(8)そしてあたしは猫のふりをやめた
夕方、お兄ちゃんが大学から帰って来てから楽くんはあたしを家まで送ってくれた。電車だと一時間以上かかった距離は、バイクだと意外とすぐだった。
家の前でヘルメットを楽くんに帰していると、如月の家のドアが開く。
「あ……圭都くん……」
彼はあたしと楽くんを見て、それからまた視線をあたしに戻す。
ぎこちなく微笑みかけられて、あたしもぎくしゃくと手を振り返した。背後で楽くんが小さく笑う。
「チビの戯言だと思って放っときゃいいのに、知らんふりできないのが兄貴って感じだよな」
「ちょっと。チビってあたしのこと?」
「そう怒んなって。今まで通りの態度取られるよりは脈ありってことじゃない?」
そう言うと楽くんは再びバイクのエンジンをかけた。
「楽。帰るの?」
門を開けてあたしたちのそばまで来た圭都くんが、楽くんに話しかける。
「おう。おれとカズん家に愛莉来てたから送ってやっただけ。もう帰るわ」
「そっか。母さんたちに会ってかなくても?」
「いい、いい。面倒くさい。じゃあな」
最後に楽くんはあたしの肩をぽんと一回叩くと、エンジンを吹かして夕闇の住宅街を去っていった。
残されたあたしたちのあいだに沈黙が落ちる。
ちゃんと話そう。バイクに乗りながらそう決めたのに、口から心臓が飛び出そうなくらい緊張して言葉が出てこない。
下手なことを言って距離を置かれたくない。だけどこのままも嫌だ。
「あっちゃん」
「ひゃい!」
やば。足の小指をどっかにぶつけたみたいな声が出てしまった。
おそるおそる圭都くんを見ると、彼は逆に少し緊張が解けたのか、おかしそうに笑いをこらえてこちらを見ていた。
「おかえり」
「た、ただいま」
ありきたりな挨拶を交わす。あたしの緊張も緩んだ気がする。
「こないだの日曜日、行かなくてごめん」
「ううん。あっちゃんが絶対来るっていう約束でもないからね。でもめっちゃ寝坊した」
「……あの、圭都くん」
一度、唇をゆっくりと舐める。ああどうしよう、まだ言いたいことが整理できていないけれど。
今を逃すとぎくしゃくが長引いてしまう。
覚悟を決めて口を開く。顔を見る勇気はないから道端の雑草を見つめながら。
「このあいだ、変なこと言ってびっくりさせてごめんなさい。でもあの、冗談って言ったのは嘘で。あたし……あたし、圭都くんのことが好きなの。お、男の人として!」
目で確認しなくても、気配で圭都くんが身じろぎをしたのがわかった。
言ってしまった。もう元の関係に戻るのは無理だ。進むしかない。
「結婚……は、さすがに口がすべっただけで考えてないけど。ずっとあたしと一緒にいてほしいのは、ほんと。圭都くんに彼女ができるのも、圭都くんが誰かと結婚するのも、想像したらすっごく嫌だ」
たぶん今、あたしはあたしの好きな人をとても困らせている。どうやって傷つけずにあたしを振ろうか、悩ませている。
あたしはもうすぐ優しく拒絶される。
「わがまま言ってごめんなさい」
早く何か言って。じゃないと胸が張り裂けそうなくらいに痛い。
このまま彼を置いて家の中に逃げ込んでしまおうか。そう思ったとき。
「ありがとう」
思いがけない言葉に、圭都くんを見る。彼は困った顔なんかしていなかった。ただ、真剣な顔であたしを見つめていた。
「俺を好きになってくれてありがとう。わがままって言わないよ、そういうのは」
あ、忘れてた。楽くんが言ったこと。
自分の好きな人を信じなくてどうするよ。
「あたしが、圭都くんと付き合いたいって言っても、わがままじゃない?」
「わがままじゃないよ。あのさ、明日の朝、うちに来る?」
「え、うん……圭都くんがいいなら」
「もちろん。いつも日曜は来てるだろ。じゃあ、それまでに付き合うかどうか返事考える」
「明日!? もっとゆっくりでいいよ」
それは急展開すぎる。いや、ふられるなら一瞬だと思ってたから、それよりは猶予が出来たのか……?
「だめ。俺、大事なことはずるずる引っ張って決められない性格だから。これくらい期限が切羽詰まってるほうがいいんだ」
だからとりあえず今日は、解散。
そう言って圭都くんは、慌てているあたしの背を山田家の玄関のほうへ押した。
その日の夜は、変に目がさえて一睡もできなかった。返事を待つのってこんなに健康に良くないんだ。やっぱり圭都くんが明日までって決めてくれて正解だったかも。
朝になって圭都くん家に行くと、圭都くんはまさかの起きていた。
「……今日、雪降りそう」
「なんでだよ」
カーテンを全開にして朝日を取り込んだ部屋で、ベッドに腰かけた圭都くんは大あくびをする。
「もしかして早起きじゃなくて、寝てない?」
「ん。考え込みすぎて寝れんかった」
眠そうなのにどこかすがすがしい表情で、圭都くんは笑う。
だったら、答えが出たってことだろうか。あたしたちの関係はこれからどうなってしまうのか。
上手く、息ができない。瞬きするのも忘れて、圭都くんが次の言葉を紡ぐのを待つ。
「俺ね、」
「うん」
圭都くんは迷うように少しうつむいた。
「あっちゃんのこと、年の離れた妹だと思ってたからびっくりした」
「うん」
「正直……恋愛の相手として見れるか考えたら……徹夜でめっちゃ考えても悩むし何とも言えない」
この歯切れの悪さ。
圭都くんが自分のことを優柔不断と評価する意味が、なんとなくわかった。人によってはこういう彼にいらいらするかもしれない。
それでもあたしは嬉しいと思ってしまうくらいには狂っている。一晩中、寝ないであたしのことを考えてくれて嬉しい。
それでもう、十分じゃん? あたしはつい無意識に圭都くんから半歩後ずさる。
「……あ」
「でもさ、」
気づかれたみたい。つかまれた手首が熱を持つ。どこにも行かないで。そう言うかのように。
「け、圭都くん。あの、手……」
「恋かどうかはわかんないけど、あっちゃんは……愛莉は。俺にとって特別だと、思う」
圭都くんが顔を上げる。まっすぐな瞳に射すくめられて、あたしは動けない。特別の意味を、頭の中で咀嚼する。
「それって好きとは違うの……?」
「好きっていうかそれよりも……愛しい、かな」
首を傾げてあたしを見つめる彼の表情は今までにみたことのない優しい何かで溢れていた。
触れられている手首から熱が全身に回っていく。
「だから、それでも良かったら。恋人になりませんか」
「!」
視界がぱあっと開けた感じがした。なのに実際には圭都くんだけが視界いっぱいに映っている、不思議な感覚。
あたしには、恋と愛の違いなんかわからない。だから、それでも良い。なんでも良い。あたしが……圭都くんが、お互いがお互いの特別になれるのなら。
「圭都くんの恋人になります」
短くうなずくと、彼は心底安心したようにベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「うぎゃあ」
「あ、ごめん」
手首をつかまれたままだったあたしも一緒に倒れ込んでしまう。パッと手首を離される。
あたしたちは至近距離で見つめ合って……同時に盛大な大あくびをした。
「眠い」
「あたしも眠たい。なんかねもう、朝になったら圭都くんに何言われるんだろうと思ったら目がギンッギンで寝てられなかった」
「うわあ、俺のせい? ごめんな。……このまま寝てく?」
「ええっ、ここでぇ? 寝ていいの?」
「あっちゃんだけはいいよ。皐月が来たら追い出すけど」
圭都くんのベッドにずかずかともぐりこむ皐月ちゃん。ありえなさそうな光景にちょっと笑ってしまう。思えばあたしは前から妹以上に特別扱いしてもらっていたのだと思う。
まぶたが重い。すぐそこに圭都くんがいる。彼はどこにも行かないし、あたしもどこにも行かなくていい。そう思うとなんだかほっとして、自然と体から力が抜ける。
眠りに落ちる寸前のあたしを圭都くんが抱き寄せた。
もう、あたしは猫みたいに自ら彼にすり寄らなくてもいいらしい。
あたしたちはこの後、夕方まで爆睡した。とても幸せな日曜日だった。
*
第一章「山田愛莉」終
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