第15話
悪魔は逃げる間を与えず飛びついて来た。
「ぎゃああ!」
「なんだ、新月じゃないか! 久しぶり、元気だったか?」
「ニャアー」
「挨拶なんていいから、エド、早くこいつを俺から引き剥がしてくれっ」
黒猫はロイター卿自慢の灰色のジャケットの胸にしっかりと爪を立てて憑りついている。
「んー、ダメだ、離れないよ。無理にやったら暴れて引っ掻かれちゃうかも。危険すぎる。仕方がないから飼い主の元へ行って取ってもらおうよ、ヒュー」
「嘘だろ? このまま? 猫を胸に張り付けた状態で通りを歩いて行けっていうのか?」
新月は、オックスフォード街と交差する一画、オーチャード街の細い路地にある薬屋で飼われている黒猫だ。何故かヒューに懐いている。そのヒューは無類の猫嫌いだというのに。
とはいえ、結局、ヒューはエドガーの案を受け入れた。誰だって悪魔の爪に引き裂かれたくはない――
「ようこそ、我がタルボット薬屋へ。こりゃまた最高に素敵な図柄だな。いつからロイター卿のメッセンジャーボーイは猫まで届けてくれるようになったんだい?」
ロンドン大火後に建設された三階建ての棟割住宅がくねくね続く路地の果て。
実際、ここへ辿り着くまでの道すがら何人の人に同じ言葉を投げかけられたことか。怒りと恥辱に震えながらヒューは努めて冷静な声で嘆願した。
「いいから、早くこの悪魔を引き取ってくれ」
何のことはない、猫はピョンと薬屋のモザイク模様の床に飛び降りた。身を翻して立ち去ろうとするメッセンジャーボーイに笑いながら薬屋は声を掛ける。
「待ちたまえ、猫プレミア便のお礼にお茶とお菓子を御馳走するよ」
「やったー!」
言うまでもなく、喜びの声を上げたのはエドガー
薬屋の店主アシュレー・タルボットは屋上の硝子張りの温室庭園で各種薬草を育てている。毒花も混じっているが、良い薬ほど毒にも薬にもなるというのが彼の持論だ。また、それら草や木の実は美味しいお菓子やお茶にもなる。今日も
むっつりと口を噤んだヒュー――と言うのも結局椅子に座ったとたんに黒猫が膝に飛び乗って来たからだ――に代わってエドガーが、今自分たちが関わっている事件について、そのあらましを語った。
「……それで、僕たちがせっかく偽物の赤いメッセンジャーを追いかけて来たと言うのに、行き詰っちゃったというわけなんです」
「モールス信号の鬼火とは流石、近代都市ロンドンだな。しかも、囁いた言葉がWATCH DEATHWATCHとは、洒落ている」
「フン、あんたの母国アイルランドは妖精の国だものな。さぞやグッドヴィル家の、腰に鍵をジャラつかせた家政婦長と気が合うだろうよ」
ヒューの憎まれ口に薬屋は澄ました顔で言い返す。
「家政婦長の出身は何処だって? スコットランド? なるほど、あそこも妖精には事欠かない。僕たちアイルランドとスコットランドは古代ゲール語圏だから美しいものをたくさんを共有してるのさ。妖精だけでなく、神の名や物語やバラッド……ロンドンっ子の君たちが書物でしか知りえない美しい世界だ。羨ましいだろう?」
「グ」
痛いところを突かれた。薬屋の青年は銀色の髪に黒い目をしている。漆黒の髪と灰色の目のヒューとお互いがネガのように見える。実は猫以上にこちらの方がヒュー・バードの天敵なのかもしれない。
「ところで君たちの同僚のメッセンジャーボーイが見たと言う、緋色のドレスを纏った幽霊が持つていたのは屍蝋燭なのかもしれないぞ」
パイを平らげたエドガー、次に手を伸ばしたビスケットを掴んだまま飛び上がった。
「屍蝋燭?」
「そう。これはウェールズの伝承なんだが、幽霊が持つその種の火は人の死の予告だとか、それが灯った道を近いうちに葬列が通るとか言われている」
「死の予告? じゃ、緋色の幽霊はアンソニー氏の死を告げてたってこと?」
「かもね」
ロンドンっ子を怖がらせるのはこの辺で充分だ。アシュレーは真顔に戻った。
「まぁ、僕としては、この件で一番興味を惹かれるのは〝静かな溺死〟ってところだな。気づかれなかった水死……肺にたまった水……」
お茶を注ぎ足しながら薬屋の青年は首を傾げる。
「以前、似たような話を聞いた気がする。何処だったかな……」
唐突にヒューが立ち上がった。ちょうど黒猫が膝から飛び降りたのだ。この機会を逃がすわけにはいかないとばかり、別れの挨拶をしてドアへ向かう。
「じゃ、これで失礼するよ、アシュレー。美味しいお茶とお菓子を御馳走様」
「って、ほとんどなにも口にしてないじゃないか、君」
「僕の方はホントにご馳走様でした、アシュレー! そうだ、今回の事件に関して、何か気がついたり思い出したことがあったら是非また連絡してください」
実際たらふく味わって大満足のエドガーは丁寧に挨拶をした。その耳を引っ張って小声でヒュー、
「馬鹿、余計なことを言うな。薬屋の連絡って、それは黒猫を遣わすってことだろ? 俺はご免被るからな」
更に、薬屋から表の通りへ出るや、肩をいからせてヒューは言った。
「おまえんちへ戻るぞ、エド。石鹸を貸してくれ。猫の匂いを落としたいんだ。でないと気が狂いそうだ。このままじゃ仕事なんてできない」
ヒュー・バードの猫嫌いは筋金入りなのだ。
こうして一旦サヴィル・ロー通りのエドガーの家へ戻った二人。
流しで、汚れが良く落ちると評判のファミーユ社製のレ・シャット石鹸を派手に泡立てて、肘から手、首、顏を丹念にヒューは洗った。その後ろには甲斐甲斐しくタオルを持ってミミが控えている。
玄関をノックする音を聞いてエドガーは吃驚して飛んで行った。
母が勤め先から帰るには早いし、訪問客など
ドアを開けると立っていたのは意外な人物だった。
「……君は、トム・ボロー?」
靴磨きの少年は赤い帽子を取るとつっかえつっかえ言った。
「マードゥは僕のことを正直で信頼できる仲間だと言ってくれた。だから、来たよ。僕がその言葉に値する人間であるために」
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