第179話「確かなるもの その2」
レイモンド教授は女装している。中年男性がスカートを履いているのは、まあ良しとしよう。スコットランドの男性がキルトのスカートを履いているのを見たことがある。しかし胸に詰め物をしているのはどうなんだ。しかも左右で大きさが違うし、その雑さが気になって仕方がない。やっぱりただの変態なんじゃないかなと思う。
「神の実在証明というのは非常に微妙な問題でね。大前提として"神を疑うべからず" という教えがあるが、この証明を試みる事は逆説的に神の実在を疑う事になってしまう。……しかし近年、そのタブーを犯してでも神の実在を証明する必要が出てきたのだ」
レイモンド教授は部屋を歩き回りながら、そう語る。女装姿で。
「教授、まずは女装をやめて頂きたいんですけど。集中出来ません」
「近年、宗教の権威が揺らいでいるのだ」
「あっ、無視決め込んだな」
「いや無視していない。女装した私は今、母なる大地である」
「……? ……????」
僕とイリスの困惑をよそに、レイモンド教授は胸に手を突っ込んで詰め物の1つ――――木製のボール――――を取り出し、床に横たわった。そして詰め物を掴んだ手を伸ばし、頭の方から腰の方へと大きく弧を描きながら移動させた。
「これだよ、これが従来の教会の世界観」
「……この変態ムーブでわかっちゃったのがそこはかとなく嫌ですけど、天動説の事言ってます?」
「その通りだ。そして地球平面説だな。この星は私の身体のように平面であり、最端に達すれば奈落に落ちてしまう。そう教えられている、しかし」
レイモンド教授は立ち上がり、頭を振った。
「船乗りは昔から気づいていたのだ、マストから見えるこの星は平面ではなく、緩やかな球状だと。そして、もしかしたら世界の果ての奈落など存在しないのではないか――――それは外洋進出が可能になり、新大陸を発見してしまった事で真実味を増してきた。さらに問題はこれだけではない」
教授はもう片方の胸の詰め物を取り出した。それは丸められた地図――――いやこれは星図だ――――と、羅針盤だった。
「目印が何もない海上であっても、星さえ見えれば羅針盤との組み合わせで、おおよその自分の位置を割り出す事が可能だ。しかしだね、星の位置というのは毎年変わるのだ。いくつかの惑星は日ごとに位置と軌道が変わりもする――――故に
レイモンド教授は僕にボールを渡し、僕の周囲を旋回しだした。そしてイリスにも、教授と同じ速度で僕の周囲を旋回するように指示した。
……結果、僕は嫁と変態に周囲をぐるぐると回られるという謎の状況に陥った。なんだこれ。
「君の持っているボールが太陽で、私がこの星、イリスくんが惑星としよう。いま私からは惑星が常に同じ距離を保ち、同じ軌道を描いているように見えるが」
教授は旋回速度を早めた。イリスの旋回速度はそのままだ。その速度の差から、教授とイリスの距離は徐々に変化していく。
「こうして旋回速度に差が出ると、私から見える惑星は時に近づき、時に離れて見えるわけだ。まさに
言い終えると教授は旋回をやめ、見事なターンを決めて静止した。ターンの瞬間にスカートが翻り、股間が丸出しになった。
「僕の世界でも地動説が支持されてますし、それが正しいと思います。で、教会の教えと実測の間に矛盾が発生して、教会の権威が揺らいでいるって言いたいのもわかります……でも教授、なんでノーパンなんですか??」
「そりゃ君ィ、女性は普通パンツ穿かないだろう」
「そう……そうでしたね……」
悔しいが教授が言っている事は正しい。僕もイリスとの情事に及んで知った事だが、この世界の女性はパンツ穿いてない。リーゼロッテ様のように乗馬する女性は下着を穿く事があるが、それ以外の女性はノーパンなのだ。
イリスだってノーパンだ。見たことないけどルルとフリーデさんだってノーパンだろう。故に教授が言っている事はわかる。わからないのは、何故そこまで再現したかだけだ。股間出したいだけなんじゃないかという気がしてならない。
「新教では、聖典のみを信仰する事になっている。しかしその聖典が間違っていたとなると、信頼はガタ落ちだ。まあナイアーラトテップ様は混沌の神であらせられる、多少の嘘が混じっていたと解釈しても良い。しかしそれによって信仰心が離れてしまうのは大問題だ」
この世界において、ナイアーラトテップを含む神格を信仰するという事は、来世で復活させてもらう事を意味する。
「人々が来世で復活出来なくなるから?」
「それもあるが、キレたナイアーラトテップ様が人類滅ぼすかもしれん。少なくとも災害や疫病引き起こして、恐怖によって信仰心を縫い止めようとするんじゃないかな」
「クソ迷惑ですね!!」
「それは不本意ながら認める。しかし放置して良い内容ではないという事はわかっただろう? ――――そこで私は、新たに信仰を強化するための方策を練っていたのだ」
「それが神の実在証明?」
「そうだ。"こうして
教授はこう言っていた。『この世のあらゆる人が、己の記憶の確かさすら証明しえないのだ。まして、そんな不確かな自分が信じる神なぞ、どうして信じる事が出来ようか』と。
「これは恐ろしい問題だよ。自分が不確かだという事は、自分の目に見えるもの、肌で感じるもの、全てが疑わしくなってしまうのだ。あらゆる物が夢幻なのではないか、そう思えてきてしまう。自分が読みふけり、信じていた聖典すら全てがだ」
そう言って教授は自嘲気味に笑った。
「おかしな話だろう、信仰を取り戻そうとした男が、信仰対象すら心の底から疑い始めてしまったのだ。……正直、これは危険な思想だ。世に広まれば、信仰心を致命的に損なう可能性がある。私はこの思想を抱いて自死し、闇に葬り去るべきなのかとすら思う」
「教授、それは」
いかな変態とはいえ、自殺されたら後味が悪い。
「まぁ君らに話しちゃったから、死ぬとしたら君らも巻き込むがね」
「ふざけるなお前だけ死ね」
鍋を抜きかけるが、教授が制した。
「冗談だ。だが私がこの思想を広めようとした時は、君のその鍋で私を葬って欲しい。魂を吸われてしまえば、万が一にでも化けて出る事もあるまいよ。ナイアーラトテップ様の信仰を損ねようとした男が、その
「なんで皆して僕に負担押し付けるんですかねぇ……そんな事やりたくないんですが」
「大人とは汚いものだよ、クルトくん。さぁこれで君は、私を助けられなければ私を殺さねばならなくなったわけだ。嫌ならキリキリと知識をひねり出し給え……」
……最初からこれが目的だったのか。僕に余すことなく知識を絞り出させ、それでも満足いく結論に至らなかった場合、教授は死ぬつもりなのだ。自死出来なかった場合には僕を処刑装置として使う、という保険までかけて。
正直、ちょっと頭が良いだけの変態だとナメていたが、実際は違ったのだ。この人は僕なんかよりずっとずっと頭が良くて、その頭脳を信仰――――この世界においては人類救済に他ならない――――に捧げ、さらには命まで投げ出す覚悟があるのだ。その人生を神学という学問に捧げているとも言える。
――――本物の、学者なのだ。
頭だけでなく胃まで痛くなってきたが、事ここに至っては仕方あるまい。僕は教授の質問に答えていく事にした。
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