狂騒(メリー・ゴー・ラウンド)
山中湖の北岸を高速で走っていく。
道志みちの本当に長い登り坂がようやく終わったので、ここで息を整えている選手は多かった。
2020年に開催予定だった東京オリンピックの自転車ロードレースコースでは、ここから山中湖を一周した後、籠坂峠を越えて御殿場市へと降りていく。
しかし四月時点では一部コースに残雪の影響があることから、市民レース『ツール・ド・日本一』では河口湖方面へ向かい、富士山の北麓を目指す。オリンピックコースよりも登り坂のきつさは緩和されているものの、レースはようやく中盤を過ぎたというところだ。
改めて考えてみても、厳しいコース設定である。一般参加者の中にはここ山中湖で
それを乗り越えて先頭集団に残っている20人弱の選手たちは、市民レーサーの中でも指折りの猛者だと言っていい。
薩摩ニシキも、その中にいる。
三人チームの『チームDTA』から二人を脱落させ、僕たち『パニアグア』はニシキを追い詰めたはずだった。もう彼の味方はいない。
山伏峠でのマダラさんとカズトのアタック合戦で活性化した集団が落ち着き、富士山でのヒルクライムに備えて力を蓄える選手が多い中、僕たちもニシキへの警戒が薄まっていた。
ヒカゲさんもマダラさんも『DTA』とのアタック合戦で消耗していた。ここは体力を温存する場面だろう、と判断して当然だった。
その油断を突かれた。
僕が振り返って確認すると、さっきまで集団の最後方に位置していたニシキの姿が消えていた。慌てて周囲を見回す。
いた――集団の前方。
得意の静かな加速によって、いつの間にか自分の位置を押し上げていた。
「ヒカゲさん、マダラさん、ニシキが」
僕は急いで異変をチームに伝えた。
補給食のエナジーバーを頬張っていたヒカゲさんは、ニシキが前方に移動したことに気づくと、すぐに口の中のものを飲みこんだ。
「野郎、もう仕掛ける気か?」
マダラさんが黙って前方へ移動しはじめる。ヒカゲさんと僕はその後に続いた。
ニシキを見失わないように目を配っておく――僕と目が合うと、ニシキは静かな自信が満ちた口調で告げた。
「お前たちとは格が違うことを教えてやる」
フロントギアをアウターに変速し、一見ゆったりと見える調子でペダルを踏み込み始めるニシキ。
いかにも「先頭を狙うぞ」という雰囲気がなかったので、僕たち以外の選手が追いかける様子はなかった。
そこから、一瞬で加速。
ニシキと僕たちの集団の間の距離差が100m以上に広がった。これは本気のアタックだ、というざわめきが先頭集団に起こったのは、そこからさらに数秒遅れてからだった。
「パンチ力のあるアタックをするじゃないか」
僕たちの風よけになって追走のペースを上げるマダラさんは、強気に笑ってはいるものの、呼吸が早くなってきていた。つい先ほど山伏峠でアタックを繰り返した疲労が残っているうえに、ニシキのスピードが速いので苦戦を強いられているようだ。
「『DTA』の他の二人は、身体能力は高くても、自転車乗りとしては素人に毛が生えたレベルだった。言うならば薬物に『使われている』連中だった。俺たちはそこに付け入ったわけだが――」
ヒカゲさんは唇を噛んでいた。
「――ニシキは厄介だな。あいつは学連レース時代から、そつのないアシストを務めていてレース運びが上手い。その経験に副作用が生じない程度の薬物を加算してトレーニングを積んでいる。薬物を『使いこなす』タイプだ」
僕は暗澹たる気持ちになった。
自転車ロードレースのような持久系スポーツで薬物を使用するのは
だが、ニシキのような相手に対してはどうすればいい?
才能がある。練習も怠っていない。そのうえでズルい手も使う。
そんな選手に、僕たちは正攻法で勝てるのか?
マダラさんが懸命にペースを上げているのに、ニシキとの差は徐々に開いていくように見え、焦燥感が僕の胸を塗りつぶしていった。
「マダラさん、
たまらず、僕は先頭を行くマダラさんに呼びかけた。同じ人がずっと先頭で風よけになるよりも、一定のタイミングで交代したほうがチーム全体の疲労を軽減できる。
しかし、マダラさんは首を横に振った。
「ダメだ、ローテーションは俺とヒカゲでやる。深山は体力温存だ」
「心配すんなシロウちゃん、お前さんは最後にニシキをかわしてゴールすることに集中してればいい」
そう言ってマダラさんに代わって先頭に出るヒカゲさん。山中湖から河口湖方面に向かう道は再び登り調子になるので、軽めのギアでペダルの回転数を上げている。
前を行くニシキのほうを見る。
一切後ろを振り返らず、一定のペースで淡々とペダルを回していた。ジャージに描かれた『DTA』の文字がくっきりと浮かび上がって見える。
誰も信じるな――ニシキはそう言っていた。
孤独に先頭を走る姿は、その信念を体現しているかのようだった。
(このままじゃ、まずい)
ヒカゲさんとマダラさんは「任せろ」と言ってくれているものの、ニシキはこのままゴールまで独走してしまいそうな気配がある。
対して『パニアグア』は疲労が色濃く、事前に打ち合わせていた作戦Cのようにスプリント勝負にもちこめるかどうか、雲行きが怪しい。
やはり僕もローテーションに加わるべきか。
その考えが何度も頭をよぎるが、問題は(1)僕がローテーションに加わったところでニシキに追いつけるのか、(2)追いついたところで三人全員が疲労しているようではどうやって勝つのか、という二点だろう。
(人手が足りない)
結論はそこに至る。
ニシキとゴール争いができる状態でレース終盤にたどり着くためには、もっと大勢でローテーションをしながらペースを上げて追いつく他にない。
それができないので、手詰まりだ。
前を走っていたヒカゲさんが右肘を上げてみせ、マダラさんに先頭交代を要求した。わずかな休憩をとったマダラさんが再び前に出る。
二人の表情は険しかった。
(どうする)
自問自答を繰り返していたその時だった。
「深山!」
後ろから名前を呼ばれた。
不思議に思って振り返る――声の主は、レーススタート前に声をかけてきた僕の同級生、薄葉だった。
かなりペースを上げて追いついてきたらしく、荒い息をしている。
「薄葉――」
「見てたぜ、お前のチーム『パニアグア』の走り」
薄葉の背後には、先頭集団で見かけた選手が何人もついてきていた。総勢で十人はいるだろうか。
マダラさんとヒカゲさんも脚を緩め、この追走グループとペースを合わせる。
「高根ヒカゲさんも浅木マダラさんも、狙いはあの『チームDTA』を倒すことなんだろう?」
薄葉の問いに、僕はうなずいた。見る人が見れば、僕たちのレースの目的は一目瞭然だったようだ。
ましてや、僕らに追いついてきたこの追走グループの市民レーサーたちは、厳しいコースに耐えて先頭グループに残った実力者ばかりだ。『チームDTA』がどういうチームで、どうしてここ一年で急に勝ちを重ねるようになっているのか、察している人がほとんどだろう。
「そいつは痛快だ。あのポっと出の『DTA』の鼻をへし折ってくれるなら、喜んで協力するぜ。なあみんな!」
薄葉が追走グループの選手たちに呼びかけると、おおっ、という声が上がった。今も大学の自転車競技部で中心的な存在を務めている彼は、こういう雰囲気づくりに長けている。
大学生や社会人――年齢も職業もバラバラな市民レーサーたちは、一丸となって僕らの前に出て先頭交代を開始した。
「中切れするなよ、回せ!」
「ペースキープ!」
「路面注意!」
レース慣れしている人ばかりなので、積極的にグループ内で声かけが行われている。即席のチームにもかかわらず、ローテーションもスムーズだ。
いかにも体育会系という雰囲気で、僕はこの雰囲気が苦手だったはずだが、今は不思議にそれが心地よかった。
「この援軍はありがたい」
「好意に甘えさせてもらおうかねぇ」
マダラさんは追走グループの後方に回り、ようやく呼吸を整えはじめた。ヒカゲさんも同様に脚を休めている。
「なあ深山、この後のレース展開なんだが――」
ローテーションの途中で僕の横に並んだ薄葉が話しかけてきた。
「――ひょっとして、高根ヒカゲさんも浅木マダラさんも、最後にお前でスプリント勝負をすることを考えてるのか?」
「うん」
僕は素直にうなずく。それが事前に打ち合わせていた作戦Cの中身だった。
作戦というには単純すぎるが、『チームDTA』のアシスト役を削ったうえで、万全の状態の僕と疲労したニシキでの一騎打ちというのが想定プランだ。
「そっか、信頼されてるんだな、深山は」
薄葉はバツの悪そうな表情をしている。
「悪かったな、足を引っ張るとか言って。お前の脚なら行けると思うぜ、頑張れよ」
そう言うと、薄葉は片手の拳を突き出してきた。
「ありがとう、頑張るよ」
僕もそれに応じて右手を上げ、軽く拳と拳を合わせる。ニッと笑って、薄葉は再び先頭交代へ向かった。
「大学生活はあと一年間残ってるんだ、キリのいいところで学連レースに戻ってこいよな!」
去り際に彼が残したセリフに、僕は思わず苦笑する。一度は自転車を見るのも嫌になって離れたはずの学連レースが、少し恋しく思えてきたからだ。
忍野八海の樹海が道の両側に広がり、その景色が高速で後方に流れていく。
(やっぱり、僕はレースが好きだ)
レース終盤かのようなハイペースさで進む追走グループの狂騒の中で、僕はそんな思いを胸に抱いていた。
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