Shake, Build, Blend, Stir

水無月やぎ

Cocktails

Amer Picon Highball

1. Amer Picon

 私は、たくさん貰いすぎた。抱えきれないくらいに、たくさん。

 だから、返さなければならないのだと思う。人生は、甘さだけでできているわけじゃない。だから、バランスを整えるために、返さなければならないのだと思う。

 今までに得た、幸せの一部を。



 傲慢ごうまんだってことは分かっていた。でも、欲を簡単に抑えられるほど、人間は理性的ではない。私達は往々にして睡魔に負け、飢餓の果てに死に、性を最優先にして婚姻生活を破綻させる。

 あれもしたい、これもしたい。

 長女、ただそれだけの理由で、私の自由はほど遠いものとなってしまった。「お姉ちゃんなんだから」という言葉は、予想以上に破壊力がある。

 大学進学を機に家を飛び出した私は、手足の届く範囲にある幸せを全て手に入れようと、躍起になっていた。


 友人と時間を気にせず遊びたい。カフェでバイトをしてみたい。家庭教師もやってみたい。高校から続けていた演劇を全うしたい。誘われたものは何でもやってみたい。恋愛もしたい。


 ファッションに目覚め始めて、見よう見まねで買ってみた洋服を、初心者なりにコーディネートして原宿を歩いていたら、「あの」と声をかけられた。


「き、君さ、協力してくれないかな」

「何に、ですか?」

「僕の、仕事に」

「仕事って?」

「……いいから。僕、怪しくないから、ついてきて」


 今思えば、怪しさしかない台詞だったと思う。よく犯罪に遭わずに済んだものだ。あんな台詞について行った私も、相当世間知らずだったなと感じる。

 しかし彼の眼差しには決して怪しさなどなく、こちらが萎縮するくらいに真っ直ぐだった。それだけは、未成年だった私にも十分伝わった。だから、口下手な彼についていこうと決めたのだ。


「ここは……」

「アトリエ、というか、スタジオというか。狭くて暗くて、小さいけど、これが僕の世界」

「世界?」

「僕はここで、生きている」

「……で、私は?」

「ここで、何枚か……写真を、撮らせて欲しい」


 薄暗く、小さな彼の“世界”に2人きり。

 どんな写真を撮られるのだろうか。まさか、あまりよろしくない被写体を求められるのではないだろうか。そうなったら私は、この男性を振り切って逃げることができるのだろうか。

 私は今更、恐怖を抱き始めた。


「あ、あの、やっぱり私……」

「ま、待って!」


 一旦机に置いた荷物を持とうとした私の前に、素早く回り込む。こんなに俊敏な人だとは思っていなかった。どうしよう、逃げられない。

 しかし焦る私の前に差し出されたのは、一輪のヒマワリだった。


「こ、これを、持って」

「衣装は……」

「君の、そのファッションが、素敵なんだ」


 私が思わず差し出されたヒマワリを手にすると、彼は「こっち」と申し訳程度に開かれたスペースを指さした。

 その瞬間、いくつかのライトが灯る。俊敏な彼はもう、カメラを手にしていた。そして先ほどまでと打って変わって、流暢なポージングの指示を出していった。


「ヒマワリに、顔を近づけて」


「爪先は2時の方向で、顔とヒマワリは正面を」


「……やっぱり、爪先は1時の方向に。顔とヒマワリも、1時」


「次は、右手でヒマワリを持って、その手を高く上げて」


「笑顔を、もっと自然に。歯を出して」


 私はここで、彼のリクエストに応えるのをやめた。というか、できなかった。


「それは、できません」

「なんで……?」

「自然に、って、言われても」


 彼は少し考えた後、言った。


「ヒマワリと一緒に、太陽を追いかけてみて」


 太陽。

 そんな当たり前の言葉が、今の私には遠く感じた。

 最近の私は、ちゃんと太陽を見れていただろうか。そんな余裕があっただろうか。

 いつの間にか欲を満たすことだけに躍起になって、「やらなきゃ損すること」リストを作って自分をがんじがらめにして。

 大学デビューを失敗したくなくて、とにかく嫌われたくなくて、“ともだち”が多ければ多いほどいいんだって妄信していて。四六時中、誰にでも同じ笑顔を見せて。

 東京に来てから、ずっと何かに追われていた。

 いや、その“何か”に追われないと、不安で仕方なかったのかもしれない。


 ヒマワリと一緒に、太陽を。追いかける。

 この小さなスタジオで、ヒマワリ畑を作り出す。

 私がまだ“お姉ちゃん”じゃなかった時の、欲にとらわれる前の、ヒマワリ畑を。

 太陽を“おひさま”と言っていた頃の、私から見たらすごくおっきかった、ヒマワリ畑を。

 気づけばそこにはもう、私なりの“世界”ができていた。


「……ありがとう。終わりました」

「え、もう?」

「もう? って、始めてから2時間経ってるよ」

「そんなに……。1時間くらいで何か言ってくれれば良かったのに」

「言わせてもらえなかったんだ」


 彼はパソコンに転送された、撮りたての写真を次々と私に見せる。

 スタジオで撮ったとは思えない、とびきりの笑顔。


「こんな、こんな素敵な、顔をされたら、シャッターを切るしか、ないじゃないか」

「え……」

「あ……な、なんか、ご、ごめん」

「いやいや」


 嬉しかった。最初はファッションを褒められただけだったのに、笑顔を褒められたことが、すごく嬉しかった。写真の一覧を見ると、後半につれて私の全身ではなく、顔のアップばかり撮られていたことに気がついた。


「あの、これじゃあ、ヒマワリが見えないじゃないですか」

「そ、それは、いいんだ。……満足なんだ、君の、笑顔を、撮れただけで」


 彼はもう一度「ありがとう」と言い、名刺を渡してきた。


「この写真は、来月の、僕の個展で、出してもいいかな」

「え、ええ……」

「君の、“世界”は、とても素敵だった」


 なぜだろう。彼になら、私の“世界”を見せてもいいと思えた。ありのままの、何の仮面もない、ある意味で一糸まとわぬ自分を、見せてもいいと思えた。


「またいつか、君の“世界”を、見せて欲しい」


 私は深く頷いて、小さなスタジオを後にした。



 私は、この時から始まった幸せを、返さなければならないのだと思う。




**********

Amer Picon(アメール・ピコン)

オレンジピールとリンドウの根を原料とした、苦味のあるリキュール。食前酒としてたしなまれる。

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