第9話 火曜・墨谷実智とパピ子
別に、男嫌いだったわけじゃない。正直なところ、単に鑑賞するだけならイケメンだって大好きだ。
ただ、自分は恋愛に向いていないから、片っ端から断っていただけなのだ。
私は昔、好きだった人を傷つけてしまったから。うんと、傷つけてしまったから。
中学生当時、彼とは所謂「お付き合い」をしている仲で、それは学校中が知っていることだった。公認のカップルというヤツ。もちろん中学生だから、牧歌的というか、ほのぼのしてちょっぴり甘酸っぱい、時折疼くように胸に痛みが走る、そんな可愛らしいお付き合い。
ただその関係性は、ある時を境に否応なしに変化していく。
きっかけは、些細な口喧嘩だった。いや、口喧嘩とも呼べない、ちょっとした意見の食い違い程度のことだったかもしれない。
あれは確か、中二から中三へ上がる頃だったと思う。「思う」というのは、当時のことをあまり憶えていないためだ。あの頃のことは、その言い合いの内容も含めて、靄がかかったようにぼんやりとしか記憶していない。
憶えていないながらも、かなり理不尽な仕打ちをしたことは間違いない。私は自分が傷つくのが怖くて、逃げたのだ。適当な理由をつけて、彼の想いを鼻先へ叩き返すみたいにして。
変わっていくことが、怖かった。環境の変化、進路や将来への不安、そして何より、自分自身の急激な身体的変化が恐ろしかった。
加えて、ふたりの関係性の変化に対する恐れ。このまま「お付き合い」を続けていけば、彼は変化を望むだろう。今より、一歩進んだ関係を求めるだろう。それが怖くてならなかった。
そういった様々な不安がごちゃ混ぜになって急激に膨れ上がり、私はおそらく、精神的なちゃぶ台返しみたいなことをしたのだと思う。子供が泣き喚きながら手当たり次第におもちゃを投げまくるのと、大して変わらない。
それはおそらく、思春期特有の潔癖さというよりは、大人になることへの恐怖だったろうと思う。少し早めのモラトリアム的な感覚だろうか。
ただ、彼にしてみれば。それまで仲良くしていたのに、ある日突然別れを告げられたのだから、そりゃ納得出来なかったのだろう。彼は何度も、話をしようとやって来た。私は休み時間の度に女子トイレに逃げ込んだ。電話や手紙、家にも来た。(当時、中学生で携帯電話を持っている子はまだ少なかったし、私たちの中学では禁止されていた)
でも私は、それらを全て遮断して、自分に閉じこもった。話すどころか返事すらしなかった。目も耳も塞いで蹲り、自分の感情までも遮断していたのだろう。酷い話。私は加害者なのに。
今にして思えば馬鹿馬鹿しいことこの上ないのだが、当時の私は思春期の入り口。深刻な状態だったのだ。
自分が悪いことは重々わかっていて、人に話せば非難されるだろうと知っていたから誰にも言えず……胃潰瘍一歩手前にまでなり、体重も落ちた。進学先の高校は別だったために彼とは自然と疎遠になったが、それ以来、私は自分から人を好きになることが出来なくなった。あれから十年以上が過ぎた今でも、それは変わらない。
他人を手酷く傷つけたという罪悪感は心の奥深くまで刻み込まれ、決して無くならない。忘れそうになる度に、少しずつ形を変えては夢に出てきて、かさぶたを剥ぎ取り新鮮な赤い血を噴き出させるのだ。何度も、何度も。
多感な時期にはよくあること。そうかもしれない。けれどその時の傷は年を重ねても癒えず、未だにかさぶたの下はじゅくじゅくと膿んでいる。自業自得とはいえ、それほど私にとっては重い十字架なのだ。
日曜の朝、大友さんが店のドアを開けた瞬間、同じ波長のようなものを感じた。
自分の人生の最前線から、僅かに一歩、退いている感じ。自らの一部を、諦めて手放してしまっているような、独特の空虚さ。「どうにでもなれ」と「どうにかなるさ」の間で揺れているみたいな、どこか厭世的な雰囲気を、彼は纏っていた。
人当たりが良く口調も優しげ、物腰柔らかで落ち着いた、大人の男性。だが、その目はうっすらと青く翳りを帯びて見えた。
この人は同類だ。そう思ったのは、彼が初めてだった。心のどこかに、癒えない傷を持っているのが、不思議と感じ取れた。鼓動が、互いの発する何かが、共鳴したような感覚さえあったのだ。
だから、声をかけた。
普段なら、顧客と街で会ったって会釈するぐらいのものだ。営業用の笑顔も作るし、場合によっては「いつもお世話になっております」程度の挨拶ぐらいはするだろう。でも、ランチに誘ったりはしない。絶対に。
最初の接客時、声を聞いた時に僅かに心が震えた。心持ちくぐもった、低く落ち着いた声。時々掠れて僅かな甘さが滲むその声が、鏡のような水面に落ちたひとしずくみたいに、私の心に波紋を起こした。
でも、彼の笑い声を聞いた時は、その比じゃなかった。それは小さな、短い笑いだったけれど、本当に、体の中の細胞が根こそぎ揺らいだ気がした。激しく揺さぶられ、心の波紋は一瞬にして荒く沸き立ち熱を発して、すべての細胞が新たに生まれ変わったみたいだった。
あれが何だったのか、わからない。理解し近づきたいと思うけれど、踵を返して遠ざかり目を閉じて耳を塞ぎお布団を被って、薄暗い部屋で丸まってしまいたいとも思う。また新たに、朱い血が流れ出すのを感じながら。
でも、やっぱり。彼のことを、知りたい。どんな風に生きてきたのか、どんな風に笑うのか、泣くのか、怒るのか。そして何より、その傷を。その痛みを。
「墨谷さん? 聞いてる?」
我に帰り振り向くと、社長が心配そうに覗き込んでいた。いつからか私は、顧客帳簿の入ったキャビネットを凝視していたらしい。私は即座に頭を切り替え、いつものように微笑んだ。
「ごめんなさい。瑕疵担保責任の特約制限について、ちょっと思い出せない所があって……」
「ああ、宅建の勉強始めたんだってね。でもその前に、正社員登用試験も控えてるんだからさ、あんまり無理しないでね。熱があるなら、早退していいから。少し、顔が赤いよ?」
一応額に手を当て、「大丈夫です」と再び微笑んだ。でも、熱こそ無いけれど、あまり大丈夫ではないのかもしれない……
☆☆☆☆☆
勤務中、顧客帳簿に手を伸ばさぬよう自制するのは、一苦労だった。
なにしろちょっとファイルをめくれば、賃貸契約書その他から彼の個人情報がどっさり入手できるのだ。その気になれば、いつでも見られる。ただ、業務上の理由も無しにそれらを閲覧するのは、職務規定違反になるだろう。いや、規定違反云々を置いておいても、人としてやっちゃいけない気がする。
少し離れたところから、短くクラクションが鳴った。目を上げると、軽自動車の窓から懐かしい顔が覗き、手を振っている。
「ようパピ子、久しぶり」
「子供の前でその呼び方したらぶっ殺す」
パピ子というのは、もちろん彼女のあだ名だ。中学の同級生で親友でもあるこいつは、ある時期パピコというチューブ型の容器から吸いあげるタイプのアイス(美味しい)に嵌っていた。日曜の部活に凍らせたパピコを持ってきたはいいが、いざ封を切った時に完全に溶けて液体化したアイスが飛び散り周囲に多大なる迷惑をかけ、泣いて謝り倒したという伝説の女。
(お昼になる頃にはちょうど良い加減に溶けて食べ頃になっているはず、と思っていたらしい)
彼女は剣道部員だったから、胴着をアイスに汚染された部員たちはその仕返しに、彼女にパピ子という呼び名を進呈したのだった。
そんな彼女も、一度離婚を経験し、今では当時の同級生、同じく剣道部だった松本君と再婚して三人の子をもうけている。
今日は旦那に子供たちを任せ、子育ての息抜きを兼ねて私をドライブに誘ってくれたのだ。
「マツモは元気? 子供たちも」
「みんな元気だよ。ってか、私も今はマツモなんだけど」
「そういえばそうだ。マツモファミリー。イチマツモニマツモ、サンマツモ……」
「一富士二鷹みたいに言うな」
「おめでたくていいじゃない」
実際に会うのは、彼女の最初の結婚式以来……いや、第一子出産直後以来だから5年ぶりだったが、あっという間に学生当時の感覚に戻れる。電話すら滅多にしていなくても。
「おめでたいと言えば、なんか無いの? 結婚とか、彼氏とかそういう報告は」
「……出た。もうみんなして、寄ると触るとそんな話。アラサーは肩身狭いわ」
「まあねー……ほら、お前の場合はさ、みんな興味あんのよ。かぐや姫のお眼鏡に敵うのはどんな奴か、って」
かぐや姫、というのは私につけられたあだ名だ。一見褒めているようだが、その裏には悪意が込められている。例の件で当時の彼氏を突き放した後、幾人かからのアタックを全て退けていた私を揶揄して、一部の女子が陰でそう名付けたのだ。だから、私に面と向かってそう呼ぶ者はいない。
親友パピ子にさえ、私は例の件について何も話していない。だが彼女は、当時の私のことを一番そばで見ていた。それなのに、彼女は何も聞いてはこなかった。
そのおかげで親友でい続けられたのだと思う。言葉遣いは荒いが、裏表が無く心の優しい、大切な私の親友。
「前の彼氏さんにも会わせてくれなかったしぃ、それどころか滅多に帰って来ないしぃ、同窓会だっていつも欠席だしぃ。お前、ほんと薄情だよね。あたしらなんかずっとこっちじゃん? 色々向こうの話聞きたいのにさ」
「どーもすみませんね。リア充極めてて、忙しかったものですからおーっほっほっほ」
高笑いと共にそう嘯くと、パピ子に鼻で嗤われた。
「ウソだね。どうせ休みの日でも、酒飲みながら本読んでばっかでしょ」
「何故わかった」
「まあ、せっかくこっち戻ったんだからさ、また遊ぼうよ。うちならいつでも大歓迎だし」
「うん……あ、でも。色々聞き出すつもりでしょ」
「当たり前じゃん。旦那もろとも、正座して拝聴します。先ずは、高校時代の話からだな」
高校時代なんて、部活一辺倒だったし……そもそも女子校だし……バイト先もケーキ屋さんで女子しかいなかったし……その後も女子大だったし、女同士でわいわい楽しく……
「もういい。つまんねー」
何故か彼女は舌打ちせんばかりに怒って、ハンドルを叩いている。危ない。
「何よ。正直に言ったのに」
「でもさ、彼氏はいたわけじゃん?」
「ん……まあ……」
「どーやってお付き合いまで行ったのよ」
お節介な人というのはどこにでもいる。要りもしないのに勝手に紹介してきたり、知人とくっつけようと裏で画策してみたり、前の職場では取引銀行のおっさんと見合いをセッティングされそうになったことすらあった。皆、悪い人じゃなかったけど……迷惑極まりない。
「片っ端から断るんだけどさぁ、何度も何度もアタックしてくる人もいるわけ。かなり厳しく突き放しても、諦めない。もう、根負けだよね。そこまで言うなら……まあ、しょうがないからレシーブしてみるか。みたいな感じでさ」
「なんか、むっかつくわ。マジかぐやじゃん」
「いや、一応お付き合いはしたんだから、かぐやじゃなくない? でもね……結局相手をそんなに好きになれなくてね。結果、ゴメンなさいって」
「すんなり別れられた?」
「いや、かなりごねられた。でもほら、私の本気のブロックは鉄壁だから」
「……アタックだのブロックだの、バレー部ネタはいいから」
「バレーといえばさ、レシーブに足使っていいっていうルール改正どうよ、って思うの。今更だけど。サッカーがハンドオッケーになるか? って話よ」
「話変えんな」
「あ、バレた」
私の策略をひらりとかわした彼女は、ハンドルを切りながら淡々と話しを続ける。
「あたしはさー、もうハルあたりとくっついちゃえばいいと思うんだけど。アンタら仲良いじゃん」
あり得ない。呆気にとられて、一瞬絶句してしまった。その数秒をどう勘違いしたのか、パピ子は妙に嬉しげに同級生同士、地元同士の結婚のメリットを語り出す。曰く、昔話で盛り上がれる、地域の常識を共有出来る、互いの実家が近い等々………
「まあ、上手くいってる場合はそれでいいんでしょうけどね。あんただって一回、地元のコと離婚してるじゃん。バッタリ会って気まずかったりとかは無い?」
「あー、うん。最初の頃は、多少? でも元彼とかその友達もみんな地元だし、結局余裕だよね」
「私はそれ無理だわ。想像するだけで気まずい。まあ、どっちみちハルは無いよ。あいつ、年上好きだもん」
「え。まじで?」
「知らなかった? 中学の時なんか、音楽の先生ガチで狙ってたし。なんなら初恋は幼稚園の先生だったし」
「そうなんだ……どうりであれだけモテてたのに、彼女いなかったわけだ」
「学校外には、ちゃんと居たみたいだけどね。で、今のヤツのストラークゾーン、30から42歳らしい。人によってはそれ以上もオッケーだってさ。どうよ」
「わあ……わりぃ、ちょっと引いたわ」
やっぱり引くか………私のストライクゾーンは35以上45歳まで(人によってはそれ以上も)って言ったら、どうなるだろう。うん、少なくとも、運転中はやめておこう……
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