第11話 木曜・森井道行の追想


 昨日は結局、道行はハルと共にもう一周パトロールをし、帰りに透の眼鏡店に立ち寄りビデオの録画チェックをしたのだった。特に、日曜の午後以降のものを詳しく。


 目的はもちろん、見慣れぬ顔が映っていないかの確認と、その人物の顔をしっかり憶えておこうというものだった。無銭飲食被害の例の中華屋方面から商店街を通って駅へ向かったとしたら、店に仕掛けたビデオに犯人の姿が映っているかもしれない。

 だが結局、実智のお相手を当てる大会になってしまった。探す対象がぼんやりと広すぎて、長時間集中することは難しかったのだ。

 それに、ビデオに映っている地元民以外の人を疑いの目で見ることへの抵抗感が、思いのほか強かった。この感情は想定外だったが、この辺が素人捜査員の限界なのかもしれない。



「あーあ、犯人も実智ちゃんの食事相手もいっぺんに映ってれば楽なのにな」


 眠い目をこすりながら、道行が口を尖らせる。ボヤきながらも、詰め合わせた新鮮な野菜をどアップで撮影し、その画像を美しく加工してSNSにアップする手は止めない。


「写真なんか撮ってないで、さっさと配達行ってこい。お前が取ってきたお得意先だろ」

「わかってるよ。待って、もう一枚……」


 言いかけた所で、品出し中の親父の苛ついた声に遮られた。


「いんすただかモンスターだか知らねえが、配達は遅れるなよ。遅刻は信用無くすからな」

「はいはぁーい。よし、完了。行ってきまぁす」


 道行はポップなバス仕様の中古軽バンに幾つかのダンボールを積み込むと、エンジンをかけた。




 ☆☆☆☆☆



 最初に行くのは、こじんまりとした明るい雰囲気のカフェ。あちこちに顔を出し、懇意になった幾つかの契約農家から仕入れた無農薬野菜を納入している。最近増えている、こういったオーガニック志向の飲食店に狙いを定め、道行は営業をかけているのだ。取りまくったオシャレ系資格の数々が、こういう場でものを言う。



「毎度ぉ。森井青果店でぇす」

「あー、来た来た。うちのアイドル、ミッチーくん登場~」


 オーナーの弾んだ声に合わせ、道行もとびきりの笑顔で応える。


「アイドルじゃないよ、歌って踊れる八百屋でぇす♪」


 チョロッと舌を出しおどけてウインクしてみせると、髭の渋いオーナーと奥さんが声を上げて笑う。さすがオシャレカフェのオーナー、朝から爽やかな人たちだ。


「この前提案してくれたビーガン対応メニュー、かなり好評だよ。ありがとう」

「あー、よかったぁ。これからオリンピックに向けて、海外からのお客さんが増えるでしょうからね。益々需要増えてくと思いますよ。僕もここのお店、ガンガン宣伝しておきますから」



 なんだかんだで、オーナーの知り合いの和カフェを紹介してもらえた。ラッキー。「お店では出せないでしょうけど、是非おうちでどうぞ」と前置きしながら差し出したぬか漬けが功を奏したのかもしれない。新たに提案した豆乳スムージーも気に入ってもらえたみたいだし、順調順調♪ この調子で販路拡大していければ、結婚資金はもちろん、いずれは独立だって夢じゃない。よーし、お昼ご飯の前に早速、紹介してもらった和カフェに営業……



 道行はふと気づいて車を寄せた。小回りのきく軽ワゴンを縦列駐車の間に滑り込ませると、周囲を確認する。間違いない。ここ、あの店の近くだ。


 ちょっと複雑な心境だけど、寄ってみようか……うん、せっかく来たんだし。


 車を降りて歩き出す。大学進学を機に実家を出ていた花奈と数年ぶりに偶然再会した、あの店に向かって。



 ☆☆☆☆☆




 ウッドデッキのテラス席には誰も座っていなかった。開店直後とあって、あの時とは違い店内に客は居ない。

 落ち着いた深緑の板壁に、デコボコした質感のタイルが帯のようにぐるりと配され、暖かい色の間接照明がふんわりと天井を照らしている。通りに面した窓は小さく、テラス席とは対照的に店内はあえて薄暗くなっている。テーブルとテーブルの間は観葉植物を植えたパネルで区切られており、小さな音でモダンジャズのピアノ曲が流れる。相変わらず、嫌という程『大人のオシャレ感』を前面に出している店だ。


 真っ白な糊のきいたシャツにストレートのパンツ、足首まであるカフェエプロンというスタイルの、嫌という程オシャレ感漂うスタッフに案内され席に着くと、道行はジャスミンとホワイトピーチのブレンドティー、小さなレアチーズケーキをオーダーした。

 店員が奥へと下がるのを待ち、道行は首を巡らせて店内を見渡す。

 自分が今座っているのは、あの時花奈と相手の男が食事をとっていたテーブルからいくつか離れた場所だった。SNS上の紆余曲折で繋がっていた友人が勤めているということで、営業がてら立ち寄ったこの店で、俯き加減で皿をつついている花奈を偶然発見したのだ。



 いわゆる大学デビューというのだろうか、花奈は年に数回帰省する度に、痩せて綺麗になっていた。念願の保育士として働き出してからは、さらに充実した様子で、キラキラと輝いて見えていたものだった。

 だが、その時の花奈は明らかに不健康な痩せ方をしており、ほとんどやつれていると言ってもいいほどだった。向かいに座る男の話に頷きながら笑うその顔は、なんだか辛そうに見えた。

 小さい頃こそ苛められてしょっちゅう泣いていたけれど、笑うときは心底楽しそうに笑っていたのに。朝起きてカーテンを一気に開けた時に一瞬で闇を払う朝日みたいに、なんの憂いもなく。

 でも、目の前にいる花奈はといえば、締め切ったカーテンの隙間から忍び込む光を浴びることさえ耐えられない、そんな風情だった。


 思わず声をかけると、花奈は驚いたものの嬉しそうに、向かいの男に道行を紹介をした。彼女と交際中だというその男はそこそこ男前ではあったけれど、道行は一目で不信感を抱いたものだ。道行を幼なじみと紹介したその時、男の目が怯んだように揺らいだのを見たから。

 そして男は挨拶もそこそこに席を立ち、そそくさと立ち去った。ほぼ空になった皿と、花奈を置き去りにして。

 表向きは気を利かせたふりをしていたけれど、彼は逃げたのだと道行は直感した。そしてしばらく後になって、その直感は正しかったことが判明する。


 道行はスタッフに男の皿を下げるように頼み、自分は花奈と同じものを注文した。

 仕事の近況や男のことを話す間、花奈は目の前の皿に乗ったレタスを申し訳程度につついていた。さっき下げた男の皿は明らかにたっぷりとした肉料理だったのに、花奈はサラダだけ? あれだけ食べることが大好きだった、花奈が? っていうかあの男、こんなに辛そうに食事している花奈を目の当たりにして、よくも自分だけ食べられるな……



 会話が途切れた時、道行は唐突に聞いた。


「ねえ花奈、食事してて楽しい?」


「え?」と顔を上げた花奈の瞳から、ふっと光が消えたように見えた。心のカーテンを閉めた。道行はそう感じた。


「花奈、食べるの好きだったじゃん? 肉も魚も野菜や果物、お菓子も、『美味しいね』ってニコニコして食べてたじゃん?」


 花奈はフォークを置いた。ほとんど放り投げるようにして、皿の上に。両手はテーブルの下へ隠れてしまったが、肩と腕の緊張からおそらく膝の下で拳を握っていたと思う。その時の様子と、震えを必死で抑えるようなあの声を、道行は今でも忘れられない。


「……彼が、痩せてるほうが好きだって言うから」


 横隔膜がぐっと収縮して熱くなった。小さな怒りの炎が急速に燃え上がるのを懸命にこらえつつ、努めて冷静に優しく語りかける。


「うん。花奈は痩せてすごく綺麗になったよ。でもさ、はっきり言うけど、今の花奈は痩せすぎだ。顔色だって悪い。体調はどう? 貧血気味なんじゃない?」


「やめてよ、お母さんみたい」

「お節介でごめん。でも今の花奈を見たら、おばさんだって同じこと言うと思うよ」



 花奈は下を向いてしばらく黙っていたけれど、やがて小さな声で呟いた。


「もう、太りたくないの……痩せたら、周りのみんなが親切にしてくれた。お化粧して、お洒落も頑張って、綺麗になったら、男の子も女の子も、大人のひとも……誰もあたしに意地悪したりしなくなった」


 俯いたまま、言葉を絞り出してるみたいだった。よほど心が弱っていたのだろう、言葉と瞳に、辛さが滲んでいた。


「太ったら、戻っちゃう………元のあたしに、戻っちゃう………みそっかすのあたしは、もう嫌なの……」



 気づいたら、花奈の手を引っ張って店を出ていた。お釣りを受け取るのも忘れるくらい、この店から花奈を連れ出したくて堪らなかった。泣いている花奈の手をぐいぐい引っ張って、走って、走って走って………目に付いたカラオケ店に飛び込んだ。料理が美味しいと評判のチェーン店だ。

 部屋に入るなりメニューを広げ、次々に頼みまくる。事態が飲み込めずにおろおろしている花奈を余所に、何品も何品も。テーブルいっぱいに料理が並んだところで、道行は大きな声で宣言した。


「さ、食べるよ!」



 呆然と固まったまま、瞬きもせずに道行を眺めている花奈の隣に移動し、坐り直す。花奈の両肩を掴んでこちらを向かせると、その瞳を覗き込むようにして、道行は言い聞かせた。


「花奈? 僕ね、ちっちゃい頃は体が弱くて、食が細かったじゃん? 美味しいものたくさん食べたいのに、すぐお腹いっぱいになっちゃって、給食なんか泣きながら食べてた。昼休み教室に残されてさ、花奈は別のクラスなのにわざわざ来てくれて、僕が食べ終わるまで付き合ってくれたよね。憶えてる?」


 花奈は固まったままだったが、小さく二度、頷いた。そして不安気に、すばやく瞬きをした。


「花奈はいつも、ニコニコ笑いながら、すごく美味しそうにたくさん食べてて。僕、そんな花奈のこと、かっこいいなあ、羨ましいなあって、ずっと思ってた」


 可愛らしい唇が僅かに震え、薄く開く。一度引っ込んだ涙が、また溢れそうになっていた。


「僕、花奈みたいに、美味しいねって言いながら一緒にご飯食べたくて、頑張ったんだ。強くなって、体も大きくしたらたくさん食べられると思ったから、スイミングとか空手習ったりしてさ」


 道行は花奈の肩から手を離すと、シャツの袖を伸ばして花奈の頬をそっと拭ってやった。ハンカチを持っていなかったのだ。


「結局体はそんなに大きくならなかったけどね、でも、丈夫にはなったよ。花奈のおかげだよ」


 道行が笑いかけると、花奈も短く笑った。思わず抱きしめてしまいそうなくらい、儚げな泣き笑いだったけれど、道行はただ頷くに留めた。


「美味しそうに食べて幸せそうに笑ってる花奈が、大好きだった。だから頑張ったんだよ。今の花奈は、全然楽しそうじゃないよ。すごく辛そうに見える。そんな花奈は、ほんとの花奈じゃないよね?」

「でも……」


「大丈夫。太らない食べ方を教えてあげる。僕、食育とか栄養学とかダイエットメニューとか、いっぱい勉強したんだ。資格だってたくさん取ったんだよ。仕事のためだったけど、取っといて良かった。少しは花奈に、恩返しが出来る。一緒に給食食べてくれた時の恩返し。ね、だから、一緒に食べよう?」


 一気にそう言って、道行はコンソメスープのカップを手に取りスプーンでひと匙掬った。スプーンを花奈の口元へ運ぶ。


 スープを、ほんのひとくち。飲みくだした花奈は、ポロポロと涙をこぼしながら、にっこり笑った。



「美味しい。すっごく、美味しいよ。みっちゃん」




 ☆☆☆☆☆



 ぬるくなったフレーバーティーを口に運びながら、道行は当時のことを思い出していた。当時、とは言ってもほんの2年ちょっと前の話だ。

 それからすぐに状況がバタバタと変わり、花奈は仕事を辞めざるを得なくなって、地元に戻ってきた。あの頃は花奈の両親はもとより、みのりちゃんや透くん、ハルくんにもすごく世話になったっけ。彼らが助けてくれなかったら、自分は今頃刑務所にでも入っていたかもしれない。そのくらい、怒り狂っていた。もちろん今だって、絶対にあいつのことを許す気にはなれない。



「森井さん? お久しぶりです」


 顔を上げると、例の知人がにこやかにこちらを見下ろしていた。SNS繋がりの、あの知人だ。慌てて立ち上がり、会釈を返す。


「お久しぶりです。お元気で……いや、FB見て知ってましたけど」


 あはは、と快活に笑ってくれる。


「僕も拝見してますよ、相変わらずお忙しそうですね。ああ、ご結婚されるそうで、おめでとうございます」


 ありがとうございます、と返したが、妙に気恥ずかしいというか、お腹の底がこそばゆい気がする。でも、他人に祝われるたび、花奈と結婚するのだという実感が新たに湧いてきて、悪い気はしない……いや、正直、めちゃくちゃ嬉しい………



「お相手の方は、もしかして……あの時の?」

「えっと、そうです。あの時の。って、よく覚えてらっしゃいますね」


 照れ隠しまじりに大げさに驚いてみせると、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。


「そりゃ、覚えてますよ。いけ好かない男を追っ払って薄幸の美少女を救い出し、怖い顔して、でも颯爽とお姫様を連れ去った勇者みたいでしたから。ずっと気にかかってたんです。お幸せそうで、本当に良かった」


「そ、そんな良いモンじゃないですよ」


 慌てる道行に、彼はにっこりと笑いかけ、テーブルの隅の伝票を胸ポケットにしまった。


「今日のお代は結構です」

「え、でも」


「いえいえ。前回いらした時に多めに戴いてますし……ま、ちょっとオーバーしますが、その分は結婚のお祝いということで、ね」


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