第31話鳳凰

 愛は正気を失わせたり、取り戻せたりする。


 罪人たちが殺し合うのを眺めていると、後ろから車のクラクションが鳴った。のっぺらぼうのタクシーがやってきたのだ。けれど私はそのままずっと、鉄柵の向こう側を見続けていた。


「御主人様。よく無事だったにゃん。怪我もないなんて、奇跡に近いにゃん」

「……ミケ。ベルゼブブにここを教えてもらったのか?」


 顔も見ずにそれだけ言うと、ミケは強張った声で「あの魔王がここに来たのかにゃん?」と訊ね返した。答えずに居ると、私の隣に雨女がすっと並んだ。


「あの者に嫌なことを言われたのですか?」

「ええ。知りたくないことも。雨女さんは、全て知っているのでしょう?」


 煙々羅が店にやってきてから、ずっと心の奥底で秘めていた疑念。

 雨女は髪を耳にかけながら「悪殿から教えられておりました」と言う。その横顔はどこか覚悟しているものだった。


「悪殿に、あなたを守るようにと言われておりました。私、雨の日以外は無力だと言うのに。困ったお方です」

「悪五郎に頼まれた……だから今も一緒に居るのですか?」

「いいえ。悪殿からは地獄巡りに付き合う必要はないと。管狐――コンが一緒に居るから平気だと言われておりました。それにあなたは強くなられた。薄いけど強い神野の血が、少しずつ顕現し始めたから」

「ならなんで、私と一緒に……」


 雨女は私の手を取った。それを両手で包み込む。

 暖かくて柔らかくて、人と変わらない。


「ふふふ。私も駄目ですね。人に恋するなんて」


 雨女の大きな瞳からぽろりと涙が零れた。

 きらきらと輝く雫は、静かに不毛の大地を潤す。

 泣いて笑っている彼女を私は美しいと思った。


「雨女、さん……」

「私のことを、怖れるか邪険に扱ってくれれば、良かったのに」

「そんなことできませんよ」

「あなたは私をいつも歓迎してくれました。その優しさが痛かった。思いやりが苦しかった。気遣われると切なくなりました」


 恋をしてしまったのは、私のせいだと言わんばかりの口調だった。

 他意はなかった。悪意もなかった。厚意だったはずなのに。


 コンが私と雨女の間に入って、彼女に擦り寄った。

 私以外にそんなことをしたのは初めてだった。

 雨女はコンの頭を撫でて「飼い主に似ましたね」と笑った。


「私は、あなたに恋をしてはいけなかった。私は妖怪で、あなたは人なのだから」


 雨女の言うとおり、私が人である以上、雨女より先に死ぬ。

 それどころか、どんどん年老いていく。はっきり言ってしまえば衰えてしまう。

 結局、苦しむのは雨女だった。


「悪殿を恨みます。こんな素敵な方だと教えられていたら、断っていました」

「…………」

「もう忘れてください。地獄巡りを再開しなければ――」


 その場から離れようとした雨女。

 私は――迷っていた。

 父に言われたこと、そして今までのことを考えていた。


 コンが私に擦り寄って「こぉん!」と鳴いた。決断を促すように、鳴いた。

 もしも、ここで決断しなかったら、雨女と疎遠になってしまいそうだった。

 それは、嫌だ!


「――っ!? 店主!?」


 タクシーに向かおうとする雨女を後ろから抱き締めた。

 離さないように、強く抱き締めた。


「……決めましたよ、雨女さん」

「だ、駄目です。それは、絶対に……」

「私は、あなたと出会えて良かった。母が死んで淋しかった心を、埋めてくれた」


 雨女は泣いている。彼女にとって、私の決断はとてもつらいものだろう。

 それでも、私は雨女から離れたくなかった。

 何故なら、私も同じように――


「私も同じように、あなたを愛してしまったからです」

「そんな……」


 雨女の力が抜けた。その場にしゃがんで、子供のように泣いている。

 私は空に向かって叫んだ。


「私は、魔王になる! それで構わないだろう! 悪五郎!」


 灰色だった空から、眼も眩むような眩しい光が差した。

 そこから一羽の鳥――炎のように赤い鳥が現れた。

 地獄中に轟くような嘶きを上げて、私の前に降り立った。


「私のことを知っておりますね?」

「ええ。鳳凰でしょう?」


 伝説の霊獣、鳳凰。徳ある王が即位したときに訪れる、珍しい鳥。

 それは魔王であっても例外ではない。


「神野と山ン本のところへ連れて行きます。私に触れてください」


 鳳凰の指示に従って、胸辺りを触れようとして――


「待ってください! 私のために、人をやめようと――」


 最後まで聞かず、私は鳳凰に触れた。

 吸い込まれるように私は鳳凰の中に入った。

 私は鳳凰の一部であり、鳳凰は私の全てとなった。


 そのまま鳳凰は高みへ昇って行く。

 目指すは魔王たちの居るところだ。


 私は鳳凰となったおかげで、これから起こることを理解した。

 眼下で雨女が泣いていることも、コンが淋しげに鳴いていることも、ミケが淋しそうな表情をしていることも、全て分かっていた。


「鳳凰。あなたはいつから生きていて、いつまで生きるのですか?」


 聞かずに居られなかった。永遠の命を持つ鳳凰はどのように答えるのだろうか?


「終わりなどありません。繰り返す世界に身を委ねるだけです」


 そして慈愛が篭もった笑みを見せた。


「愛していますよ。私は万物を愛おしく思っております」

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