卒業宣言(2)

 四月の最終週。

 その日は一応、真雪との最後のサシ練習だった。


「そろそろ、終わりにする?」


 練習はひと段落して、午後四時半だったけど、やっぱりなんだかちょっと、寂しい気がする。


 私は、ちょっとだけ甘えてみることにした。


「あのさ、真雪」

「ん?」

「真雪の楽器、吹きたい」

「ああ、いいよ」


 真雪は笑って、自分の楽器をヒョイっと差し出す。

 入れ替わりに真雪は、私の楽器を受け取る。


 今まで何回か、吹かせてもらったけど、やっぱり真雪の楽器は緊張する。

 こんな風に遊べるのは、サシ練のときくらいだから、もうあんまり機会がないんじゃないかなって思ったら、急にそうしてみたくなったのだ。


 私が緊張して躊躇っている間に、真雪は、さっきまで私が吹いていた楽器の歌口に唇をつける。美しい音が鳴る。


 ああ、改めて思う。この楽器、真雪が吹くと、こんなに良い音が鳴るんだ。


 私は、自分の楽器にちょっと申し訳ないような気持ちになる。

 そして躊躇っているのも馬鹿馬鹿しいので、私も真雪のフルートを吹くことにする。


 わあ。

 やっぱり、なんだか吹きやすい。


「なんか不思議な感じだね」

「ね。他の人の楽器吹くのって面白いよね」

「当たり前だけど、真雪の音は出ないね」

「いや、そりゃそうでしょ」


 真雪は笑う。


「好きに吹いてて良いよ。たまには浮気しても許されるでしょ」


 そんなことを言いながら、真雪も私の楽器を楽しそうに吹いている。

 真雪に吹いてもらって、私の楽器も嬉しいんじゃないかな、そんな気がする。


 私も真雪の楽器を堪能することにする。

 って言うと、何だか自分がすごく変態みたいに思えてきて辛い、けど。あまり考えないようにする。


 私の楽器を銀座で一緒に選んだ時のことをちょっと思い出す。真雪の楽器の音色に合う楽器を、私はわざわざ選んだのだ。


 去年、合宿や文化祭で演奏した、ドビュッシーの『月の光』、それからバッハの『G線上のアリア』を、どちらからともなく吹き始める。


 二人でハーモニーを奏でる時間は、何よりも、私の胸をときめかせる。

 上手く合ったとき、やっぱりピリピリと、電流が走る感覚がある。でもそれがなんなのか、私にはまだよくわからない。


 そのまま、チャイムが鳴るまで、私たちはずっとそうやって遊んでいた。先輩がいないからって、フルートパートは本当に自由にやっている。


 チャイムの音を聞きながら、楽器をまた交換して、片付け始めた。

 いつものお掃除をしながら、真雪と雑談する。


「……そういえばさ」


 唐突に真雪は言った。


「美冬って、唇の形、綺麗だよね」

「え、ええ?」

「いや、このさ、カーブっていうのかな。絶妙にふっくらした感じというか」


 言いながら、真雪の指が私の唇に触れる寸前の距離まで、近づく。


「ちょ、ちょっと何言ってんの。真雪の変態! せくはら!」


 私は猛烈に抗議する。

 駄目、もう。何これ。


 顔が熱くなる。顔だけじゃなくて、全身、だけど。


「あー、ごめんごめん。なんかね、アンブシュアって人によって違うからさ。他の人の口の形見るの、クセになってるんだ」


 それはなんとも、真面目なのか、なんなのかわからないけど。

 そのような言動は、是非とも控えていただきたかった。


「……真雪の方が」

「ん?」

「ううん、なんでもない。この話、終わり」

「はいはい。ごめんね」


 さて、私は今何を言いかけてしまったんだろう。ともかく、変態猫さんのせいで、唇のあたりが、むずむずと気になって仕方なくなってしまう。


 なぜかさっきまで吹いていた楽器の感触が思い出される。


 ……間接キス、とか。


 馬鹿みたいな単語が頭に浮かんだので、全力で打ち消しておいた。

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