第140話 輝ける日々

 ピッチャーとしての経験を積み、技巧を凝らすようになってくると、しみじみと思うようになる。

 なぜあの兄は、ああも簡単にパーフェクトゲームを達成できるのか。

 本人に問えば、簡単でもないし運の要素も強いと言ってくるのだが、絶対に何かがおかしい気がする。

(コンビネーションか?)

 武史はそう思うのだが、どうもそれとも違う気がする。

 知れば知るほど、自分との差を感じる。

 いったい何がここまでの差となってくるのか。


 現在の武史は単なる球速だけではなく、緩急と大きな変化球一つを使うことで、三振を取ることは出来る。

 問題は全てを三振に取ろうとすると球数が多くなるということと、そもそもそれだけやっても三振せずにフライやゴロはある程度打たれるということだ。

(パーフェクトするよりは、打者27人全員三振でアウトにする方が簡単かな?)

 どちらも普通は出来ないが、後者をやった者は少なくともプロにはいない以上、後者の方が難しいのだろう。

 そもそも判断の基準がおかしいが。


 ちょっとどころではなくおかしな基準を持ってしまった武史は、今日も一生懸命のピッチングである。

 あいつが投げると楽でいいなあと思いつつ、ベンチの中の直史は、判例集を読んでいく。

 もうフリーダムすぎるこの行為は、早稲谷のベンチの日常である。

 

 時々早稲谷のOBなどが来て、道理の通らない理屈をぶつけてくるが、だいたいそれは法律に違反しているので、直史の敵にはならない。

 殴りかかってきた人間までいたが、正当防衛で制圧してしまったりもした。なおぐるぐる巻きにするのには武史だけでなく近藤たちまで手を貸して、全く容赦なく部内で収めることなく、警察に突き出してみた。

 どうにか公に広まることはなかったものの、それ以来チームの風通しは前に比べてもさらによくなった。

 法律を武器に出来る相手に、公の場で勝負してはいけない。

 辺見が時々、壁に向かってぶつぶつ呟いているが、野球部の常識が国家の法律よりも優先されると、思う方が異常なのである。


 そもそも大学時代の成績で直史からマウントを取ることが出来る人間はいないし、プロの成績を持ち出すならWBCの一件が出てくる。

 紫綬褒章をもらえるプロ野球選手というのが何人いるのか。

 世界大会でアメリカに勝って、MVPに選ばれるようになるのが何人いるのか。

 一人もいない。少なくとも早稲谷のOBには。

 サル山のサルを相手に、そのケダモノの土俵で勝負するほうが間違っているのだ。




「また打たれたよ、畜生!」

 東京六大学、春のリーグ戦。

 最終週はいつも通りに、伝統の早慶戦である。

 第一戦目の土曜日登板の武史は、事前にかなり投げ込んで肩を作ってから登板した。

 序盤に打たれるということはなく、初回は三者三振というスタート。

 試合が進むにつれてどんどん三振は積み重なっていった。


 そして一人もランナーを出さずに、パーフェクトが見えてきた八回の裏。

 五番竹中の打った球がフラフラと内野の頭を抜いて、この日初めてのヒットとなった。

 パーフェクトどころか、一気にノーヒットノーランも消えたのだ。

 ここで集中力の糸が切れても仕方がない。

 パーフェクトやノーヒットノーランは、それが途切れた瞬間が一番危険なのだ。


 そして次の打者は内野ゴロでダブルプレイにしとめたものの、三振の数も増えていない。 

 どうしてもパーフェクトに届かない。

 相手が強いとも言えるが、直史のこれまでの対戦相手だって同じ六大リーグで、楽な相手ではなかったはずだ。

 悔しそうな武史。ここでピッチャーは交代した方がいいのかもしれない。

 だが、辺見が珍しくと言うべきか、監督としての仕事をした。

「タケ、新記録達成だ」

 顔を上げた武史に対して、辺見はスコアを見せる。

「これまでの六大学リーグにおいて、一シーズンでの最多奪三振は109奪三振だった。戦後に絞ったとしても107奪三振だ」

 それに対して武史は、この試合までに100奪三振。

 そして今日は八回までに、16奪三振を記録していた。

「おそらくマスコミも気付いて、今からインタビューの準備をしてるだろうな。100年も破られなかった記録の更新だ」


 ベンチの中の選手も、それを聞いて偉業に驚いていく。

「あれ? でも兄貴は?」

「佐藤は打たせて取るからな。そこまで三振は積みあがらない」

 二年の春のリーグで82個というのが直史の記録である。実際はやろうと思えば、もっと三振は取れなくはない。面倒で疲れるなのでしないが。

 ただしここは、投げた試合数が違う。辺見は言及しないが。

 その分を鑑みても、充分に凄い数字ではあった。


 その情報が浸透していく武史に対して、辺見は問う。

「あとはもう記録をどんどん伸ばしていくだけだが、九回は交代す「投げます!」

 食い気味に返事をして、最終回のマウンドに、ルンルン気分で送り出される武史である。

 なんともまあ単純なことだな、と直史は思うのだが、あまり武史を酷使してもらっても困る。

 直史以上に怪我とは無縁の武史の体質は、本当にうらやましいものである。


 そんな直史の視線に気付いたのか、辺見はちょいちょいと手招きする。

「お前と弟は、完全に違うタイプの天才だな」

「俺のやってることは努力で、あいつのやってることは練習だとは思いますが」

 その言葉の違いに少し、興味を抱く辺見である。

 ただこの際はそんなことを話したいわけではない。


 大学四年間でリーグ奪三振の記録は、現在476個である。

 武史が一年目に記録したのは、139個。

 そしてこの二年の春のリーグ戦では、どうやら119個になりそうである。

 三シーズンで358個。

 残りのシーズンが五回あると考えると、記録の大幅な更新は不可能ではないと思う。いや、むしろ既にリーチがかかっていると言ってもいい。


 プロに行くにあたって、この莫大な奪三振の記録は、大きな名刺代わりになるだろう。

 あとは壊れないように投げさせていくだけだ。

 シーズン新記録と通算新記録。

 自分で作る記録ではなくても、選手の記録更新を手助けすることは出来る。

 西郷もおそらく、ホームラン記録を更新する。

 直史もたいがい化け物だが、この二人も他には出来ない記録を残していく。


 プロに行ってもレジェンド級の成績を残すだろうなと、プロの世界を知っている辺見が思うのだ。

 ただ武史は、もっとなんというかこう、脇の甘いところを直してほしいものだが。

「監督ってそういうところまで気配りするんですね」

「誰にでもというわけじゃないが、まあ目の届く範囲ならな」

 下手なことをして選手を潰したら、マスコミに逆に社会的に抹殺されかねない。

 野球畑のマスコミとはなあなあで付き合えても、佐藤兄弟の記録などは、それ以外の媒体でさえ注目しているのだ。

 特に白富東の出身者は、他の一般文芸出版社ともつながっているので、そこにも気を遣う必要がある。

 辺見の思考力が時にポンコツになるのは、そういったプレッシャーに耐えているからでもあるのだ。




 武史が119個の三振を奪って、新聞の夕刊一面を飾ったその翌日の日曜日。

 春のリーグ戦の最終戦ということで、辺見は直史を先発させた。

 パーフェクトはならなかったが、エラー一個のノーヒットノーランを簡単に達成する。

 エラーをした選手が死にそうな顔をするので、こういう時はフォアボールを一回は投げておけという辺見である。

 だが直史は断固拒否する。打ち取れる相手をわざわざ歩かせるというのは、ピッチャーの本能に反するのだ。正確に言えば直史の美意識なのだろうか。


 早慶戦は早稲谷の連勝にて終決。

 これで早稲谷はリーグ戦、三連覇となった。

 間違いなく今が黄金時代。

 その中でも辺見は、キリキリと胃の痛みを訴える。


「他の試合の時はともかく、俺らがバッテリー組むなら、別に心配しなくてもいいと思うんだけどな」

 直史が残酷なことを言うが、樋口としても同意である。

 純粋に、もっと試合の勝利のことを考えて喜べば良いのだ。

 それが変に威厳とかを考えているから、感情を表に出すことも出来ない。

 早稲谷のOBがやってきてもボコボコにするので、そのあたりにはもう気をつけなくていいのではなかろうか。


 今回のリーグ戦、ベストナインには西郷の他に樋口も選ばれた。

 要所の重要な点で、しっかりと打撃成績を残していったからだろう。

 そして投手部門では、かなり議論が成された。

 直史は一度も負けていないどころか、一点も取られていない。

 だがリーグ戦を通じて目立っていたのは、むしろ武史の方であったのだ。

 だがリリーフとしては完璧な仕事をして、最後の早慶戦でノーヒットノーラン。

 結局は直史が選ばれた。

 おそらく直史が卒業するまで、武史が選ばれることはないのだろう。

 年の近い敵わない兄を持つと、弟は大変なのである。




 春のリーグ戦を優勝して終わってしまうと、間もなく全日本大学野球選手権大会が始まる。

 舞台が神宮とドームなので、移動して宿泊の必要がない早稲谷は有利だ。

 だが別にもう評価を必要ともしていない選手にとっては、面倒なだけなのである。


 早稲谷のピッチャーの中には、甲子園のマウンドを踏んだ選手が他にもいる。

 ただ全日本は一回戦を直史、決勝も直史というのは、辺見の決めたことである。

 ここまで選手層が厚くなると、簡単に勝てそうに思えるのだが、ピッチャーが崩れたら勝てないのが野球である。

 樋口としては直史は、自分が監督なら先発では使いたくない。

 あくまでもキャッチャーとしての意見なのだが、直史ぐらい融通の利くタイプは、第二先発かクローザー的に使いたいのだ。


 おそらくこれは、辺見がピッチャー出身だからだろう。

 クローザーや、そこにつなぐセットアッパーなど、近年は投手の分業制は年々浸透している。

 ただし二昔前のNPBを知っている辺見としては、どうしても先発完投に、大学レベルではこだわってしまうのだ。


 樋口の感覚としては、直史は完封程度の精度で構わないなら、三連投は出来る。もちろん相手のレベルによるが。

 俗に言う「もう全部ナオでいいんじゃないかな」状態である。

 それでも四試合に投げなければいけないのだ、さすがに使えるピッチャーがあと二人は欲しいのだが。

(ナオのやつも重くなりすぎて、監督じゃもう扱いきれないからなあ)

 そして直史も、楽が出来るなら自分から登板の志願などはしない。


 結局は、自分が辺見の面倒を見つつ、上手く直史を使わせなければいけないわけだ。

 大変ではあるが、将来的には役に立つ経験かな、と思う樋口であった。




 全日本前に、愛の巣にこもった兄と違って、弟の方は健全なデートをしている。

 恵美理はもう完全にお嬢様なので、東京が地元と言ってもお上品な場所にしか行かない。

 だが今日のように、武史がお台場にガンダムを見に行きたいと言っても、呆れたような顔をしながらも付き合ってくれる。

 そしてその大きさに、逆に武史よりもびっくりしたりする。

 価値観の違う二人が、新しい価値観に触れて喜びを覚える。

 とてもいい関係である。


 デートでお台場に行ってガンダムを見るって、それ一瞬で振られる案件じゃねと思う者もいるのだが、上手く二人の付き合いは続いている。

 昼前から始まったデートは、昼食、買い物、お台場、夕食と進むわけであるが、武史は溜め息をつきたくなる。

「どうしたの?」

「いや、せっかくの楽しいデートなのに、変なのがついてるから」

「え、誰かがついてきたの?」

 あくまで知り合いか、という程度の恵美理の認識なのだが、そんな甘いものではない。


 コスパのいいファミレスに入っていた二人であるが、武史は立ち上がって入り口付近に向かう。

「こんばんわ。つーかなんで平日のグラウンド外まで、俺を追っかけてるわけ?」

 雑誌記者の顔を全て憶えているわけではないが、今日の昼間からずっと視線は感じていた。

「気付かれない自信があったんだけどなあ」

 まだ30歳前ぐらいの、女記者だ。

「大学野球じゃグラウンドとクラブハウス以外では取材も禁止って、知らないはずはないでしょ」

 正確にはちょっと違うのだが。

「まあ今をときめくスーパースターが、どういうデートをするかはいろんな人が知りたがるのよ」

「そんなスクープとっても、むしろ他の野球部から総スカン食らうよ? あっちだって一般人なんだし」

「一般人ねえ。まだ売れる前の女優っぽい雰囲気あるけど」

「まあ女優並というのは認める。いや、マジでただの上品な家庭で育った一般人なんだから、スクープにもなんにもんらないし、連盟からしこたま抗議行くよ?」

「別に今日はそんなスクープは狙っていないけどね」


 溜め息をつく武史であるが、こういった輩には無駄に傷ついてなどいられない。

「あんたに見られながらホテルに入る勇気なんてないんだけど?」

「別にその程度じゃ記事にならないよ」

「見られてるだけで嫌なんだっつーの」

 武史は苛立ちながらも、これ以上平行線をたどる会話をしたくはない。


 恵美理の元に戻ると、不思議そうな顔をされた。

「知り合いなの?」

「いや、雑誌記者だと思う。昼からずっと尾行してきてたし」

「ええ……」

「ごめん、俺と付き合うとこういうこと起こるけど、少しの間だけだから」

 記録更新の後だけに、世間の注目が集まっているのだ。

 直史は平然と受け流すが、武史にはまだマスコミに対する遠慮というものがある。

「まあそろそろ遅いのも確かだし、送っていくよ」

 本日は紳士に徹する武史であるが、顔に出さずに恵美理はしっかりとがっかりしていた。


 あちこちの無駄毛処理に、勝負下着。

 さらには避妊に失敗した時のための、今日は大丈夫な日。

 誘われても覚悟はしていたのに、まさかこんなアクシデントというか、障害があるとは。

 恵美理もまた、高校時代からは女子野球で、やたらと取材されることは多かった。

 美人にきつい目で睨まれて、萎縮しているようでは記者は務まらない。

 それにしても二人の恋路には、色々な形での障害が積み重なっているようである。

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