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 ナナフシの着た服は、色は同じであるものの大タヌキのそれに比べて生地が丈夫でかつ上下に分かれたものであった。そして、手にはめられたゴム手袋。顔を覆うマスクにゴーグル、頭にのった同色の帽子が示す答えは、大タヌキとの関係性だ。ナナフシは、医者であったのだ。ならば大タヌキは。当然、患者であろう。




 「先生。堪忍してくれ!」




 「そんなものを食べてごらんなさい。折角下がった血圧が、また上がりますよ。そうしたら、次に手術ができるのがいつになるかわかったもんじゃありません!」




 声を荒げる二人を前に、店主は、ようやく状況を飲み込みつつあった。察するに、何らかの手術を前にして逃げ出した大タヌキを医者であるナナフシが追ってきたのであろう。




 三か月前のあの日、ナナフシはここ「雷来軒」で如何にも不健康そうな大男を見つけた。そのあまりの巨体、土色の肌、そして巨大なラーメンを貪る大タヌキを、ナナフシは医者として見過ごしておくことができなかったのだ。大好物の「こってりラーメン」を前にして、意を決し先に店を出た大タヌキを追った。そして、ナナフシは自らの素性を大タヌキへと明かし、自らが勤める病院で検査を受けることを薦めた。




 検査の結果は、当然のごとく芳しいものではなかった。むしろ、最悪といっていい状況であった。ありとあらゆる成人病を身に宿した男を前に、ナナフシはラーメンか健康かを迫った。まさにデッドオアアライブ。大タヌキも、如何にラーメンが好きとはいえ自らの命と天秤にかけられれば他に選択の余地などない。ナナフシに言われるがまま、すぐさま入院することとなり様々な医療的処置を受けることとなった。大タヌキも、しばらくの間は大人しく体を労わった。




 しかし、それが3か月目にもなると我慢も限界だ。やせ細った身体が、あの油に満ちて香ばしい匂いを立ち上らせるラーメンに焦がれだしたのだ。あとは御覧の様である。病院を抜け出した大タヌキの素足は、来々軒を具えるこの山へと向いたというわけだ。




 「でもよう先生ぇ。手術が終わったって、すぐにラーメンが食えるようになるわけじゃあ無いんだろう? 俺はもう我慢ならねえ!」




 「あっさり出汁のラーメンを病院食で出すよう指示を出しますから。それなら、手術後一週間も経てば食べられるようになりますから!」




 「ここのラーメンじゃなきゃ駄目なんだよう!」




 大タヌキの丸い目が、不気味に光った。もはや問答は無用と言わんばかりにラーメンへと向き直り、大きく息を吸い込む。




 「俺はこの命にかけても、このラーメンを食う!」




 「そんなことはさせない! こっちこそ人の命を救うのに命をかけてるんだ! 貴方に食べさせるぐらいなら私が全部食べてやる!」




 箸を振り上げた大タヌキに、ナナフシが組み付く。いくらやせ細ったといっても、大タヌキとナナフシでは決着は明らかだ。だが、ナナフシはその細い身体のどこに宿したものか、あらんかぎりの力で大タヌキの食事を阻止している。争う二人を前に、店主の思考はゆっくりと回り始めていた。




 大タヌキは言う「命をかけてラーメンを食う」と。対してナナフシは「命をかけて救う」と宣う。二人の人間が、それぞれの心情を前に命をかけてみせた。店主は、どちらに味方するでもなく二人の争いをただ見守ることしかできていなかった。二人のあまりの気迫に、自らがどこか場違いな人間であるかのように感じてしまっていたのだ。いや、大タヌキの目の前に置かれたラーメンは、それこそ店主がこの三か月の間、命を削って作り上げた新作なのである。ならば、この二人の物語に割って入る権利が俺にもあるはずだ。店主は、そう思いなおしこそすれ動けずにいた。




 せっかく作ったラーメンだ。誰かに食べてもらわなければ報われない。だが、もし大タヌキがこのラーメンを食べ、もろもろの結果死に至るとしたらどうだろうか。店主は、自らの命をかけてラーメンを作れこそすれ、誰かを殺す覚悟迄は持ち合わせてはいなかった。店主は、あまりの情けなさに泣きそうになっていた。ここは、店主の城「来々軒」であるというのに己だけが蚊帳の外にあるようで寂しくなったのだ。




 「ここは、俺の店なのに。俺がルールなのに」




 そう、この店は「雷来軒」。提供するのは、自慢の「こってりラーメン」のみ。完璧なバランスで生み出されたラーメンには、店主以外の如何なるものも手を加えてはならない。だから机には、辛子高菜もニンニク醤油もコショウすら置かれていない。






 朝九時の一杯目のラーメンの出来次第では、店の扉は開かれない。






 店主のハートがふと燃え上がった。




 「何人たりとも俺の店で好き勝手にされてたまるか。何が『命をかけてラーメンを食う』だ。俺の作った味には、如何なる者も手を加えちゃいけねえんだ。客の命なんてもん絶対にかけさせねえ。かけていいのは俺の命だけだ。それに、何が『私が代わりに食べてやる』だ。こいつは、朝九時一杯目のラーメンなんだ。食していいのは俺だけだ!」




 店主は、二人の間に無理やり割って入る。二人ともすごい力ではあるが、朝早くから徒歩で山を登ってきた身である。とても店主の腕力には適わず、ドンブリを奪われてしまった。店主は、恐ろしい勢いで麺をすすり、スープを飲み、燻製の玉子をかじった。みるみる失われていくドンブリの中身に、大タヌキがすすり泣き、ナナフシがあんぐりと口をあけてその様子を眺めている。




 店主は、ずずずっと最後の一滴までスープを飲み干し空のドンブリをドンっと机に置いた。






 「今日のラーメンはいまいちだ。帰ってくんな、今日はもう店じまいだ」




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