけたってのはホントか?」

 そう言って肩を叩かれたのはおよそ5分後。バーリントンアーケードの前に差し掛かった時だ。  

 ロンドンで最初にして最長のそのアーケード街には入らず、男はそのままピカデリー大通りを進んで行く。

「マードゥ、見えるか、今、宝飾店の看板の下を行く、あいつがそうだ」

「どうして、あいつ・・・だと思ったんだ?」

 赤い靴磨き集団のリーダーはトムが指差した男をじっと見つめて一瞬顔をしかめた。

「なるほど。頬髭と服装か? だがおまえ――」

 いぶかし気に同僚を振り返る。

「キース・ビー警部がシャカリキになって探し回っては引っ張って来た〈頬髭の紳士〉たち。一体何人いたことか! でも何十人見てもおまえは一度も首を縦に振らなかったじゃないか。そのおまえが今日はどうして『あいつだ』と言い切れるんだ? その根拠を俺は知りたい」

「靴だよ」

 トム・ボローは胸を張った。

「マードゥ、俺は言伝ことづてを頼まれた時、顔はよく見なかった。靴磨き協会の教え通り、手抜きは一切せず懸命に靴を磨いていたからだ。さっき擦れ違いざま見たあの紳士の靴――」

 目を閉じて、スラスラとトム・ボローは言った。さながら詩を暗唱するように、

「内羽式のレースアップブーツ……爪先はパンチドキャップ・トゥ……サイドは切り返しが踵まであるロングヴァンプ……絶対、ノーザンプトンの新進の靴屋エドワードグリーン店製だよ。あのタイプはその店が特許を持っているから、ロンドンではまだあんまり見かけない。俺もあの時、初めて見た」

 トミーは目を開けた。

「ただ、実物を再び見ない限り確信が持てなかった。でも、さっき、俺はこの目・・・で確認した。間違いない。あの日、俺にアンソニー氏へのメッセージを託したのはあいつだ」

「そこまで言うなら――よし、俺も加勢するぜ」

 勢いよく上着を脱ぐとそれを丸めて右腕に抱えるマードゥ・ウォード。

「トム、おまえ、今日が非番で良かったな! 商売には人目を引いていいが、尾行するのにはこの赤い上着は派手すぎる――」

 この日のトム・ボローは、病身の母がベッドの中で仕立て直した、亡き父のお古のジャケット姿だったのだ。

「さあ、見失うなよ。今日ばかりは俺たち靴磨きも、尻の重い〈地の番犬〉は返上だ。〈風の猟犬〉になってメッセンジャーボーイのお株を奪ってやろうぜ!」


 同時刻。

 根が生えた如く椅子に腰を据えているのは、そのメッセンジャーボーイ、ヒュー・バードだった。

 グッドヴィル家の書斎には窓いっぱいに明るい初夏の日差しが降り注いでいる。

 陽光の中、取り敢えず目の前にある品々――カード、リボン、冊子をヒューは凝視し続けていた。


 ―― 悪魔はブーツの中です。


 俺とエドの腕を掴んでウェルはそう言った。リボンがウェルのものだとしたら、一番しっくりくる。

 シャトレーンに屋敷内の全ての鍵を吊るす家政婦長のウェルが二代に渡る脅迫状を見つけ、誰にも告げられず恐ろしくなって隠し続けて来たと言うのは納得できる話だ。

 リボンがエメットのものなら?

 新参者で若いメイドのエメットが最近、偶然屋敷内で脅迫状を発見して、どうしてよいかわからず甲冑の中に隠したと考えることはできるだろうか? ウェルはそれを見つけただけで?

 しかし、それならケネスだって有り得る。ボンボンの包みを縛った彼が、同じリボンで脅迫状を括って隠した。彼もリボンを持っていたというのは事実なのだから。

 とはいえ、ケネスは過去、屋敷の中には出入りしていないと証言している。その彼が脅迫状を見つけ、更に最上階の武具庫に隠すとは思えない。だが一方、料理人は罪を犯すことの容易な〈洗礼していない片腕〉を持っている――

 ヒューはリボンから目を逸らした。

 リボンはやめだ。こんがらがってしまう。やはり原点に戻って考えてみよう。エドワード・グッドヴィルが冊子に記した言葉……

 

 WATCH DEATHWATCH


 この言葉を隠喩的で象徴的な〈死んだ時計〉ではなく、そのまま〈死番虫〉と考えてみたら?

「死番虫に注意せよ、死番虫を見よ、か……」

 ヒューは書棚を見渡した。英国の貴族の図書室及び書斎には必ずあるべきブリタニカ百科事典を見つける。この書物ENCYCLOPEDIA BRITANNICAは1768年に初版が販売されている。

 頁を繰って、そのままヒューは固まってしまった。

 (これだ。クソッ、何故もっと早くこのことを思いつかなかったんだろう!) 

 その頁には降霊セットに置かれていたのと同じ、緑のインクで線が引かれていた。


 【死番虫:Deathwatch beetle】

 :マダラシバンムシは鞘翅目シバンムシ科、シバンムシ類。

 :穿孔虫で古い家具や梁などの広葉樹の木材(特にオーク、クリ)を食す。

 :穿孔する際に孔道の壁面に頭や顎を打ち付けてカチカチ音を発する。

 :俗信によればこの音が迫りくる死の前兆と信じられていた。

 :死を告げる虫、死の番人、それ故にこの名がもたらされた。

 :欧州、北米、アジアに分布。

 :オーク材を使用している19世紀以前の英国の建物は

  ほぼ全てこの虫の食害を受けている。


「これだ、これだったんだ!」

 ヒューはテーブルに戻るとエドワード・グッドヴィルの残した冊子を開いて、改めて最後の頁を読み返した。

「なんてこった! そう言うことだったのか……?」

 その時、書斎のドアが大きな音を立てて開け放たれた。

 飛び込んできたのは――



※現在では老舗の、英国エドワードグリーン靴店の創業は1890年です。

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