第157話「大学への誘い」
ここ最近、クエストも商会の仕事も落ち着いた事もあり僕は1つの課題に取り組んでいた。
ネイティヴとのマンツーマン会話レッスンとは贅沢な話だが、1つ問題がある事がわかった。語彙が限定されてしまうのである。「日常会話をサリタリア語で話す」という形式だと、語彙は必然的に日常で使うそれに限定される。しかしメモに使われている単語は、どうにも日常会話の語彙はあまり使われていないようなのだ。
ヨハンさんを家に呼んでレッスンを受けている最中、何か打開策は無いかと尋ねてみた。
「商売がてら旅行に行くのが良いんじゃないかね」
「それなら確かに普段使わない単語も出てきそうですけど……今は冒険者ギルドが東方に出払ってて、僕たち留守組は遠出出来ないですしねぇ」
「だなぁ。あとは、学生か上流階級向けのやり方になるが……本を翻訳するってのは手っ取り早いらしいぞ。俺はやった事ないが」
フリーデさんが頷いた。
「司祭や牧師見習いはそうやってラトゥス語を勉強しますね。最初は写本から始めて、先輩や教導役に教えを請いながら徐々に翻訳していくのです」
「それ良さそうですね、手間はかかりそうですけど書きながら覚えれば飲み込みも早そうです。それに辞書があればヨハンさんの手を煩わせずに済みそうですし」
「……辞書ってなんだ?」
「えっ。ええと、単語の意味を解説して列挙した本です。例えばサリタリア語の単語を、プリューシュ語に翻訳したものが列挙されているような」
「無いよそんなもん。少なくとも出版されてはいないと思うぞ」
「な、何故!? あれば勉強捗るじゃないですか、需要はあるんじゃ!?」
「んなもん作る段階で金貨いくら飛ぶかわからんし、語学勉強したい奴はお前さんがそうしているように、家庭教師雇った方が安く済むからな」
……そういえばこの世界、まだ活版印刷術が無いんだったな!(絵画方面では木版画はあるらしいが) 本を作るにはまず材料を買って、手書きで書き込んでいく必要がある。その費用と手間を考えると、ネイティヴを「人間辞書」として雇ってしまった方が安いという事か。
「まあ、神学方面……ラトゥス語-プリューシュ語間なら、教師が懇意にしている学生に向けてそういった本を作って贈るような事はありますが。サリタリア語のような、現用言語間では皆無でしょう。それこそプリューシュ語とサリタリア語を両方話せる、帝国とサリタリア国境付近の住民を雇えば済んでしまうので」
「なんてこったい……じゃあ辞書は諦めてヨハンさんを頼るとして、サリタリア語の本を手に入れなきゃですね。本ってどこで売ってるんです?」
「行商人が持ってるかもしれませんが、基本は欲しい本の著者に問い合わせるか、写本屋に問い合わせるしかないですね。サリタリア語の本となると、ノルデンではほぼ需要が無いので行商人の線は絶望的と思いますが」
「……書店的なのは無いんですか?」
「無いですね。魔法関連書なら魔法学院に在庫はあるでしょうが、一般書籍となると皆無でしょう、それこそ需要が無いので」
「需要が無いって言うのは、さっきフリーデさんが言ったように、欲しい本の著者に問い合わせれば事足りるからです?」
「そういう事です。著者としても本の制作費が高いので、数を刷って流通に乗せられないのですよ。写本するとしても数部で、それを買ってくれそうな人に売りつけに行くのがせいぜいです。先程言った行商人も、買い取ってくれそうな人のアテがある時だけ買い付けるだけです」
ダメだ、現代日本と全く感覚が違う。現代日本ならぷらっと立ち寄った書店に並んだ本を眺めて「おっ、これ良さそう」と思ったものを買えばよいが、こちらは違う。まず最初に噂なり何なりを聞きつけて「これ良さそう」と思った本があり、それから著者本人から直接買い付けるのだ。そういう意味では、ネットで本を買うのと近い気はするのだが……。
「……じゃあ、図書館はどうなんです? 本を集積している場所は無いんですか?」
「神学関連なら教会が所蔵していますが、一般書籍となると貴族など上流階級がコレクションしている場合がある、くらいですね。それを除けば大学くらいでしょうか」
大学。そこに行き着くのか。ゆくゆくは入学したいとは思っていたが……。
「ちなみに図書館って誰でも利用出来ます?」
「基本的に学生のみですね、1冊金貨1枚は下らないような本を集積している場所に、誰でも入れるという訳にはいきませんので」
「ですよね……んんー……」
入学時期を早める事も検討すべきか、と思っていると、イリスが目を爛々と輝かせて帰宅した。
「クルト、これ!!」
そう言って彼女が僕に手渡してきたのは1枚の書類。受け取って読んでみる。
「差出人はノルデン大学……"貴女と、共著のクルト氏を特待生身分として本学への入学、ないし聴講生としての授業参加を認める" !? どういう事!?」
「ほら、トーマスの件の時に、ゼロの概念をこっちでも使えるようにしたでしょ。あれ、有用そうだから論文っぽくまとめて大学に送りつけておいたのよ。あんたも共著にしてね。大学は学問の発展のための人材を集めてるから、上手くいけば特待生身分が貰えるかもと思ったんだけど……上手くいったわ」
「すごいな……でもどうしてそんな事を? 君も早急に大学行きたくなったの?」
「……シルダ村の地下で手に入れた文章。あれの解読に手間取ってる。大学の図書館の本を使って解読したいのよ」
「なるほどね……ともあれ渡りに船だ、僕も図書館利用したかったんだよね。いきなり入学は仕事との兼ね合いもあるし難しそうだけど……聴講生でも図書館利用出来るかな?」
「確認しにいきましょ」
そういう事になり、僕とイリスは大学に向かう事になった。ノルデン大学は大学としては歴史が浅いらしく、図書館の蔵書数も然程期待出来ないそうだが、それでもレンガ作りの立派な図書館を備えていた。……それと対照的なのが、校舎だ。木造のそれは、見るからに粗末な作りなのだ。
「……大丈夫なの、この大学?」
「どうにも学長が学問偏重らしくてね、"校舎にカネをかけるくらいなら、研究費と蔵書に回すべし" って考えでこうなってるんですって。お陰でノルデン大学は富裕層からは忌避されてるみたいだけど」
「……ステータスってやつ? "俺はこんな立派な学び舎を出たんだぞ!" って言えないから?」
「そういう事。学問何だと思ってるのかしらね……まあ図書館目当ての私たちも人の事は言えないんだけど。ともあれそういう事情だから、逆に志の高い人が集まって授業の質は高いんですって」
それは期待出来そうだな、と思ったのだが。イリスはどこか懸念があるような、何とも言えない顔をしていた。
「どうしたの?」
「……学問にハマる人ってね、変人が多いのよ。ちなみに学長も変人で有名らしいわよ」
「あー……」
マッドサイエンティストのイメージが頭に浮かんだ。研究に熱中するあまり倫理観ぶっ壊れてる人とか、変人としての行動力が学問に向けられてるからギリギリ社会で生きられてる人とか、居そうだもんな……。
校舎に入り受付で事情を話すと、「学長にお問い合わせ下さい」と言われた。学長室への道順を教えてもらい、そこに向かう事になったのだが、受付の人に呼び止められた。
「そうだ、今廊下はワックス塗りたてなので足元には気をつけて下さいね。もう乾いているとは思いますが、日陰はまだかもしれませんので、踏まないように」
「あ、はーい」
僕は念の為イリスの手を取って廊下を進んだ。しかし受付の人の言う通り、床のワックスは殆ど乾いていた。……床材がめちゃくちゃ古そうで、ギシギシ言う。極限まで経費を抑えている事が伺えた。
やがてT字路に差し掛かった。僕たちはTの縦棒を進む形だ。しかし交差する廊下が、異様にテカテカと輝いているのが見えた。
「あれ、あっちは乾いてないのかな……」
「妙ね、窓は開いてるけど」
イリスの言うとおり、窓は開いていて風通しは良いし日も差し込んでいる。特段乾きづらいという事はないと思うのだが……。ともあれワックスの乾いていない床を歩くのはまずいだろうと、別のルートを聞くために受付に戻ろうとした瞬間――――交差する廊下の上を、何かが滑っていくのが見えた。
「んんっ?」
それは一瞬の事であった。確かに僕はそれを見たが、一体何を見たのか理解しかねた。記憶を辿ってみる――――それは、全裸の中年男性だった気がした。
「……ねえ、気が狂ったと思わないで欲しいんだけど。今、全裸の人が滑ってなかった?」
「私も同じものを見たわ」
自分がひどい幻覚を見たのではないとわかって安心したのも束の間、再びそれが滑ってきた。全裸の中年男性が、腹ばいで、ワックスを塗りたくった床を滑っていた。
「「…………」」
僕とイリスは顔を見合わせ、頷いた。
「「変態だーーーーッ!!!!」」
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