第180話「確かなるもの その3」*
レイモンド教授は椅子に座り、じっと僕を見据えた。女装姿ではあるが、その目には確かな知性が宿っている。
「さて早速だが、君の世界の話を聞きたいな。この世界より随分と進歩した世界だと聞く、君たちの世界ではどうやってこの問題を克服したのだ?」
『この世のあらゆる人が、己の記憶の確かさすら証明しえないのだ。まして、そんな不確かな自分が信じる神なぞ、どうして信じる事が出来ようか』
『これは恐ろしい問題だよ。自分が不確かだという事は、自分の目に見えるもの、肌で感じるもの、全てが疑わしくなってしまうのだ。あらゆる物が夢幻なのではないか、そう思えてきてしまう』
教授はそう言っていた。自分を含めこの世全てが夢幻である可能性に気づいたとして、どう対処すべきなんだ?
「……すみません、知らないし考えた事もなかったです」
「宗教はどうだね? 君の世界の宗教は、この問題にどう答える?」
「僕が住んでいた国では宗教に触れる機会自体が少ないんです、なのでわかりません……」
法要で、お坊さんが説法で似たような事を言っていたような気がする。仏教は答えを持っているかもしれないが、残念ながら僕は説法の類は全部聞き流していたので覚えていない。
異世界で宗教を論じるハメになるとわかっていれば聞いていたものを。全く、人生というのは何が役に立つかわからない。後悔してももう遅いが。
「宗教に触れる機会が少ない……具体的には? 週1回の礼拝すら無いという意味かね?」
「そもそも特定の宗教を信じてる人が少ないんです。一応3つの宗教がメジャーなんですけど、日常的に宗教施設に行ったり、祈ったりする人は相当に少ないと思います」
「宗教の影響力が無くなっている、と」
「そうなりますね……まあ、行事としては残ってますけど。年末はキリスト教のお祭りで騒いで、年始は神道の……神社にお参りに行って、人が死ねば仏教で弔うとか、そんな感じで」
「ちょっと待って、複数の宗教が混在しているの?」
イリスが尋ねてくる。教授も疑問符を浮かべている。……そうだよね、自分で言ってて僕も奇妙だなと思ったけど、特定の宗教が生活の基礎になってる人たちにはもっと奇妙に映るよね!
「そういう感じ。全く別の宗教が混在してて、たぶん深く考えれば相互に矛盾する教えもあるんだけど……深く考えてなかったな、少なくとも僕は」
「大変興味深いが……その話を聞くに私が感じるのは、無関心だ。君は宗教に興味を持っていない。違うかね?」
「そうですね。まあ、熱心な宗教家も居るとは思うんですけど……少なくとも僕の周囲では少数派でしたね。というか、宗教を信じてる事を公言するとヒかれるような空気もありましたし」
「ほう。君の世界では、いや少なくとも君の国では、宗教は影響力を失ったばかりか、信仰する事自体がタブーになっていると?」
「タブーまではいかないですけど、なんて言えば良いんでしょうね……そうだ、科学的な人間ではないと思われます」
「"科学" が宗教より重んじられていると?」
「そういう事になると思います」
科学の尺度で考えれば、宗教的な行為――――例えば祈りなどは全く意味が無いという事になる。「祈り」は脳の活動だが、それが自分の身体を介さずに、他の何かに影響する事は無い。物理的な繋がりが無いからだ。
祈って何かが起こったとする。それは科学的には「偶然」という事になる。そうでないとすれば、「祈り」を聞き届けた何者かが居て、そいつが物理的に干渉した事になる。――――極論、祈りを認める宗教を信じるという事は「念じた事を感じ取ってくれる、目には見えないけど物理的な干渉力のある何者か」を信じるという事なのではないか?
……うん、日本でこれを公言したらヒかれるな。でも僕は実体験として、祈りが通じる神を知ってしまっているけど。
教授は少し考えた後、再び質問してきた。
「一応すり合わせておこう、科学とは何を指す? 我々はそれを知識や学問といった意味で使うが」
……あれっ、科学って言葉の意味が僕たちと違う? でも科学って何だろう、急に聞かれると困るな。「科学的」だとかは日常的に使っていたが、実際科学って何なんだ? 義務教育じゃ習ってないぞ。……いや、本当にそうか?
「正直、深く考えた事がないので間違っているかもしれないですけど。"実験して得られた事実を積み重ねた知識の集大成" かと」
理科の実験を思い出す。教科書に書いてある事を、実験して確かめた。別に実験なんかしなくても教科書に書いてあるんだから、それを暗記するだけで良いじゃん……なんて考えていたが、今考えてみるとあれは、教科書の正しさを確かめる作業だったのでは?
もちろん、教科書の内容全てを実験して確かめる事は出来ない。だが一部だけでも実験してみて、「きっと他の記述も正しいんだろうな」と信じるための作業。そういうものだったのかもしれない。
「おお、話が近づいて来たな。実験、つまり観測が幻ではないと確信出来る何かがあるのだね?」
「えっ……あー……。そういう事に、なるんですかねぇ……?」
そうだ、実験してみて「成功した」として。教授のように自分の記憶、観測すら疑うとすれば、その「成功」すら疑わしくなる。そう考えると、理科の実験をやってみて「きっと他の記述も正しいんだろう」と信じるのは、信仰と何が違うんだ?
「……すみません、科学と宗教の区別がつかなくなってきました。僕は無邪気に科学を信じていましたけど、確信出来る理由を問われると"なんとなく、そういうもんだと思ってた" としか言えません……」
「おいおい……。まあつまり、科学が確かかどうかは知らないが、君はそれを思考の基礎に置いていたという理解で良いかね?」
「そうなると思います」
「であればそれは、君が言うように宗教と同じだな。例えばイリスくん、君は神を疑ったことはあるかね?」
「ありません」
「では何故、神を信じる? 神を疑うべからずという基本教義を抜きにして答えて欲しい」
「……小さい頃から"そういうものだ" と教わったからです」
「うむ。一般的な信徒は皆、似たようなものだろう。幼少期から刷り込まれ、疑うという視点を持たない。クルトくんも同じだろう、宗教が科学に置き換わっただけだ」
そう言われればそうかもしれない。何故それが正しいとされているのかわからないままに取り敢えず科学を受け入れ、生活や思考の基礎に置いている。確かに僕のような一般人にとって、科学は宗教と同義なのでは?
「少し話が飛ぶが、科学では死後の世界や魂の存在を認めているかね?」
「多分、"存在する可能性は限りなく低い" って回答になると思います」
「なら科学の一般信徒である君に問おう。君自身は転生という形で"存在する可能性が限りなく低い" 死後の世界や魂の存在を認めてしまったわけだな?」
「……そういえばそうですね」
「つまり状況的には、聖典の教えが間違っている事に気づいた私と、殆ど同じ状況な訳だ。……では同志よ、君は今、何を信じる? 科学すら間違っている事があると気づいた君は、何を信じている?」
確かに僕は異世界転生という形で科学を否定してしまった。しかもこの世界には魔法もあればモンスターも居るし。
だが魔法やモンスター以外の物理法則は、僕が見てきた限りでは同じに見える。
何度も実験し、銃に使える火薬を開発した事を思い出す。……ああ、結局はこれなんじゃないかな。そこで妥協するしかない。
「自分の観測、ですかね。何度も実験・体験して、確からしい事を積み上げて、信じる」
「では私の問いを重ねよう、その観測が正しいという保証は無い。観測する君を含めて全て夢幻かもしれないのだ、それでも信じきれるのかね?」
この世界全てが、例えばナイアーラトテップの見せる夢幻である可能性、それは否定しきれない。というかこの世界はアツァトホートの夢だと言われているのだ、むしろそれが正しい可能性の方が高い気もする。だがそれを気にしても仕方ないのではないか?
「そうだとしても、その夢幻を看破する方法が無い以上、妥協して受け入れて生きていくしか無いんじゃないですかね。例えば"今お腹が空いている" と感じるとして、それを"夢幻だ" と無視を決め込んで何も食べなかったら、餓死しますもん」
結局、教授の懸念は今を生きていく上では無意味なのではないかと思えてきた。気にしても気にしなくても、関係なしに世界は動いていく。少なくとも、僕にはそう見える。
「僕自身がアツァトホートの夢の登場人物で、実体が無いとしても。こうして空腹を感じたり、"何か食べたいなあ" と思う以上は、その感覚と思考に従って生きていくしか無いんじゃないですか?」
それ以上は考えても無意味だ――――そう言おうとした瞬間、何かが引っかかった。
本当に考える事は無意味だろうか? 考えている内容は確かに無意味かもしれないが、この世界の神話に照らし合わせると、面白い事にならないか?
「……教授。僕がアツァトホートの夢の登場人物だとしたら、僕の感覚と思考も、アツァトホートが"そう感じろ、そう考えろ" と指示した結果になりますよね? 夢だから、無意識にそう指示したものとしても」
「そうなるな」
「僕は今、自分で思考して話しています。少なくともそういう感覚だけはあります。例えばアツァトホートが"クルトは自分で思考して話す" と指示して、実際その通りに操られているとしましょう。でもそうなると、この思考だけは実在してる事になりませんか?」
「それ、は――――――――」
教授は絶句し、震えだした。僕よりずっと頭の回転が早いのだ、僕の言いたいことを悟ったようだ。
僕は今、思考している。絶句している教授の女装姿を気持ち悪いなぁと思っている。この「気持ち悪いなぁ」という思考がアツァトホートが「そう感じろ」と指示したものだとしたら、「その指示」だけは実在していると言える。その指示が無ければ、僕が「教授って気持ち悪いなあ」と感じる事も無いからだ。
「自分の思考それ自体が、アツァトホートの実在を証明する事になりますよね」
これはこの世界の神話に則ればの話。別にアツァトホートを想定しなくても、僕が何かを考えている時、その思考だけは夢幻ではないと言える。――――アツァトホートのような神なんて想定しなくても、僕は僕の実在を確信出来るんだ。
僕は、ここにいる。僕の思考だけは絶対に実在する。それだけは事実だ。
……教授は目に手を当て、男泣きを始めた。女装姿だが。
「ああ、何故こんな単純な事に気づかなかったのだろう。私は、私を含め全てが夢幻なのではないかと疑った。だがそう疑った思考、それ自体が自分の存在を証明していたのだ。我思う、故に我ありだ」
……どこかで聞いたことある言葉だなぁ!
「これは大変な発見だよクルトくん。思考する限り、自分の存在だけは確かだと確信出来る。そしてその思考の指示者がアツァトホート様だとすれば、アツァトホート様の実在をも証明出来る。……君は神の実在を証明する手がかりを発見したのだ!」
「あー……でもこれ、自分の実在を証明するだけで、自分の観測の正しさまでは証明出来ないですね」
「確かにそうだが、それは君が言ったように妥協するしか無いのだろうね。夢幻を看破する方法が無い以上は、自分の観測を受け入れて生きていくしか無い。だが、確かに実在する自分が観測したものは、そうでないものより確かな可能性は高い」
「なるほど」
まあ結局はそこを妥協ラインにするしか無いよね。空腹という観測を疑って何も食べなければ餓死するもん。少なくとも、確固たる自分が見たもの感じたものは信じるしかないのだ。
「世界は今、"全ての実在が疑わしい" から"自分以外の実在は疑わしい" へと進歩した。0が1になるように、無から有を生み出したに等しいよこれは」
「そんなに……」
「誇りたまえ、これは神学上の――――いや、哲学上の偉業といえる! ……ん?」
「どうしました?」
「いや、別の懸念が生まれただけだ。いま論じるべき事柄ではない……ともあれ、君は私の出した条件を見事にクリアした。約束通り、君にピクト語を教えよう」
「やった!」
「今日はもう遅い、明日以降にしよう。授業の無い時間ならいつでも尋ねて来ると良い……というか君、ピクト語を習って何をしたいんだね? 論文を読みたいというなら私がその場で翻訳して朗読しても良いが」
この身体の残した(恐らくナイアーラトテップに敵対的な)メモの解読のためだが、これは伝えて良いのだろうか?
教授は、信仰ためなら自死をも厭わない意識の高さを持っている。あのメモがまずいものだったとして、口外するような事はないのではないか。それに、僕がピクト語を習って自力で翻訳するのは骨だ。それよりはピクト語ネイティブに翻訳してもらった方が早い。
「……じゃあ、その方向でお願いしても良いですか?」
「勿論だ」
そういう事になり、今日の所はお開きとなった。長老をしばき倒したフリーデさんも戻ってきて、3人で大学を後にした。
レイモンド教授が門まで見送りに来てくれたが、女装姿のままで気持ち悪かった。――――その感覚と思考の実在だけは、確かだと言えた。
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