夕焼けケロイド

山原倫

 

 起きた心地のないまま、瞼を開けた。デジタル目覚まし時計の文字盤だけに仄かな光が灯っている。部屋中の空気によってたかってのしかかられているように身体が重い。わたしは適当な動機をこじつけて、布団に吸い付く身体をぐるりと仰向けた。重々しく垂れ下がった遮光カーテンからわずかに陽光が漏れ出て、畳の上に細い光線を引いているのが見える。頭上の辺りに左腕を伸ばすと、肌が突っ張った。

 手探りで探してみても、目覚まし時計の傍に置いたはずのスマホに触れられない。途中でスマホを探す作業を中断して、畳に腕を投げ出し、ぼんやり天井を眺めていた。暗い影の中に沈み込んで、天井のくすんだ色が溶け合い、白々と浮かび上がって見えた。

 太腿に何かがぶつかる。掛け布団の下に腕を突っ込んで出鱈目にまさぐってみると、ふいに指先に硬い感触があった。摘まんで引き上げてみれば、スマホだった。掲げるように持って、呆としたまま淡く眩しい液晶画面を見上げる。

 寝返りを打っただけで脳がふらふら揺れて、まるで意識を失うような心地だった。咽喉の奥にずっと吐き気が滞っていて、口内は少し苦い。気がつくと、わたしだけが世界に置いて行かれているように時間の進みが早かった。

 スマホを放り投げて、今度はあっさり布団から身を起こす。一晩シャワーも浴びていない身体がべたついて不快だったけれど、気にするほどの心のゆとりはなかった。

 立ち上がってみれば、通常の何倍もの重力がかかっているように身体が重く、誰かによって地面に押し込められているようだ。ぐらぐらと激しい立ち眩みが続いて、歩くこともできない。その場でぼんやり立ち竦み、眩暈が落ち着くのを待った。灯りをつけると、布団の脇に脱ぎ散らかしたジャージや下着を見つけた。それらを適当に拾い上げ、袖を通す。ふらふらした足取りであちこちにぶつかりながら、洗面所に向かった。


 外にはまだ日が昇っていて、澄んだ空に混じり気のない白がゆったりと流れていた。遊歩道沿いに植わった樹木は行儀よく整列し、石畳の上に黒い枝葉を伸ばしている。

 石畳を歩きながらひどく惨めな気分になっていた。右手に持ったコンビニのレジ袋がガサガサと耳障りな音を立てて、歩を進めるごとにジャージのポケットからは小銭が子煩く騒いでいる。

 わたしは半ばヤケになって、レジ袋から五〇〇ミリリットルの缶チューハイを一本取り出した。レジ袋を右腕にかけながら、プシュッと音を鳴らしてプルタブを起こすと、間髪入れずに呷る。人工的な甘ったるい味が舌を浸して、ピリピリと弾けながら胃の中へ落ちていく。一度もおいしいと感じたことのない味だけれど、アルコールを体内に摂取できるならどうだっていい。酔っ払っていれば、辛うじて世界に居座っていられる気がした。

 丸っこい形をしたパイプの柵が三つほど並んでいた。わたしはそこを通り抜けて、座れそうなところを探す。まだ出来たてという感じの滑り台やブランコが点在していて、小学生くらいの子供が何人か遊んでいた。眉間に皺が寄り、一瞬足を止めたが、すぐに諦めてしまった。見回してみるといくつかベンチがあって、子供の母親らしい若い女や夫婦なんかが陣取っていた。わたしは彼女らのいるベンチから一番離れた場所を選び、ゆるゆると腰を下ろした。

 まったく同じ缶チューハイがまだ二缶ほど入ったレジ袋を隣に置いて、飲みかけの酒に口をつけた。遠くのベンチに見える夫婦や子供の母親は、ドラマの中の登場人物のようにフィクションじみていた。彼女らは家に帰ってからどんな生活を送っているのだろう、と想像を巡らそうと試してみたけれど、うまくいかなくてやめた。

 酒を飲み干してしまって、まるであやつり人形みたいに残りの缶に手を伸ばす。

 ベンチのはしっこに、何か乗っかっているのに気がついた。

 腕を伸ばし、摘まんで手繰り寄せてみる。やっぱり肌が突っ張って取りにくい。それは、とても小さな手袋らしかった。黒地に灰と白のラインがそれぞれ一本ずつ入って、中央にプーマのロゴがある。もう片一方の手袋は見当たらない。きっとあの男の子たちのうち誰かのだろう、と考えながら、遊具で遊ぶ子供に目をやった。プルタブを起こし、再び酒を飲んだ。手持ち無沙汰の左手で片方だけの手袋を弄んでいた。

 徐々に回ってきた酔いに身を任せて、特にこれといった意味もなく左腕の袖を捲ってみる。腕を上げ、改めてしげしげと鑑賞すると、何だかでこぼこして、クレーターのようで気持ち悪かった。何本か入っている新しい傷痕は、浅いものの血の色が鮮やかだった。切ってから数日経った傷は赤黒く変色し、凝固し切ってしまい、気味が悪い。数年前のものはぱっくり割れて、赤紫色を露出させていた。

 満足すると、捲り上げた袖を戻して、缶チューハイを傾けた。

 リストカットの痕を眺めるのが昔から癖になっている。別に大した意味はないけれど、そうすることが何かの証明であるかのような、改めて納得しておく作業のように思える。たぶん他の人も似たようなことをしているんじゃないだろうか。

 一つひとつの傷痕にはそれぞれ思い出がこもっているから、いろいろ思い出すこともある。お母さんのこととか、セフレの男のこととか。言葉や情景が頭を巡って、ぐちゃぐちゃにかき乱されそうになる。今は安価な酩酊があらかじめかき乱してくれているから、どうだっていいこと。酒を勢い込んで呷り、喉を鳴らして飲み下した。

 酔っぱらって、羽虫みたいに軽くなった身体をベンチの背に預け、両足を投げ出す。魂の抜けてしまったように、ぼんやり放心していた。ブランコがゆれている。ゆら、ゆら、視線が彷徨う。子供の顔まではぼやけていて見えない。ひょっとして永遠に続くんじゃないか、と錯覚するほど、ブランコはゆれ続けていた。子供がジャンプして、飛び降りる。ブランコは急に支えを失ったように大きく傾いて、不規則にばたばたとゆれた。チェーンが波打って、台が弾ける。糸が切れたように力を失い、急速にゆれが緩やかになっていく。わたしはゆれが収まる最後まで、食い入るように見入っていた。止まってしまうと急に興味をなくして、視線を逸らす。

 雲が橙色に輝いて、空を蠢いていた。今際の太陽が最期の足掻きとばかりに空を焼き尽くして、見える風景すべてに朱く染み込んでいく。わたしには最後のとどめであるかのようで、肉体の輪郭線のぎりぎりにまでせり上がってきて、どうしようもなかった。

 じわり、視界がぼやけて、ぜんぶが曖昧に溶け合っていく。万物の輪郭がほどけて、ただの色の集合体に過ぎなくなる。ぼろぼろと涙の粒を落として、何度も息を吸い上げるようにしながら泣いた。途切れることなく嗚咽がつき上げてきて、息ができない。

 数分間か数時間か分からないけれど、しばらくの間そうして泣き続けていた。

 顔を上げると、いつの間にか、目の前に男の子が立っていた。

「それ、オレの」

 男の子は指をさして言った。わたしは彼の手袋をぎゅっと握りしめてしまっていた。泣き止むことのできないまま、黙って小さな手袋を差し出した。それを受け取ると、男の子はまじまじとわたしを見つめてから、「だいじょうぶ?」と尋ねた。

 必死に何か言おうとしても、しゃくり上げてしまい、言葉がつっかえて口にできなかった。何とか抑え込もう、神経を研ぎ澄ませようとしてみても、次から次へと涙が零れ、息苦しい。わたしは辛うじて笑顔を作ろうと試してみたけれど、うまくできたか分からない。

 気がつくと男の子はいなくなっていた。

 公園は嘘のように閑散として、遊具にもベンチにもひと気はなく、わたしだけがぽつんと残された。あんなに眩しかった西陽は雲散霧消して、昏い夜のとば口に落ち込みつつあった。冷ややかな夜風が肌を刺すように吹いて、身震いをする。

 わたしは何とか呼吸を整え、手の甲で濡れた目元を拭い去った。ベンチから腰を上げると、虚しい徒労感が身体全体にのしかかり、夜に引きずられるように鈍重に感じる。飲み残した酒はレジ袋の中に突っ込んで、公園のごみ箱にまとめて放り込んでしまった。バイト行かなくちゃ、と声もなく呟いて、公園を後にした。

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