息抜きの掌

たけすみ

第1話 カップの中のドラゴン

 病院の処方薬局には、小さな水飲み場がある。

 ウォーターサーバーと小さな紙コップのラックのあるタイプだ。すぐに飲む薬の服薬のためか、ただ単にのどを潤すのに使ってよいのかわからないほど、誰も使わない。

 ためしに飲んでみた。ただの常温の水だった。別段、誰も飲まないから古くなっているということもない。

 紙の容器を捨てようとしたとき、ふと気づいた。

 私の着たコートの袖の中に、小さな竜がいた。黄色い肌に白い腹、背負った皮膜は先にゆくほどに濃い褐色をしていた。目は金色である。

 握りつぶせてしまいそうな、あるいは何を食べるのかといえば羽虫かイトミミズのようなか細いイモムシの類いではないか、というほどの小さな竜だ。

 竜は、空になったカップに這うように入ると、底に残った水滴を糸のような細い舌でちろちろと飲み始めた。

 それを見て、私はその竜を羽虫のように払うことも、カップをそのまま捨てることもできなくなった。

 カップを手にしたまま、私は処方薬の順番待ちの席に座った。

 竜はしばらく水をのんでいたかと思うと、体を丸めて寝始めた。カップの底が居心地がよいのか、それともカップを握った掌の熱がそこにこもっているのかわからない。

 じきにレジカウンターの向こうから薬剤師が私の名を呼んだ。

 私は立ち上がり、カップをそっとコートのポケットに入れた。竜は、その拍子にコトトト……と音をたててカップの壁面を這い登り、私の手にあがり、ずっとそうしていたように私のコートの袖口の中に潜んだ。

 まるで、そこが巣穴のように。

 正直、少し気色が悪かった。

 羽の生えたカナヘビのような生き物が、服の中に入ったのだから、不快なのは当然だろう。だが、一方ですでに、私の中にこの小さな生き物にささやかな憐れみもわいていた。

 私は立ち上がり、呼ばれたカウンターに立った。

 処方薬はいつもと同じだった。

 睡眠導入剤、依存性の低い軽度の精神薬、そして胃薬である。

 薬代を払う財布を出そうとコートの胸ポケットに手を入れると、竜は袖口からそちらへ移った。どうやらより温かいところを求めているようだった。

 どこか適当なしげみにでも放さなければ、家に持ち帰ることになる。

 あいにく竜を飼うような用意は私の家にはない。別に大掛かりなものは必要ないだろうが、空の水槽すらないのだから、家に置きようがない。

 しかたなく、竜をつまみ出して、もう一方の手で財布を出した。

 そのつまみ持った竜をみて、薬剤師は「まあ」と声を発した。

「すみません、そんなところにいましたか」

 そういって、薬剤師はこともなげに竜を受け取った。そして竜をレジカウンター脇のオレンジの白熱球の当たった観葉植物の葉の上に置いた。

「ご迷惑おかけしまして」

「いえ……飼ってるんですか?」

 代金を出す間を埋めるようにそんなことを言い合った。

「ええ、そこの水槽あるでしょう? その中で飼っているのですが、すぐに出てきてしまうんです。今朝からいなくて、職員みんなでずっと探していたんです」

 そういって、薬剤師は私の背後を指差した。窓や観葉植物と同化して気づかなかったが、そこには確かに水槽があった。中はアクアリウムにはなっておらず、オレンジの発熱ライトの光が注ぐ植物と黒い岩が据えられている。モルモットやハムスターにつかうような水飲み器や、小竜飼育でよく見るクレイドル型のおもちゃなどもある。

 私はうなずいて、釣り銭と薬の袋を3つ受け取った。

 竜はあくびをひとつして、レジカウンター横のあたたかそうな人工のひだまりの葉の上で眠り始めた。

「飛んで逃げたりはしないんですか?」

「ええ、この種は羽が退化していて、飛び降りることはできても、コウモリのようには飛べないんです。羽の生えたヤモリみたいなものです」

 それだけきいて、私は「そうですか。それでは、また」と挨拶をして、薬局を出た。

 竜が手の甲を這う感触は、しばらく残っていた。

 小さな爪はするどいと言うより軽やかで、ほのかに温かかった。

 外の空気はまだ冷たい。

 あそこで薬剤師に気づかれていなければ、わたしはこの春と言うには遠く、食べ物も取れないような街中に、あの竜を捨てるところだった。

 それを思って、少し後ろめたい気持ちと、しっかりとした安堵が湧いた。

 まだ、小さな竜を愛でる程度の心の余裕はあるということにも思えて、少し浮足立って帰った。

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