(2)広瀬、兄に会う。
この後も追いかけてきそう。
そんな予想は見事に大当たり。翌朝、自分の教室に入ると、広瀬健斗は私の席に座っていた。
「あっ、せんぱーい、おはようございます」
「……ここ二年の教室なんだけど。なんであんたがいんの」
まさかさっそく、こんなところまで押しかけてくるとは。
あからさまに顔をしかめるけれど、彼はまったく気にすることなく自分の腕を私の腕に絡めてきた。今まで経験したことのない距離の詰め方をされて、しかめっ面がさらにこわばる。
「先輩の顔見たくて来ましたー。先輩、来るの遅くないですか? もしかして遅刻しがちなタイプ?」
「……朝練行ってたの!」
遅刻しがちとは心外だ。むっとして睨むが、なぜか嬉しそうに見つめられる。
「その顔めっちゃ好き……」
友だちよ誰か助けて、と思ってぐるりと教室を見渡すけれど、クラスメイトは好奇心半分警戒心半分でこっちの様子を観察しているか、まったく興味なくこちらを見ていない。
ホームルーム前の予鈴チャイムの音を聞きながら絶望を感じる。
「おはようさーん。お前、一年の広瀬じゃないか。いちゃついてないでさっさと教室戻れー」
教室にやって来た担任が、私たちを一瞥して淡々と言う。
先生にまでいちゃついてる認定された、最悪だ。
結局、そのときはおとなしく帰っていった広瀬だけど、ことあるごとに校内で私を見つけては絡んでくるようになった。
ヤツはとにかく私に対してスキンシップが激しい。触られることそのものに嫌悪感はないけれど、あきらかに近い距離感のおかげで同級生たちからはすっかり付き合っていると勘違いされている。
「ねえ先輩、今日こそ付き合ってよー」
いつの間にか敬語もなくなっている。……まあいいけどさあ。
「やだよ。暑苦しいから抱きつかないで」
放課後、私に腕を回して背後からくっついてきた広瀬をずるずると引きずったまま廊下を歩く。重い荷物みたいだ。
「暑苦しいって、もう冬じゃん。オレは寒いんですけどー」
言いながら、私の肩口に顔を埋めてくる。首筋に吐息がかかる感覚がして、私は思わずびくりと身じろいだ。
「っ……部活行くから邪魔!」
少しきつめに言うと、広瀬はぱっと離れた。
「……ごめんなさい。部活頑張ってクダサイ」
しゅんと謝っているけれど、目がうっとりとこちらを見ているのを私は見逃さなかった。広瀬は私の顔に一目惚れしたそうだけど、特に私の怒った顔が好きみたいだ。意味わかんないけど、言うことを聞いてくれるならこの際どうでもいい。
「はあ……じゃあね」
「うん。先輩また明日」
明日も会いに来るつもりか。もう一度ため息をつきたくなるけれど、明日のことは明日の私に丸投げしよう。
ひらひらと彼に手を振って部活へ向かうために廊下を再び歩き出す。
「美蘭」
廊下にいたらしい皐月が私に声をかけてきた。
「今から部活?」
「そうだよ。皐月もでしょ」
「うん。……なんというか、美蘭によく懐いてる大型犬みたいだね……」
皐月は私の隣を歩きながらちらりと後ろを見やる。つられて振り向くとまだ立ったままこちらを見ていた広瀬と目が合い、ぶんぶんと手を振られた。確かに、犬かも。
「ごめんね、わたしが助けてあげられればいいんだけど、ああいう元気そうな男子、苦手で……」
「皐月が謝ることじゃないって。自分でなんとかするし。懐いてるだけあって本気で私が嫌がったら離してくれるくらいには聞き分けいいから」
押しは強いけど、授業の時間になったり、今みたいに部活で急いでいるときに私がちゃんと言えば引き下がってくれる。
迷惑に変わりはないけど、そこまでストレスではないのだ。
思いのほか深刻そうではない私の様子にほっとしたのか、皐月は少しだけ頬を緩めた。
「そっか。何か本当に嫌なことがあったら相談してね。そのときは苦手とか言ってないでちゃんと力になりたいから」
「わかった。ありがと」
手を振って音楽室のある上階へ階段を上っていく皐月の後ろ姿を見送る。
野球部の公開処刑……じゃなくて公開告白と、ある意味強引な大橋くんに振り回された恋の始まりを乗り越えた、親友。
彼女も彼女だけど、私も私だ。
うちらの恋愛はなぜ、こんな厄介そうな形で唐突に転がり込んでくるのだろうか。
「彼氏候補……」
きょとんとした表情で私と広瀬を見比べるお兄ちゃんに、私はもう一度言う。
「候補も何もないから。こないだから付きまとわれてるの」
「そんな言い方なくない? オレ、先輩に邪魔って言われたからチア部には行かないようにしてるよ」
不満げにそう言う広瀬を睨む。今日だって邪魔だと言ったはずですが。
あの告白の日以来、案の定私はこいつに追い回されている。
寒いというのに部活が終わるまで待っているときもある。横から見ている皐月も最初のうちは心配してくれたものの、だんだんと「害はなさそうだし良かった……かな?」と苦笑いするだけになってきた。
確かに、ただついてくるだけで害はないけれども。
お兄ちゃんは何か納得がいったように微笑んで向かいの席に座った。
「なるほど。美蘭の兄の和臣です。いつも妹がお世話になってます」
「お兄ちゃん、なるほどって何よ」
「まあ、なんとなく状況はわかったかなって。広瀬くんが美蘭を好きなんでしょ」
「はい、そうです」
お兄ちゃんの指摘に広瀬が即答する。兄相手にそういう話をされるの、居心地が悪いからいやだ……。
「美蘭はあんまりその気がなさそうみたいだね」
「だって好きじゃないし」
「でも嫌いでもないよね」
「は?」
何言ってんだ、この兄。
「広瀬くん、まあのんびり頑張って。美蘭は本当に嫌だったら殴りかかってくるから。今のところは好かれてないとしても嫌われてもないし、大丈夫」
「なんっっっにも大丈夫じゃないから!」
私の反論にもお兄ちゃんは笑って聞き流すだけ。追い払ってもらおうと思っていたのに役に立たん。もういいや。
「それよりもお兄ちゃん。チケットを」
「あ、そうそう。はい、これ。愛莉と皐月と行くんだよね」
お兄ちゃんが封筒をコートのポケットから取り出して渡してくれる。
「ありがと」
「何のチケット?」
横から広瀬がのぞき込んでくるから、封筒の中のチケットを少しだけ見せる。
「広瀬は知らないと思う。女子の間で流行ってる恋愛ゲームが原作のお芝居。観に行きたかったんだけどチケット取れなくて、お兄ちゃんの友達から譲ってもらったんだ」
「お兄さん、こういう業界の人なんすか?」
「ううん、俺まだ大学生だから。同じ大学の友達が演劇業界志望で偶然この作品の裏方やってるだけ」
「お兄ちゃん、芸大に通っててさ、演劇学科とかの友達もいるの」
広瀬に説明すると、彼は何かを思い出そうとするように、じっとお兄ちゃんを凝視し始める。
「芸大……山田……あ、」
「広瀬?」
「オレ、美蘭先輩のお兄さんどっかで見たことある。ピアニストの人じゃん。バラエティ番組かなんか、出てましたよね」
お兄ちゃんが一応メディアに顔出ししてるの、忘れてた。本人も忘れていたのか、気まずそうに頭を掻いている。
「あー、まあ、うん。最近は落ち着いて元通り……普通の大学生活って感じだけどね」
「おお、すげえ。有名人だ」
無邪気に瞳を輝かせる広瀬を見ていると、なんだかんだで可愛い後輩な気がしてくる。一方で、気づかれないようにそっとお兄ちゃんを盗み見る。
平気そうに笑っている。でも、元通り、と言った後に言葉を濁したのも私は気づいている。
一時期のホットな話題だったのがおさまり、メディア露出がなくなったからといって、お兄ちゃんの生活がすべて元通りになったわけではない。
詳しいことは知らないけれど、お兄ちゃんが有名になったのをきっかけに、お兄ちゃんと幼なじみの楽くんは仲違いをして、そのままだ。
一緒に住んでいた部屋も、楽くんが出ていってお兄ちゃんは一人になった。
あんなに仲が良かったのに。相棒のようであり、本当の兄弟のようであり、恋人のようでもあった。
私と皐月の関係と似ていたかもしれない。でも、彼らのほうがもっと親密だったような気もする。
私は彼らの関係性の変化を感じ取ってから、恋愛というものがどんどんわからなくなっている。
私は片想いしかしたことがない。でも両想いになっても、どうやら全然関係ないことをきっかけに壊れたりするみたいだ。
大橋くんを追いかけていた私は、そんな複雑なものに手を出そうとしていたのか。そう思うと、次の一歩を踏み出すことに躊躇しそうになる。
だから今は、そこまで彼氏がほしいとも思わないし、自分の周囲の人間関係はこのまま現状維持が穏やかでいいな、なんて思うのだ。
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