第22話 死滅の庭に救いの雨が降る
※
昏睡状態に陥ったコーイチは夢とも現ともつかぬ不可思議なサンクチュアリにいた。彼の母でもあるメタトロンの案内で庭を逍遥していたのである。
これは俗説だが、メタトロンとは、「視る」天使とされる。本質や属性を見透かす天の眷族と古来より囁かれ続けてきたのだ。「天の書記」、「神の代理人」などの異名とともに、神にもひとしい絶大な能力を有する。三十六対の翼と三十六万五千もの眼があるとされる異形の天使でもあったが、しかしいま、コーイチとともに歩く少女の容姿はふつうの人間とまったく変わらないものだった。
改めて強調するまでもなく、ここは異様な庭園だった。
濃密な空の青が眼球に染みてきて、少し痛い。メタトロンを母に持つコーイチでなければ瞼を開けることすらできなかったろう。
そう、メタトロンの庭とは酷く風変わりな庭園、……いや、廃園だった。
枯れた樹々の森がつづき、樹に眼を転じれば、白い幹から葉っぱのない枝がねじくれ、それはまるで煉獄で群れなす人々が苦悶する姿を象った化石に見えなくもない。
シャリ、シャリ、シャリ。
さっきから歩くたび、靴裏で小気味のよい音がする。コーイチはさっきからスニーカーが踏みしだく感触が気になっていた。
地表が白いのは雪が降ったからではなかった。地を覆のは骨だ。おびただしい量の骨がそこいらじゅうに堆積していた。
骨を脆い。さっきからシャリシャリ音をたてて砕きながら歩いていたのだ。
ゴブリンらしき頭骨がもっとも多い。さらにハルピュイアのそれが混じっている。天使の翼の骨格も半翼だけ打ち捨てられているのが視界に入る。骨の形だけでは区別はつき難いが、死神や魔女、はたまた異形の悪魔の恐ろし気なそれもあったろう。そうした骨が地面を堆く覆っているのた。
どこへ導かれているのか、彼は知らない。空の青と骨の白。コーイチと少女は静かな化石の森を歩きつづけた。
そしてメタトロンの庭は美しくもあった。
やすらかな甘い空気に満ちている。すべてが穢れをさっぱり拭われ、いっさいが死滅したあとの空虚となったがゆえの清浄さが支配していた。
そう、――死滅しているがゆえに大天使メタトロンの庭はかくもうるわしい。
やがて樹の骸でできた化石の森と、骨の道を抜けた先にぽっかりと空がひらけ、公園らしき場所に出た。白い森をバックグラウンドにして壊れた噴水と古びたベンチがあった。
髪の白い少女はそこへ座るようにコーイチを促すのだ。
しばらく沈黙がつづいたが、ベンチの上はコーイチにとって居心地が良かったし、母との再会は喜ばしい。――その風貌はかなり変化し、戸惑うばかりであったとしても。
たしか一年ぶりだ。一年前、先代の大天使と、天に叛きし天使、すなわちケンタウロス少女こと逢沢花林の彼氏との闘争があって相討ちとなった。大天使は去り、母親は空位を埋めるべく大抜擢され、天使庁を統べる最高位の大天使となったのだ。
たかだか一年前の話だというのに途方もない昔噺のように思えてならない。
口火を切ったのは、母親の方だった。
「いい機会なので夢の回廊を通じ、あなたと話しています」
コーイチは頷いた。
「ええ、ここはお母さんの心象風景の中なんですか?」
「――そう。誰も立ち入ることが許されない場所。すべては骨になってしまうから」
自嘲にわずかな影が落ちる。
「ちょっと、さみしい」
コーイチが口にした素直な感想に、母親はやるせない表情になった。
「わたしは母親失格、ですね。昔からそうでした。生きとし生けるものをすべてダメにしてしまう。ハーブはもとより、オレンジの薫りのする薔薇にも挑戦したけど、みんな枯らしてしまった。鉢植えも庭木の区別なく、すべての植物がそうでした。でも、あなただけは別。ちゃんと育てようと頑張ったでも、あなたを森野さん一家に託して良かったと思ったのも束の間、結局はこんな死滅の庭に連れてきてしまった……」
母親は植物を枯らしてしまう名人だった。庭木はことごとく枯死し、花壇には花の骸であふれた。
コーイチは首を振ると、必死になって弁明した。
「けど、仕方がなかったんです。大天使の空位を誰かが埋めなければ、世の中は今よりももっと乱れてしまったことでしょう。ゴブリンやハルピュイアの跳梁を許し、世界全体が大混乱に陥っていた可能性だってあったんですから」
一年前の大抜擢によって天使庁の最高位の座を射止めた母親だったが、はじめから天使だったわけではない。それまでは平凡な主婦としての生活を営み、別れた元夫からの生活費の仕送りを受け、コーイチとふたりで暮らしていた。
むしろ天使のアダプターになったのはコーイチが先だった。
しかし大天使メタトロンのアダプターになってしまっては、人としての普通の生活は望むべくもない。そのことは天使だったコーイチ自身が良くわかっていたし、事の重大さをわきまえていた。
それは母親が望んだことではなかった。コーイチだって同じだ。だから彼の態度は母を慮ったものになった。とはいえ息子のその想いに少女はくすくす笑う。
「何かおかしいですか?」
「ううん。コーイチも成長したなぁ、って。これもユキちゃんのお蔭かな。あの子が母親のかわりをしてくれているのね」
「ち、違いますよ」
慌てて否定するコーイチだが、髪の白い少女は微笑んだ。
「でも、もうユキちゃんとはお別れね」
耳を疑った。たしかに天使の寿命は短く、この汚濁に満ちた世界で生き永らえるのは困難きわまりないことは知っていた。
それにしても……。
「どういうことです?」
「実はね、迎えにきたの」
「迎えに?」
唖然として少女を見つめた。それは涅槃、ニルヴァーナと呼ばれる段階への移行を意味していた。しかしニルヴァーナが告げるもの、それは紛れない――死。
「叛逆の天使になることはわたしが許しません」
雫が一滴、コーイチを濡らした。
雨が降ってきたのだ。あれほどまでの青い空だったのに、メタトロンの庭には珍しく灰色に曇った雨雲から時ならぬ雨つぶが落ち、石化した森や骨を静かに濡らした。
乾いた世界が潤いはじめている。
コーイチの心に生まれて初めて母親に対する反抗の火が灯った。
雨はその火を打ち消すどころか勢いよくほむらを煽り、彼を慰めるメロディとなって音をたてて降った。
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