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 大タヌキの手術衣はところどころ生地が裂けており、更には靴すら履いておらず、土にまみれた素足には赤黒いものすら見て取れた。顔面一杯の汗も、健康的にかかれたものではあるまい。俗にいう冷や汗というやつだ。「雷来軒」は、その発する強いとんこつ臭が故に山奥に構えられた店だ。大タヌキの様子を見るに、とても車でやってきたとは思えない。




 「大将、聞こえなかったのか?」




 「いや、すまない。注文は聞こえていたさ。しかし、お客さん。その恰好は一体……?」




 目の前の状況に、店主は半ば混乱していた。あんな格好で山を登ってきたのか。いったいどこから。いや、どうして。いやいやいや、そんなことより財布は持っているのか。通常では考えられない状況に、疑問が疑問を呼び思考が定まらない。




 「大将! 俺はアンタのラーメンを食うために命を懸けて、ここまで来たんだ!」




 大タヌキの「命がけ」という言葉に、店主はハッとする。この店において常に命を懸けていたのは、他ならぬ店主に違いない。それが、一常連客に過ぎない大タヌキから口から「命がけ」なんて飛び出るとは思いもしなかったのだ。思考は定まらないが、厨房には店主のルーティーン「朝九時の一杯目のラーメン」の材料が控えている。材料はあるのだ、そして店主は注文を受けた。加えて言えば、今日のラーメンはこれまでの「こってりラーメン」とは、文字通り一味違う。進化した「こってりラーメン」を自分以外の誰にかに早く食べさせてみたいという欲も相まって、店主の体は厨房へと流されていった。




 店主の脳内は、疑念に溢れ相変わらずの混乱状態だ。だが、厨房に入ると体に染みついた動作が自然と繰り出される。スープはいい具合に煮詰まってきている。白髪ねぎを細く刻み、瓶からメンマを取り出す。チャーシューは、薄すぎず熱すぎず。スープの熱で、中まで十分温まるぐらいがベストだ。そして、昨晩の内に燻しておいたゆで卵。こいつがあるのと無いのじゃ、段違い。さあ、机に並びますは来々軒が最高の一杯「こってりラーメン」だ。




 「へい、お待ち」




 大タヌキは目の前に置かれたどんぶりを前に、感極まっている。震える手を何とか抑え、割りばしへと手を伸ばす。静まり返った店内に、割りばしの割れる音が響いた。




 「いただきま―――」




 「だめだ! それを食べては死ぬぞ!」




 店内に、店主でも大タヌキでもない、三人目の声があがった。まだ開店前だというのに、なんと慌ただしい一日であろうか。本日、二人目の来訪者。大タヌキと同じ青色の服をまとったナナフシであった。




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