午後七時くらい
小欅 サムエ
八時くらいだったかも知れない
前を歩く小汚いオッサンの白い吐息が、俺の顔に降り注ぐ。
冷静に考えればホモサピエンスの吐き出した二酸化炭素と水蒸気、その他もろもろの成分でしかないのだが、当然のことながら不快である。
この気持ちをどう表すべきか。ただ「気色悪いんじゃボケ」と叫ぶのも良いだろう。しかし、この暗い夜道で通行人といえば、俺とそのオッサンくらいしかいない。この状況で叫べば、もちろんそのオッサンにも嫌な思いをさせてしまう。
ならば、どうするか。ああ、気持ちのいいマイナスイオンだなあ、などとコマーシャルめいた発言なんて出来るはずもない。なにせ吐息は小汚いオッサンから発せられたものだ。マイナスとなるのはイオンではなく、俺の精神力であろう。
よし、これはどうだろうか。息を止めなるべくオッサンの吐息を吸わず、帰宅したら洗面台へと直行し顔面と口腔内を洗浄する、というのは。
うむ、コロナ対策も兼ねるとすれば間違いのない行動である。冬である故に少々冷える思いはするが、それでもこの不快感を拭うには充分であろう。
しかし、これはこれで癪な話だ。この小汚いオッサンに負けた、という証明でもあるのだ。ただのオッサンならばともかく、小汚いオッサンに負けたというのは、人生の汚点でもある。
そうだ。いっそのこと、このオッサンを追い抜いて俺の吐息を吹きかけてやろう。そうすれば、お互いに吐息を掛け合ったライバル的な存在へと昇華し、自尊心が傷つくこともない。
善は急げだ。俺は速足でオッサンを追い抜くと、これでもか、と言わんばかりに吐息を噴射する。
だが、オッサンは急に方向を転換し、十字路を右へと曲がっていった。無論、俺の吐息はオッサンにかかることなく、ただ虚空をさまようだけであった。
静寂が俺を包む。冬の冷たい風が……いや、冬だということは関係なく、凍てつく空気が俺を襲う。
俺は一体、何を一人でムキになっていたのだろうか。莫迦らしい。
軽く溜息をつき、瞬く星々に見送られながら俺は家路へとつく。それはどこか、言葉を発しないはずの星すらも、俺の行為に呆れているようであった。
午後七時くらい 小欅 サムエ @kokeyaki-samue
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