4. Lemon Peel

 人生は、甘さだけでできているわけじゃない。

 そんなこと、よく分かっていたつもりだったのに。

 妻といると、人生は甘さだけでできているような、そんな気がしていた。



 やっと彼女の魅力が世間に伝わって、僕は本気で嬉しかった。その思いに嘘はない。

 僕も、もっと色んな人に自分の感性を認めてもらえるようになって、本当に嬉しかった。妻だって、僕の成功を、自分のことのように喜んでくれた。

 だけど、僕達の生活は大きく変化していった。変化せざるを得なかった、と言った方が正しかったのかもしれない。


 僕達2人の“世界”から、一歩足を踏み出せば、僕達は瞬く間に色んな人々に囲まれるようになった。今まで、僕はカメラを向けることが専門だったのに、カメラを向けられる回数も増えていった。妻も、僕くらいにしかカメラを向けられたことがなかったのに、見知らぬ人にまで、カメラを向けられるようになった。

 僕は、自分の感性に従うという原則は守りつつも、人から与えられた題材を切り取るようになった。与えられたコンセプト、与えられた人材、与えられた衣装。僕が描く絵にも、同様のことが求められるようになっていった。僕の仕事は「どれだけ大胆に表現するか」ではなくて、「どれだけ繊細に与えられたコンセプトに従うか」に変わっていった。僕はそのことに不満はなかったけれど、変化の自覚は否応なく感じていた。

 妻の仕事も「どれだけ“世界”を表現するか」ではなくて、「どれだけ与えられたコンセプトの中で自由になるか」が求められるようになっていった。彼女は、変わりゆくニーズへの不満とかの前に、この社会についていくのに必死だった。21歳という年齢はあまりに若すぎて、この社会を自分の目で捉えるだけで精一杯だったのだ。自分でピントを合わせ、シャッターを切っていく必要があったのだ。


 今になれば、それが分かる。

 誰よりも僕が、そのことを理解して、支えるべきだったと。

 でも僕も、変わりゆく環境についていくのに精一杯で……。


 言い訳は、やめよう。


 きっと彼女は、どこかでSOSを出していた。きっと僕なりに気づいて、対応はしたのだろうが、僕の曖昧で、掴み所がなくて、応急処置にもならないような言葉は、彼女の心まで届かなかったのかもしれない。

 そして僕は、自分の意見ばかりを、彼女に押し付けるようになっていた。

 彼女の若さとか、気持ちとか、価値観とか、そういう根っこの部分を、おもんぱかることのないまま。


 僕はもう、28歳になって、30歳までに子どもが2人欲しいな、という、ぼんやりとした夢を、形にしたいと思っていて。

 一人っ子だったから、きょうだいがいないのが、幼ながらにとても寂しくて。いとことも歳が離れていて、だからこそ、歳の近いきょうだいを、作りたくて。

 母親が高齢出産だったから、もうすぐ70歳になってしまうから、元気なうちに孫を見せてあげたくて。僕が結婚できたこと自体にとても驚いていた両親を、もう一度、喜ばせてあげたくて。

 そして何より、僕が生涯愛すると決めた人と、愛しい家族を、作りたくて。


 彼女にそう伝えたわけでもないのに、僕と同じことを考えていると、思っていた。

 僕はいつもそうだった。

 「好きだ」とも、「付き合って欲しい」とも、「結婚してくれ」とも、「愛している」とも、すぐに言えない僕は、それでも僕の想いに気づき、受け入れてくれる優しい彼女に甘えていた。その甘えを、人生の甘味だと勘違いしていた。


 長女だったせいで、いつも「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言われるのがとても嫌で、だからきょうだいは作りたくない。自分と同じ思いはさせたくない。彼女がそう考えていたことなんか、分からなかった。

 上京して、やっと自由になって、でもその分貪欲どんよくにもなって。ただ僕と出会ったことでそんな自分に気づいて。自分の“世界”を彼女は取り戻していたはずだった。

 でも周囲の大きなうねりに伴って、若い彼女も変わっていくのは当然のことだった。彼女にはまだ、それに抗ったり、立ち止まったりできる力はなかった。

 次から次へと舞い込んでくる仕事ばかりに心を奪われて、そのとりこになっていった彼女を、僕は「また貪欲に戻ってしまった」としか捉えることができなかった。彼女の“世界”が汚れてしまったと、そんなひどいことを思っていた。



 ヒマワリが彼女を笑顔にし、黄色いバラが僕達の愛を芽生えさせ、黄色い小箱が僕達を幸せの絶頂へと導いていったあの時間は、今となっては既に甘味を失っている。

 そこに残るのは、口をすぼめたくなるほどの酸味と、じわりじわりと広がっていく苦味。加工する前のレモンのような、味わい。



 人生は、甘さと、酸っぱさと、苦さでできている。

 彼女と過ごした時間で学んだことだ。



 もし、もし、あの時、彼女と分かり合えていたのなら。



 全身に広がる苦味に耐えながら、僕はゆっくりと、幸せを手放していく。




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Amer Picon Highball(アメール・ピコン・ハイボール)

「分かり合えたら」

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