くじらの夜

山原倫

くじらの夜


「夜の学校には、くじらが泳いでいる」



 どこの誰から聞いたのかも覚えていないけれど、そんなウワサを耳にしたことがある。

 わたしだってもう小さい子供ではないから、ウワサを真面目に信じていたわけじゃなかった。けれど、事あるごとにそのくじらのことを考えてしまって、頭から離れなかった。誰もいない校舎の中を、くじらは悠々と泳ぎまわり、教室や職員室、校長室をひと口に飲み込んでしまうのだ。グラウンドを泳ぐくじらを下からのぞくと、星々が透けて映っていて、まるで夜空が泳いでいるかのように見える。

 授業中もくじらの妄想にばかりふけっていて、今日だって先生に怒られてしまった。クラスの人にも笑われて、わたしはいっそう妄想の世界に逃げこむようになってしまう。なんとか授業についていけるようにしようと、遅くまで教科書を開いてみているけれど、眠くてぜんぜん集中できない。

 えんぴつを放り出してイスに背中を預けると、カーテンの隙間から真っ黒な空がのぞいていた。カーテンを引くと、空にはまばらに星が散らばっていて、あとすこしで満月ってくらいの月がぽっかり浮かんでいる。わたしは急に思い立って、イスから勢いよく立ち上がった。

 そうだ、学校に確認しにいっちゃえばいいんだ。くじらのウワサが嘘だって分かれば、授業にだって集中できるようになるかもしれない。

 わたしはさっそく、パジャマの上にジャンパーを着こんで、もこもこの手ぶくろをはめた。ちょっと考えてから、ちいさな懐中電灯もポケットに入れておいた。くれぐれも音を立てないよう慎重に階段を下りて、ぬき足さし足で玄関まで向かう。

 玄関のドアをそうっと閉めてしまうと、達成感や開放感のようなものが湧きあがってきて、勢い込んで玄関ポーチから飛び出した。外の空気は冷え冷えとしていて、新鮮なにおいがした。

 家からは早いところ離れてしまおうと思って、早足で学校までの道をたどった。朝に登校するときとはまったく違っていて、同じ道でも時間によってまるきり変わってしまうものなんだとそのとき分かった。悪いことをしているって背徳感と非日常からくるわくわくで、家を遠ざかっても早足のまま歩き続けた。誰かに見つかってしまうかも、という恐怖もちょっぴりあったけれど。

 夜の校舎は薄気味わるかった。真っ暗な夜の闇のなかに、クリーム色の校舎がずんぐり浮かび上がって見えて、明るいときよりもずっと不気味だった。いっそこのまま帰ってしまおうかな、といっしゅん諦めかけたけれど、そうしたら何も変わらないままだ。わたしは勇気をふり絞り、決意を新たにした。魔女の館に潜入するような心持ちで、わたしは夜の学校に忍び込んだ。

 昇降口まできてから、やっと自分の失敗に気づいた。ドアを押しても引いても、びくともしない。鍵がかかっているんだ。考えてみれば当たり前のことだった。そう簡単に忍び込めるわけがないんだ。わたしはがっくり肩を落とした。もっと考えてから行動すればよかった。だからわたしはだめなんだ。自分のあまりのバカっぷりが嫌になって、しばらく呆然としていた。情けなくて恥ずかしくて、涙があふれそうになった。けれど、こんなことで泣いてしまう方がずっと情けなくて、必死になって涙をこらえていた。

「ねえ、君」

 心臓が飛び出るほど、驚いた。わたしは反射的に声の方へ振り向いた。

 昇降口のドアに寄りかかって、こちらを見ている男の子がいた。わたしと同い年くらいの背格好で、この学校の制服を着ている。まるで物語の世界から出てきたんじゃないかという佇まいだった。男の子は、振り返ったわたしにうっすら微笑んで見せた。

「泣いてるの?」

 思わず手ぶくろで目元をぬぐった。頬がカーッと熱くなるのを感じて、「べつに、泣いてない」とぶっきらぼうに返してしまった。男の子はなおも薄い笑みを浮かべながら、わたしを見下すように「ふうん」とだけ言った。

 わたしはますますむかっ腹が立って、どう言い返してやろうかとそればかり考えていた。こういうとき、口下手なのが本当に嫌になる。

「入りたいの?」

 急な図星をつく質問に、わたしは二の句を継げなくなってしまった。

 わたしが口を開くより前に、男の子は「いいよ」と小さく呟いて、いともあっさりと昇降口のドアを押し開けた。口をあんぐり開けて、「え、だって」と驚いているわたしを余所目に、男の子はもう一度たずねた。

「入りたい?」

 言葉をつむぎ出すこともできずに、素直にこくこくとうなずいた。

 男の子はにっこり笑って、わたしが通れるようにドアの隙間を押し広げてくれた。わたしは混乱しながらも、おずおずと昇降口のドアをくぐろうとした。

「ただし、条件がある」

 いきなり声のトーンが上がって、わたしは肩をびくりとさせた。わたしの反応を待っているのか、黙ったままの男の子に「……なに?」と恐る恐るたずねた。

「探しモノをしてもらう。その代わり、探しモノを見つけられたら、君を手伝ってあげる」

 すっかり混乱してしまっていたわたしは、条件をのむ以外にしようがなかった。

 男の子が言うには、それは暗い中でも分かるほど明るくて、眼には見えないらしい。

「それって、矛盾してない?」

「そうかもね」

 やっぱりバカにされてる! 頼みごとを断れない性格をつくづく恨みながら、わたしは男の子の探しモノに付き合うことになった。肝心の探しモノについてはそれ以上教えてもらえず、「見つけられたらすぐ分かるから」の一点ばりだった。聞きたいことは他にもたくさんあったけれど、まずは名前くらい、と思ってたずねると、反対に聞き返されてしまった。

「君は? なんて言うの?」

 わたしが聞いたのに……。と不満を覚えながら、しぶしぶ答える。

「……アカネ」

「アカネ、か。……じゃあ、僕はヨル」

「よる?」

「そう、ヨル」

 まっすぐ前を向きながら、ヨルくんは堂々とした声音で答えた。

「ヨルくんは、なんで学校にいたの?」

「言ったろ。探しモノだって」

 あざ笑うような口調に、わたしはムッとして、口をつぐんだ。

「あかねはなにを探しにきたんだ?」

 どうして探しモノにきたことを知っているのかは分からないけれど、どっちにしたって「くじらを探しにきた」なんて口が裂けても言えない。そんなことを口にすれば、ここぞとばかりにバカにされるに決まっている。適当に「忘れ物しちゃって」とか言って誤魔化して、話題を変えた。

「学校で見たことないけど、何組?」

「無駄口きいてるヒマあったらちゃんと探せよ。手伝ってやらねーぞ」

 あんたも一緒にしゃべってたクセに! とは口に出さずに、わたしたちは黙々と捜索を続けた。各階ごとに教室を順々にまわり、持ってきていた懐中電灯で照らして、それらしいものがないか見てまわった。どの教室もなぜだか鍵がかけられておらず、簡単に入ることができた。最近の学校って意外と不用心なのかもしれない。

 ヨルくんの言う探しモノは、いっこうに見つからなかった。やっぱりからかわれてるんじゃないのか、と不安になって、「それってほんとにあるの?」と聞いてみると、「さあ。わからない」と平然と返された。

 二階、三階と回って、いよいよ残りの教室数も少なくなってきたころ、今まで押し黙っていたヨルくんがとつぜん口を開いた。

「ウワサ、知ってる?」

「……なんのウワサ?」

「くじらのウワサ」

 きっとその話だろうな、とすぐに勘づいたから、もう驚かなかった。

「夜の学校にくじらが泳いでるってやつでしょ」

 せいぜい小馬鹿にしたふうを装って言ってみたけれど、反面ヨルくんはあくまで真剣だった。

「もしくじらに出会ってしまったら、どうなると思う?」

 夜の学校というシチュエーションも相まって、わたしはごくりと唾を飲み込み、「……どうなるの?」と、恐々さきをうながした。

「さあ、知らない」

 ごす、とグーで肩を殴った。不平をこぼすヨルくんを尻目に、わたしは次の教室へ移った。

 最後の教室だった。これまで以上に念入りに、机やロッカー、教卓の中まで調べた。けれど、いくら探してみても、今までの教室とどこも変わりはなかった。

「ヨルくん、やっぱりないよ」

 視界を覆いつくすほどの巨体が目の前に広がっていて、ガラス玉のような目がこちらをしっかりと見すえていた。わたしはあまりの恐怖に腰を抜かして、その場にぺたりとへたり込んでしまった。懐中電灯が転がって、明かりが遠ざかっていく。

 巨大すぎる体は、まるで海そのものが形になったようで、わたしなんてひと口にのみ込んでしまうんじゃないか、と思わせた。経験したことのない恐怖に圧倒され、身動きひとつとることも許されなかった。

 ぎょろり、黒ばかりの目玉が動いて、尻もちをつくわたしの存在をみとめた。わたしの何十倍もある体には似合わない小さな目玉が、体の両わきに二つ、くっついているのだ。シンと澄みきった海中の静けさ。わたしとくじらは見つめ合っていた。

 ごお、と尾ひれを振ると、くじらは穴ぐらのような大口をあんぐり開いて、こちらに向かって泳ぎ出した。わたしは小さく悲鳴を上げて、ぎゅっと目をつむった。

 ざざあ、大海のようなうねりがつんざいて、瞼を上げた。

 水面に映る星のまたたき、きらめく水が光線を引いて、凄まじいスピードでわたしのすぐそばを流れ去っていく。次から次へとまばゆい星が湧きあがっては、輝かしい筋をたどって通り抜けていった。水の光は滝のようにわたしへ降りかかって、視界を埋めつくす。わたしは光の渦の中にぷかぷかと浮かんでいた。とめどない奔流にのまれ、身体の輪郭も消えかかって、海そのものと一体となりつつあるかのような心地だった。気持ちよかったけれど、同時に焦ってもいて、ふいに、光をつかまえなくちゃ、と手をのばしかけた。

 ハッと目を見開くと、くじらはいなくなっていた。振り返って後ろの窓に目をこらしてみると、遠い夜空に小さなくじらが泳いでいた。思い描いたとおり、くじらは夜空が泳いでいるかのようだった。米つぶほどになり、見えなくなってしまうまで、くじらを見送った。

 くじらと一緒にヨルくんの姿も消えてしまっていた。校舎中を探し歩いてみても、どこにも見つからなかった。ヨルくんを置いていくのは申しわけない気がしたけれど、学校で会う機会があったら、そのとき謝ろう、と決めて、わたしは家に帰ることにした。

 その日の夜は、くじらの夢を見た。夜空を泳ぐくじらを、わたしが飛んで追いかける夢。でも、くじらはとても速くて、ぜんぜん追いつけないのだ。ぐんぐん遠ざかっていって、見えないほどに小さくなってしまう。ほんとうにいなくなってしまったのかな、と不安になるけれど、ずっと追いかけ続けていると、またちっちゃなくじらが夜空にぽつんと浮かび上がってくる。

 以来、同じような夢を何度も見た。半年もするとくじらは出てこなくなったけれど、忘れたころになって、再びあのくじらを夢に見るのだ。しかし、くじらにも、ヨルくんにも、二度と会うことはなかった。

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