第26話 Fe

水銀とともに家に帰ってきた俺を見て黄リンたちが不安そうな顔から一転してほっとした顔をした。硫酸が嬉しそうな顔をして俺に抱きついてくる。硫化水素とセシウムにそれを見て笑われて、少し恥ずかしかった。

「無事で何よりです」とカドミウムが水銀に声をかけた。

「ああ、なんとかな」

水銀は頷くと俺に抱きついている硫酸の方に向き直った。

「硫酸、人間のために朝食を用意してやってくれないか」

そう言うと硫酸がはっとしたように俺から離れると、

「私としたことが、うっかりしてたわ。今すぐ作るわね」と恥ずかしそうに微笑んだ。


「それで、青酸様には認めてもらえたの?」

俺の隣にいる黄リンの質問に頷く。

「うん」

「ほんと?やったー!」と黄リンが万歳をした。

「それでしたら、人間さんは安全にここにいられるんですね」と硫化水素が胸をなでおろす。

「やるなあ、兄ちゃん。どうやって青酸様を口説いたんだ?」

セシウムに興味深げに尋ねられ、俺は首をひねる。

「特に何もやってないけどな……」

「謙遜すんなって」とセシウムが肘を突っつくが、青酸に対しては本当に何もやっていないと言うのが正しい。今までの俺の行動を彼が偶然好んでくれただけだ。もし彼がもっと違う性格だったなら、俺は認めてもらえずに今頃ホスゲンの手にかかっていたかもしれない。

「まあ、あいつはそういう奴だ。口説かれようがなんだろうが、全て自分の感覚で選ぶ。……まあ、お前の『化学物質を愛する心』ってのが、あいつに届いたのかもしれないけどな」

水銀に言われ、なんだか恥ずかしくなって俺は頬を掻いた。

「きっとそうだよ!人間が僕たち劇物毒物にも優しい素敵な人だから、青酸様も認めてくれたんだよ!」

そう言う黄リンの言葉に硫化水素たちが頷いた。それを見て水銀が鼻を鳴らす。

「……まあなんでもいい。とにかくこれで少しは落ち着けるな」

「そうだね」

俺は頷いてから水銀に声をかけた。

「あのさ、水銀……。俺、君に話したいことがあるんだ」

そう言うと水銀も頷いた。

「ああ。俺もお前に言いたいことがある。この後、腹が落ち着いたら家の裏に来てくれ」

「分かった」

そう頷くと水銀が踵を返して玄関の方に向かって歩き出した。

水銀の姿が見えなくなったあと、「なんの話をするの?」と黄リンが尋ねる。

「それを尋ねるのは無粋というものですよ、黄リン」

カドミウムにたしなめるように言われ、黄リンがつまらなさそうな顔をした。

「ちぇっ。僕も仲間に入りたいのになあ」

そう言ってすねる黄リンを見てセシウムと硫化水素が笑った。俺もつられて笑みを浮かべた。


黄リンたちと別れ、外へ出て家の裏に向かう。一日目の夜のことを思い出しながら角を曲がると、水銀が壁に寄りかかって立っているのが見えた。

俺を見ると壁から背中を離し、何も言わずに地面に座る。俺も黙って彼の隣に腰掛けた。

二人で青酸の森を眺める。そよそよと肌を撫でる風を心地よく感じながら、俺は口を開いた。

「……水銀には、ここに来たときからずっと助けてもらっちゃったね。……本当にありがとう」

お礼を言うと水銀がふっと笑った。

「本当に手間がかかる奴だったよ」

そう言われ顔が真っ赤になる。

「ごめんね、色々と迷惑かけて……」

申し訳なくなって謝ると水銀が首を振った。

「別にいい。……俺も、さっきお前に助けられたしな」

少し顔を赤らめ、彼が小声で言う。言葉を詳細に聞き取れず、不思議そうな顔で彼を見る俺の視線に合わせないように水銀がそっぽを向いた。

「とにかく、お前はこれからどうするつもりなんだ?」

水銀に尋ねられ俺は首をひねった。

「うーん……。まだ、シアンタウンで行ったことのないところがたくさんあるだろうから、そこにも行って劇物や毒物たちと会ってみることにするよ。一通り皆と顔を合わせてから、どうやってこの街を良くしていくか考えたいと思ってる」

そう言うと水銀が「そうか……」と相槌を打ち、考え込んだ。

「……お前、元の世界に戻らなくて大丈夫なのか?」

水銀にぽつりと言われ目をぱちくりさせる。彼は真剣な顔をして俺を見つめていた。

「元の世界でやらなければならないことはないのか?」

そう言われてはっとした。ここに来る前の自分が中間テストの丸付けをしている最中だったのを思い出す。

それを言うと水銀が呆れた顔をした。

「俺が言うまで忘れていたのか?全く、この街のことを考えてくれるのは嬉しいが、しっかりしてくれよ」

「ごめんね」と水銀に謝る。

「お前には教師の仕事があるんだろう?それなら、ずっとここにいるわけにはいかないだろう」

水銀に言われて頷く。

「うん。……でも、仕事のない日だったらここに来られるから。そのときにまたシアンタウンを歩き回ってもいい?」

そう尋ねると水銀が頷いた。

「ああ、勿論だ。そのほうが黄リンたちも喜ぶ」

彼の言葉に万歳をする黄リンの姿が思い浮かんだ。思わず笑みをこぼす俺を見て水銀が立ち上がる。

「カドミウムが今日の夕方、王都へと発つ。その時にお前も一緒に行け」

水銀を見上げ、俺は頷いた。

「そうだね、そうするよ。じゃあ、それまでにお世話になった化学物質たちにお礼を言ってくることにするよ」

立ち上がりながらそう言うと水銀が頷いた。

「ああ、そうしろ。……俺は鉱山を見に行ってくる。何かあったら来い」

「分かった」と頷いたあと、水銀を見て微笑んだ。

「ありがとう、水銀」

彼は少し顔を赤くしてそっぽを向くと、何も言葉を返さず家の表側の方に歩いていった。


研究所の扉を開けると、難しい顔で考え込んでいた一酸化炭素とヒ素が顔を上げた。そして俺を見て驚いた顔をした。

「人間!無事だったか!」

駆け寄ってくる二人に俺は微笑みかけた。

「うん、君たちのお陰だよ。ありがとう」

ぴんぴんしている俺を見て一酸化炭素とヒ素は力が抜けたようで、彼らの表情が柔らかくなったのが分かった。

「ホスゲンにお前を逃がしたと気づかれたときにはどうなることかと思ったがな」と一酸化炭素が頭を掻く。

「人間さんが無事で良かった〜」とヒ素が胸をなでおろし、息をついた。二人にかなりの心労をかけてしまったことに申し訳なさを感じ、俺は彼らを労るように見た。

「よう、先生。青酸様に無事に認めてもらえたみたいだな」

そう声がしたほうに振り向くと、クロロホルムがのんびりと角を曲がってきたのが見えた。その隣を歩いていたメタノールが不思議そうに俺たちを見回した。

「皆集まって何かあったのか?」

具合が悪そうに頭を押さえているところを見ると二日酔いらしい。寝癖がついているのは、少し前まで彼が寝ていたからかもしれない。

その可能性を肯定するように「ま、ねぼすけさんには関係のない話さ」とクロロホルムが肩をすくめた。

「なんだと!?」と彼に怒るメタノールを見ながら、俺はなんだかほっとしていた。こんな平和なやり取りを見ることができるのも、今生きているおかげだ。

(これも皆に助けてもらったからだなあ……)

俺は一酸化炭素たちの方に向き直ると深々と頭を下げた。

「俺を助けてくれて本当にありがとう」

非常に短い言葉ではあるが、心から感謝していることが伝わったのだろうか、一酸化炭素とヒ素とクロロホルムが微笑んだ。

「ああ。……良かったな。まあ、これからよろしくな」

そう言って微かな笑みを浮かべる一酸化炭素の言葉に大きく頷きながら

(今度は研究所の人たちを俺が助けられたらいいな)と思っていた。


研究所の扉が閉まるのを確認して建物に背を向ける。

「センセーなら生きて帰ってくると思ってたぜ」

突然上から声が降ってきて俺ははっとして顔を上げた。振り返れば研究所の屋根にPCBとノックス、ソックスが横に並んで座ってこちらを見下ろしていた。

「鉱山の中で中々面白いことをしていたらしいじゃないか。俺も生で見たかったよ」

PCBがそう言って意味ありげに笑い、ソックスの方を見る。その視線を受けてソックスがくすくすと口を押さえて笑った。

「ソックス、ついてきてたの?」

「まあね」とソックスがウインクをする。

「そうだったんだ!全く気配を感じなかったよ」

驚いている俺を楽しそうに見ながらノックスが口を開く。

「ソックスは私よりすばしっこいからねー。ホスゲンにも見つからないようにこそこそ隠れてたんだよ。すごいでしょ?」

そう同意を求められて頷く。確かに、気配に敏感そうなホスゲンにも気づかれないなんて大したものだ。……いや、もしかしたらホスゲンはソックスに気づいていて、その上で放置していただけなのかもしれないが。

「こいつらの情報収集能力はなかなかのものでな。重宝してるよ」

PCBがそう言って二人の肩を軽く叩く。彼が情報通なのはノックスとソックスのお陰なのだろう。

PCBがゆっくりと足を組み替え、身を乗り出して口を開く。

「それにしてもセンセー。トレードマークの白衣がだいぶ汚れてるな」

そう言われはっとして自分の体を見る。確かに彼の言うとおり、真っ白とは言い難いがそこそこ綺麗だった白衣は、今や汚れて黒ずんでしまっていた。鉱山の中を歩いているうちに何かに引っかかってしまったのか、裾の方はぼろぼろになっている。

「本当だ……。あちこち歩きまわったからなあ」

「あんたが体張った証拠だろうな」

困ったように白衣を脱ぐ俺に、頬杖をつきながらPCBがくつくつと笑った。

(元の世界に帰ったら新しいのを買わないと……)

そう思いながら白衣を広げて見つめる俺にPCBが再び声をかけた。

「ま、これからもセンセーはこの街にちょくちょく来るみたいだし、また気が向いたら研究所の奥まで来てくれよな」

そう言ってPCBが足を組み直す。

「うん。また行くよ」

その言葉に彼がニッと笑った。

「楽しみにしてるぜ、センセー」

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