接戦(クリフハンガー)

 ニシキが振り向いた。

 マダラさんも脱落し、残っている選手が僕だけだということを確認している。


「深山シロウ――!」


 怒りと憎しみのこもった調子で名前を呼ばれ、一瞬ひるみそうになった。

 しかし、今の僕の肩と脚には、僕をここまで連れてきてくれた多くの人たちの期待の重みが乗せられている。一歩も引けない。


「勝負だ、薩摩ニシキ」


 心拍数を上げすぎないように、努めて冷静に返す。


「貴様なんぞ、勝負になるか」


 そう言うが早いか、ニシキはバックポケットからソフトフラスクのチューブを取り出した。一年前にも見た光景だ。


鎮痛剤ペインキラー――トラマドール!)


 一息で中身を飲み干し、チューブを投げ捨てるニシキ。

 中身が禁止薬物であるということも、この富士山でゴミを投げ捨てていることも許せなかった。どうやっても、こいつは負かさなければならない。


(ヒカゲさんは、吸収を早くする工夫がされているはずだと言っていた)


 伊豆でヒカゲさんに聞いた話を思い出す。

 この状況での最善策は、ニシキが飲んだ鎮痛剤が血液中で薬効を発揮し始める前にゴール前で勝負することだろう。

 しかし、まだ御庭の坂も半ばだ。この坂を登り切って平坦な直線が続き、最後の緩やかな登りでゴール。今すぐにスプリント勝負にはなりそうもない。


(なら、真っ向勝負だ)


 チームメイトや周囲の選手が手厚いアシストをしてくれたおかげで、この『ツール・ド・日本一』で、僕は一度も誰かとのアタック合戦に加わらなかった。140㎞を走ってきた疲労感はあるが、気合と根性はまったく擦り減っていない。

 一方、ニシキは先ほどのマダラさんとの激闘でかなり消耗している。その苦しさを鎮痛剤で抑え込んでいる状態だ。

 条件はイーブン――と言っていいのかどうかはわからないが、勝負になる状態のはずだ。

 僕は毅然と前を向き、ニシキの横に並んだ。 


「それだ――それが気に入らない」


 憎々しげにニシキが呟いた。僕の表情のことを指して言っているらしい。


「スプリンターという人種はいつもそうだ。チームメイトから寄ってたかってアシストされて、大事にされて、ゴールの栄光を奪っていく。世間もアシストではなくエーススプリンターばかりに注目する」


 ニシキの口からそんなセリフが出てくるとは、意外だった。

 ヒカゲさんもマダラさんも言っていた――薩摩ニシキは学連レースでそつなくアシストを務めていて、派手な活躍をしたことがない、と。


「スプリンターをゴール前まで連れて走り、最高のスプリントができるようにリードアウトしてやる――アシストのリードアウトが無ければスプリントができないくせに、レースの勝利が全部自分のおかげだという顔をするスプリンター! アシストの俺と一緒に、プロチームに入ろうと誘ってきたスプリンター!」


 溢れ出してくる汗をぬぐいながら、自分の心中を吐露するニシキ。

 サイコンの表示によれば現在気温は5℃。下界の真冬の寒さなのに、汗が止まらないようだ。


「結局――プロ入りしたのはあいつだけで、俺には声がかからなかった」


 いろいろと腑に落ちた。ニシキが薬物に手を出した理由。


「クソ食らえだ、誰も信じるべきじゃなかった。自分一人で勝利を掴まなければならなかった。どんな手段を使ってもだ」


 周囲から勝利への期待を背負わされるスプリンターもつらいんだ、という僕が言ったところで、きっとニシキには届かないだろうと確信が持てた。


「医薬品メーカーに就職したのは都合がよかったよ。薬物の確保に有用な人脈もできたし、トモエやカズトのような、薬物目当てに寄って来るバカな手駒も確保できた――まあ、あいつらはクソの役にも立たなかったがな」


 御庭の坂がもうすぐ終わる。ここからは平坦路だ。


「市民レースを荒らしまわるのはいい気分だったよ。強豪レーサーなんて名乗るやつらも、一人では俺にかなわなかった。一人で勝利を掴む条件なら、俺が最強だったんだ」


 坂を登り切ったところで一度深呼吸し、最後の勝負に備えて態勢を整える。

 隣を走るニシキはそこで言葉を切り、ニヤっと笑っていた。


「――さて、スローペースに付き合ってくれて感謝するよ、深山シロウ。おかげで体力が回復できた」

「あ、一応戦術的な意図があってしゃべってたんだ」


 途中から真剣に聞いていなかった僕は、そうやってニシキを受け流す。彼のこめかみに青筋が立ったのが見えた。


「身の上話に興味はないね。どんな理由があろうと、あんたがやっているのは市民レースへの八つ当たりと憂さ晴らしに過ぎないんだから」


 僕たちの領域テリトリーの侵略者に、同情するつもりはなかった。

 改めてニシキに宣戦布告を突きつける。


「あんたは最低なドーピング野郎ドーパーだ。やっつけてやるよ」


 ペッ、と唾を吐き捨てるニシキ。


「クソスプリンターめ。吠え面をかかせてやる」


 僕とニシキは少し離れて横並びになり、お互いにスプリントを開始するタイミングを探り始めた。

 ニシキは鎮痛剤を摂取しているので、脚の痛みを無視して全力のスプリントを繰り出してくるだろう。真後ろについたのに抜き去ることができなかった、去年の展開を思い出してしまう。

 プランは考えていた。

 奇襲だ。

 ゴールまで残り1.5kmという地点で、僕はいきなりスプリントを開始した。


「ロングスプリントだと――」


 思ったとおり、ニシキが飛び出してくるタイミングは遅れた。さっきの身の上話で聞いたように、ニシキはスプリンターのアシストをやっていた経験があるらしい。

 それならなおさら、スプリントの『常識』を知っているはずだ。スプリントの開始はゴール手前数百メートル程度が普通で、長くてもせいぜい1km手前。この距離からのスプリントは想定外のはずだ。


 あとは、全力でペダルを回すだけ。

 スプリントは完全な無酸素運動だ。最初の数秒は苦しさを感じないが、ワンテンポ遅れて猛烈な苦しさと脚の疲労がやってくる。これを我慢して、できるだけ長く無酸素パワーを発揮し続けるしかない。


「浅はかだな、深山シロウ――!」


 ニシキの自転車の音が背後に近づいてくる。スプリントの出遅れを挽回すべく、猛烈に追い上げてきたようだ。


「薬物も使っていないお前が、長時間の無酸素運動を維持できるわけがない!」


 これはニシキの言うとおり。プロ選手でもこの距離を全力スプリントするのは難しいだろう。

 だから僕はマダラさんから教わったことを実行することにした。

 ヨーロッパのレースを参考にしろ、と。


「――なんだ?」


 それはニシキも困惑する独特なフォームだった。

 最終直線に入る手前で、思いっきり上半身を自転車の前に乗り出し、頭を下げる。姿勢を極限まで低くして、空気抵抗を弱めるのだ。

 マダラさんが参考になると言っていた、ヨーロッパのトッププロスプリンター――『ポケットロケット』ことカレブ・ユアンの超低空スプリントフォームだ。


「――クソがっ!」


 一度は背後に迫っていたニシキの自転車の音が、ふたたび遠ざかる。

 このスプリントフォームの強みは、姿勢が低すぎて、後ろにつく選手がまったく風よけ効果を得られないことだ。つまり、後方に位置するメリットが皆無になる。

 先行有利。

 この展開を作り出すための、一段階目のロングスプリントだった。自転車レースというのは、本当に将棋に似ていると思う。


 落石避けの覆いがかかる最終直線。ゴールラインが見えた。

 『ツール・ド・日本一』のスタッフが待っている。

 とにかく苦しい。サイコンの心拍数表示はもう見たくもない。

 心臓が痛い。脚が痛い。体を支える腕も背筋も痛い。ゴールラインが遠い。


(おかしい)


 伊豆で練習した時は、同じペースで1.5kmを駆け抜けることができていた。あと200m足らずの距離が信じられないぐらい遠く、長く感じる。


(――空気か)


 その理由に思い当たった。

 標高2,400mのこの場所は、伊豆よりもずっと空気が薄い。ここにたどり着くまでの間に、僕は思ったよりも体力を消耗してしまっていたのだ。


「んんんああああ!」


 後方から奇声をあげながらニシキが迫ってくる。


(ダメだ、ゴールラインまでに抜かれる)


 敗北感に打ちのめされそうになる。最初から普通のスプリント勝負にすべきだったのだろうか。

 たくさんの人に応援されて、期待されてここまで来たのに、ニシキとの接戦に持ち込んだのに、また僕の判断ミスですべてを台無しにしてしまうのか。

 伊豆でもあんなにトレーニングを重ねたのに。

 伊豆で――


(痛みってのは、人間の肉体にとって最高にありがたい存在なんだよ)


 ――ヒルクライムの途中で、ヒカゲさんに聞いた話が脳裏をよぎった。もともとは伊豆でのトレーニングのときに聞いた話だ。


(なんで国際自転車競技連盟UCIが鎮痛剤を禁止薬物にしてるかというと――)


 そうだ、思い出した。


(――肉体にとってありがたい痛みを無理やり抑え込むのは、強い副作用があるからなんだよ。一時期、ヨーロッパの自転車レースではトラマドールの濫用に由来する落車事故が多発したのさ)


 その副作用とは――


(強い眠気を誘発するんだ。ほど強い眠気をな)


 ニシキが僕の横に並びかけてくる。

 が、その目はうつろだった。ぐらり、と上半身がふらつき、ハンドルを切ってしまう。

 ニシキの加速が弱まった。


 トラマドールの副作用でニシキが失神していたのはほんの1~2秒に過ぎなかっただろう。

 だが、僕にとっては十分すぎた。薬物を使わなかったことで生まれたその数秒が、勝敗を分けた。


「いいいいぃぃぃ!!」


 限界のスプリント。ゴールラインが目前に迫った。

 ニシキが追ってきたが、それが間に合わないことは確信できた。


『第一回『ツール・ド・日本一』、優勝は『チーム・パニアグア』の深山シロウ!』


 場内に響きわたるアナウンスが、ひどく遠く聞こえた。

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