4. Whipped Cream

 俺はケンカが嫌いだ。北条さんの所と、敵対するグループの集団同士のケンカが嫌いだ。

 でもそれ以上に、複数人で1人をリンチするのはもっともっと嫌いだ。だから俺は、誰かに対して何度も拳をめり込ませている後輩達に、すぐに声をかけた。視線の先に、どこかの制服を着た男子がいたから。

 俺はすぐに2人を彼から離させて、仕事場に行かせた。彼が見るからにどうしようもない奴だったり、既にこの世界の何かに染まったような奴だったりしたら、俺も洗礼として彼を殴っていたかもしれない。でも彼は見るからに怯えていて、俺が正面に来た途端、目を瞑った。


 何もしないからと言って、何とか目を開かせる。どうしても、彼のが見たかった。雑味のないかどうか、確認したかった。

 彼がここに迷い込んできたのなら、きっと彼にも何か事情があったに違いない。でも彼のその純粋で、とてもけがすことなどできない瞳を見ていたら、どうしても俺と同じような人生だけは歩ませたくないと思った。まだ人生を諦め切ったわけじゃない、命さえあれば何でも良い、なんて所まで追い詰められていない、多少の余裕がある瞳。今じゃ世間からゴミと言われかねない俺ができることは、彼をゴミにしないことだった。後輩には適当に言っておけばどうにかなる。それより先輩に見られたらまずい。俺の意向など関係なく、彼は今よりももっと生気を奪われる。


 そして何よりも、彼の濡れた全身を見たら、俺には彼を逃がす選択肢しか出てこなかった。

 土砂降りの中、わけも分からずここに逃げ込んだ3年前。よそ者の俺を殴り続ける人達を、ろくに抵抗もできないくせにめつけた3年前。その挑戦的なを見て、北条さんは俺をこの世界に招き入れた。

 目の前の彼は、そんなをしていない。従って、この世界に入る条件を満たしていない。


 だから言った。「さっさと行け」と。「絶対にこの世界に来ちゃダメだ」と。

 でも彼は、根が張ってしまったかのようにその場から動かなかった。

 そして何を思ったのか、彼は俺に対して両腕を広げた。

 まるで、幼い子どもが母親に対して、「抱っこして」とでも言うように。

 僅かに震える体で、なぜか涙まで流して、無言のまま、腕だけ伸ばして座っていた。


 俺が立て膝をついて、そっと彼の肩に触れると、制服はまだひどく濡れていて、全く乾いていなかった。そのまま首元に触れると、恐ろしいくらいに冷たくなっていた。

 俺は慌てて彼を抱き締めた。一瞬、彼の体が強張って、でもすぐに、俺の背中に腕が回された。

 不思議な感覚だった。見知らぬ相手を抱き締めているのに、よく知った人を抱き締めているような気がした。——そう、まるで、3年前の自分を抱き締めているような。

 北条さんに言われるがままこの世界に入ったことを、今更後悔はしていない。でも目の前のずぶ濡れの彼を抱き締めて、僅かに残された彼の体温が伝わって来て、あぁ、俺が本当に欲しいのはこれだったんだ、って気がついた。優しくて、純粋で、ふんわりとした、雑味のない温かさ。やいばなんて隠れていない、そのまんまの温かさ。それが欲しかったんだ。


「おい、ケイ、何やってんだ?……新入りか? そいつの洗礼は済ませたのか?」


 しばらく彼を抱き締めていて、周囲の異変に気づくことができなかった。即座に彼から身を離して振り向けば、北条さんがいた。

 血の気がさーっと引いていく。さっき伝わって来た体温が、瞬く間に逃げていく。

 彼は闇の世界の覇者。彼に逆らえば、文字通り命はない。もし、よそ者の彼を殴れと言うのなら、そうするしかなくなってしまう。俺は慌てて、とりあえず口を開いた。何か、何か言って、止めなければ。彼がけがされていくのを、阻止しなければ。


「あ、北条さん、あのっ、違うんですっ」

「何がだ?」

「せ、洗礼は、受けさせません」

「あ?」

「俺の、弟ですっ、勘弁してくださいっ、こいつには、手を出さないでください!」

「ケイ、お前の弟はまだ小さいはずだろう?」

「腹違いの、弟ですっ! ちょっと迷い込んだだけなんです、こいつすっごい濡れてるんで、体温回復したらさっさと行かせますから」


 俺は冷や汗が止まらなかった。北条さんは、「そうか」と呟いただけだった。「今日はもう上がれ」と言い、バーへと消えて行く。俺は「ありがとうございます」と言って、勢い良くお辞儀をした。良かった、彼がこの世界に染まってしまう危険はなさそうだ。


「あ、あの……」


 彼は困惑していた。「嘘も方便ってやつだ」と俺は呟いて、彼を自室に連れて行った。俺の心臓は、まだバクバクしていた。この世界に慣れるには、もっと長い時間が必要だ。

 制服を乾かす間に、俺のトレーナーを着せてやる。彼は俺自身のようでも、本当に弟のようでもあった。「あったかい……」と彼は呟いた。幾分血の気は戻って来ていて、震えもおさまっていた。そして安心したのか、そのまま俺のベッドで寝こけてしまった。なんて無防備なやつだ。俺は、平気で人を殴り殺すような、とんでもなく危ない世界の住人だというのに。


 規則正しい寝息が続いていたが、しばらくして「お母さん……」と声がした。彼は寝ながら泣いていた。それを見て、彼に何があったのか、ほんの少しだけ理解できたような気がした。きっと同族だ。

 寂しかったんだよな。暖めて欲しかったんだよな。

 でもそれを、この世界に求めちゃいけない。お前は、引き返さないとダメだ。俺の後輩なんかになるな。


 彼の肩まで覆うようにふんわりと布団を掛け直し、「大丈夫だぞ」と囁く。今だけなら、俺は多分、お前の求めているものをあげられる気がする。

 俺は布団ごと、彼を抱き締めた。確かに感じる、命。


 生まれて初めて、心の奥からしっかりと温められたような気がした。




**********

Irish Coffee(アイリッシュ・コーヒー)

「暖めて」

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