第8話 コーイチは闘わない天使
「上昇します!」
と短くコーイチ。
その刹那、航空力学を無視した、ありえない事象が起こった。
衝突寸前だったコーイチは直角に曲がって、そのまま水晶の壁面にそって垂直方向に急上昇したのだ。
「んががががががががぁぁぁぁっ」
シールドで坂田を保護しているとはいえ、耐え切れないほどの重力がかかり、骨が軋んだ。
だが坂田は気絶しなかった。
塔のてっぺん、三角錐のもっとも尖った先端まで飛ぶとコーイチは停止し、そこでホバリングした。
コーイチの腕に抱かれながら坂田は驚くべき光景を目撃する。眼下で展開するのは彼の想像を絶した恐るべき光景だった。
空を暗く覆い尽くすかのような、さながら蝗の大群を思わせるハルピュイアが、次からつぎへと塔に衝突していた。コーイチを追尾していたが、彼のようには塔を避け切ることができず、群れをなして真正面から突っ込んでゆくのだった。
むろん塔にも甚大な被害が……。
――いや、違う。
あれは衝突などではなかった。塔はまったくの無傷だ。塔のそば近くまできたハルピュイアから順番に水晶宮殿から放たれる霊光に呑まれてゆき、消滅しているのだった。これは罠だ。コーイチが仕掛けた罠なのだ。その光景はまさにヤスリで削り取られてゆくさまに似ていた。
「おいおい消しゴムかよ」
坂田の率直な感想だった。
はじめからハルピュイアなどいなかったかのように結界に搦め捕られ、天使庁から放射される霊光によって滅ぼされてゆく。
クリスタルパレスのそば近くではハルピュイアは存在を許されないのだ。
「退魔の術ですらありません。この聖なる領域では最初から魔はその影すら存在してはならないのです」
「どういう意味だ?」
コーイチは珍しく表情を引き締めると真顔で言った。いつも絶やさずにいた微笑みはそこになかった。
「対立から悪が生じる。なら、そもそも対立すらなかったとしたら?」
「だから、消しているっていうわけか?」
「いえ、違います。みずからの非を悟り、みずからの意志によって消滅することを選んでいるだけです」
これは天使のベーシックな思考法なのだろうか? 坂田は空恐ろしさすら感じた。
「よくわかんねーけど」
「消しているんじゃありません。クリスタルパレスに近づくだけで、あんな風になっちゃうんです。光の中に魔は存在できない。ハルピュイアは餌を追うことに夢中だった余り、クリスタルパレスに気づかなかったんでしょう。こんなこと、いつものことですが……」
「そうなのか……」
「ともあれ、そもそも天使にとっては最初から魔は存在しないのです。対立がなければ敵もない。みなさん、全員がお友だち」
「いや、だけどさ、ならなんで真田がハルピュアに襲われるわけ? 天使の前ではそもそも敵は存在できないんだろ? 矛盾してないか?」
その点を指摘されると、コーイチはたちまち弱気な表情を浮かべた。
「そうです。矛盾していることは認めます。僕は未熟だから。僕に力がないっていう何よりの証明なんですけどね。だって現実にハルピュイアに襲われ、対立がそこに生じているわけですから。なのでクリスタルパレスと比較すると光がまだまだ足りないっていうのは事実ですし、認めなくてはならない現実です。言い訳でしかありませんが、僕はまだ修行中の天使なんです」
「敵が存在しない、か。理想論だけどさ、ちょっと怖ぇーな、真田のその考え方」
コーイチは何も言わず、ただ柔らかく微笑むばかり。
下ではハルピュアが消されてゆき、さっきまでの怪鳥が遊弋した空からは陰鬱さが次第に綺麗サッパリ拭われてゆく。そして、もとの青い爽快な朝を取り戻しつつあった。
カーッカッカッカッ。
その時だ。天狗先生の陽気な高笑いが風に乗って鼓膜を震わせた。
「上首尾だったのう。怪鳥の殲滅はまもなく完了じゃて」
天狗先生はやってくると、コーイチのすぐ横に並んで空中に静止し、ともにハルピュアの消滅を眺めた。
だが、どうにも収まらないのは坂田である。天狗のその怪異な異形を眼のあたりのしても怖気づかなかなったのは、やはり先ほどの空中戦で多少の胆力がついたからかもしれない。
初対面だというのに馴れ馴れしくも無礼な言葉をぶつける。
「おい、天狗野郎。ざけんなよ。今までどこに隠れてやがった。俺と真田がどんだけ苦労したと思ってんだ!」
激しくまくしたてる坂田を見ると、天狗先生はまたも高笑いした。
「何やら小僧が吠えておるようじゃの。おぬしはそこで見物してただけじゃろう。カーッカッカッカッ」
まさに正論。返す言葉がないので歯ぎしりしながら坂田は黙りこむ。
「天狗先生は神通力のあるウチワでハルピュイアを一か所に吹き集めてくれていたんだよ」
「まさにその通りじゃ。箒でゴミを集めるのが、ワシの仕事じゃ。一つひとつ拾っておったらキリがない。わかるじゃろ、小僧。後衛にまわるとは、そういう意味じゃて」
「いろいろと助かりました」
「なに、礼には及ばんて。それじゃ、ワシは伊勢までひとっ飛びして朝飯に極上の鮑のステーキでも食らってこようかの。じゃあな、お若い衆。しっかり勉強せいよ」
そう豪放磊落に言い放つと天狗先生がまたもいつもの高笑いを残し、伊勢の空にむけて旅立っていった。
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