(5)人生の層の初恋部分について
広瀬は毎日じゃないけど何日かに一度、昼休みに私のところにやって来る。
「美蘭先輩、お昼一緒に食べよー」
昼休みが始まって少し時間が経っていたから今日はもう来ないと思っていた。皐月のクラスにお邪魔してお弁当を広げかけていた私は、広瀬と皐月の顔を順に見る。
「あ、如月先輩一緒でも全然いいっす」
「さ、三人で?」
皐月が素っ頓狂な声を出す。広瀬が来たときは皐月は遠慮して他の友だちか彼氏の大橋くんのところへ行ってしまうことが多い。
本人曰く、広瀬みたいな社交的な男子(しかも後輩)と接する機会があまりないから人見知りしているそうだ。
どうしようか、すでに皐月は緊張した表情をしているけれど、広瀬に帰れと言うのもかわいそう。
「あ、大橋くんも誘えば? 四人で食べればいいじゃん」
私の提案に皐月は目を丸くした。私と彼は同じクラスだ。さっき教室を出るとき、自分の席で弁当を食べようとしていたのを見かけたからたぶんまだ教室にいるだろう。
緊張するなら皐月は大橋くんと私をメインに喋っていればいい。人数が多いほうが広瀬と会話する頻度も減るだろう。
そんなわけで皐月が大橋くんにスマホで連絡して、結局中庭で食べることになった。大橋くんの都合をまったく考えていなかったけれど、一人でさっさと食べ終えて昼寝するつもりだったらしく、彼はすぐに私たちと合流してくれた。
十二月。冬とはいえ晴れているから、マフラーでもまいていればそれなりにちょうど良くて、外もぽかぽか暖かい。
色が剥げた薄青色のベンチに、広瀬、私、皐月、大橋くんの順に横並びで座る。
両隣を彼氏と親友に挟まれて、皐月もリラックスモードだ。なんか私にはわかんない話題で大橋くんと楽しそうに雑談している。
私は彼の姿をじっと眺めてみる。
胸がちくりと痛んだ気がしたけれど、それだけだった。もう、苦しい切なさみたいなものはだいぶ薄まってきた。
ただ、彼を追いかけてこの高校に入学したことや、野球部の応援をしたいからチア部に入部したことを思い出して感傷に浸りたい気分になるだけ。
最初は初恋がきっかけだったかもしれない。でも今は、そういうの抜きで私はこの高校を受験して良かったと思っているし、部活もやりがいがあって楽しくてしょうがない。
この人への想いは確かに私の高校生活の一部を形作ったけれど、それはもう過去の思い出として、私の人生の層の積み重なりに埋め込まれ始めている。
今、層の一番上に新しく積もってきているのは、また別のものだ。例えば……
「ねえねえねえ、美蘭先輩。あのさ、」
例えば、小声で私の肩をつついてくる隣の広瀬とか。大橋・皐月カップルから目を離すと、私のお弁当箱の中の卵焼きが消えていた。広瀬を睨む。
「……食べたでしょ」
「最後まで残ってたから食べたくないのかなって……あっ、もしかして……逆?」
「そうだよ、好きだから残してたんですぅ! バカアホ広瀬!」
「うわあ、やっちゃった! あれっ、でも先輩こないだ好き嫌いないとか言ってたような……」
「うるさいうるさい! 卵焼き食べたかった~!」
「すんません!」
「謝りながらなんで嬉しそうな顔してんだ!」
ぽかぽかと肩のあたりを殴る。そもそも、好き嫌い以前に人のもんを勝手に食べるのがありえない。
話し合いの結果、明日のお昼に広瀬が私にたまごサンドを買ってくる約束で落ち着いた。
途中から様子を見ていたらしい皐月たちに「彼氏じゃなくて下僕じゃん」と笑われた。というか、まず彼氏じゃないです。
「そういえばあんた、なんか言いかけてなかった?」
「あ、そうそう。あの人が、あれ?」
「どの人がどれよ」
小声に戻った広瀬の視線を追うと、また皐月となんか話してる大橋くんに行きついた。
「先輩の前、好きだった人」
「ああ……うん」
そういえば前に、ミュージカル観劇の帰り道で幼なじみの彼氏が好きだったんだと話した。
「ふーん、そっか」
広瀬が眉間にしわをよせて、大橋くんを凝視する。
脇の下から変な汗が出てきた。広瀬にそんな顔をさせていることへの罪悪感のような、前に好きだった人を広瀬に観察されていることに対する居心地の悪さのような。
「愛莉ちゃんが言ってた通り、菊池さんに似ている……」
「そうかなあ……」
言われてみればそんな気がしてきた。眉毛の形、目の吊り上がりかた。
「広瀬、確かに大橋くんって菊池さんに似てるわ」
「オレが一回見て気づくようなことを、何を今さら大発見のように……」
「あ、あのっ」
突然、私たちの会話をさえぎって、謎の第三者が乱入してきた。
「あれっ、どうしたの?」
話しかけてきた知らない女子生徒を見て、皐月が声をあげる。大橋くんと私が怪訝な表情をしていると、皐月が「部活の後輩」、広瀬が「クラスメイト」と答えた。
肌も目の色も髪の色も薄い、フランス人形みたいな美少女だ。てっきり皐月に用事かと思えば広瀬に用があるらしい。
「ちょっと話、あるんだけど教室、戻れないかな」
「あ? オレ? あー、じゃあもうすぐ昼休み終わるからこのまんま教室戻ろっかな」
「広瀬、明日たまごサンドね」
「はーいはい。先輩また明日―」
また明日ってことは、今日はもう放課後とかには私に会いに来る気がないらしい。
来なくていいけど、それはそれで寂しい気もする。
「あの子、部活ではクラリネット担当なんだけど、ピアノとヴァイオリンも習ってるんだって」
「確かに、お嬢様っぽいオーラあるよな」
「ね。家が病院だって聞いた気がするけど……美蘭? ぼんやりしてどしたの?」
「……」
「……色々知ってみたら好きになった? 広瀬くんのこと」
いつだったか、私が皐月に言った言葉を彼女からそっくりそのまま返される。
「さあ。知らない」
美少女に袖を引かれて歩いていく広瀬の後ろ姿を眺めながら、私は答えになっていないような返事をつんとした口調で答えた。
皐月は私の長所を真っ直ぐな性格だと思っているみたいだけれど、本当の私は肝心なときほどぐねぐねに曲がっていて、素直に認めることができないのだ。アホバカ美蘭。
その日の夜、なんとなくSNSを見ていたら、菊池さんが炎上していた。
とある一般女性がSNSに投稿した写真に、うっかり菊池さんらしき男性が映り込んでいたそうだ。
私が確認したときにはそのアカウントは削除されていたから、詳細はよくわからない。
「でもさ、ファンの人たちも単純じゃない? お姉さんや妹かもしれないじゃん。例えばあたしのSNSにお兄ちゃんがいたら勘違いされそう。逆もそうだよ、お兄ちゃんがピアニストの山田和臣でーす! って名乗ってSNSやってるとして、投稿した写真にあたしやお姉ちゃんがちらっと入ってても騒ぎになりそう」
愛莉がリビングのソファにだらしなく座ったまま、スマホを見ながら冷静にそう言った。私たちのそばで話を聞いていたお隣さんの圭都くんが、苦笑いを浮かべた。
「和臣は、そんなピアニストの山田和臣でーす! みたいなノリでSNSはやらんだろ……」
「まあね。でも、コンクールの後にフォロワーが急増したから怖くなってリア垢消したって言ってた。アニメ情報収集のためのオタ垢はまだ持ってるらしいけど」
「あいつらしいや」
どうして圭都くんがウチにいるのかは知らない。しれっと山田家の食卓に混ざって晩ごはんを食べていた。
その後、お父さんとなんか高そうなお酒の瓶を持ってしばらくお父さんの部屋へこもっていたのを見るに、お父さんが呼んだのだろう。
単にお兄ちゃんが実家にいない寂しさから代わりに話し相手になってもらっていたのか、愛莉という愛娘の彼氏である圭都くん相手に何か言いたいことがあって呼びつけたのかまではわからないけど。
まあ、うちの親は圭都くんを信用しきっているし今さら言っておきたいこともないだろうから、前者だろう。
正直、そんなことはどうでもいい。話を戻す。私は愛莉に向かって首を横に振った。
「普段の学校生活とか、ほかにも色々と詳しい目撃情報とかが寄せられてて……要約すると、大学の同級生と付き合ってて、その人が写ってた、らしい」
つまり、姉や妹ではありえない。菊池さんだって普通の学生だ。友人や知り合いで口の軽い人間が少しでもいれば、恋人の情報なんて簡単に広まるだろう。
「ファンのお姉ちゃん的にはやっぱりショックなの? ……お、お姉ちゃん?」
どうしたの、とぎょっとした顔で問われて、私は自分が顔面を思いっきりしかめて涙を流していることに気がついた。
私は推しを応援する純粋なファンだ。
こんなことでショックは受けない、菊池さんに彼女がいてそれで幸せなら私も幸せだ。
そう思いたいのに、心に嫌な波風が立つ。
「私が彼女になれる可能性があるわけでもないのに、どうしたんだろ私……しかも、そういううっかり写真投稿とか、ほんとやだ」
「ああ、匂わせっぽいもんね……」
私の好きな菊池樹の好きな人が、うっかりを装って自分が菊池の彼女ですアピールをするような性格悪女だったら嫌だ。
「そんなに好きだったんだ……」
「圭都くん、ドン引いてそんなこと言わないでよ。私も泣くほど好きだとは今の今まで思ってなかったよ……」
胸が痛い。失恋したみたいに。なんで。
「お兄ちゃんの大学の人なんでしょ。お兄ちゃんに訊いたらどんな人かわかるんじゃないの?」
「やだよ怖い。ほんとに匂わせ系の彼女だったら私の心にぽかりと穴が開く」
唐突に、大橋くんの顔が浮かんだ。
あの人が、皐月を好きになってくれてよかったと思う。
同じ学年に、底意地が悪い女子っていうのは私が知ってるだけでも何人かいる。
ああいうのと彼が付き合っていたら、私は心に特大の大穴が空いていたと思う。
そっか、やっぱり私。
大橋くんが菊池さんに似ているんじゃなくて、菊池さんが大橋くんに似ているんだ。
だから好きで、彼女がばれてショックで、泣いているんだ。
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