第26話のっぺらぼう

 人の苦しみは、それを見ている者の心さえ、壊していく。


 大きな鉄の扉は何の装飾もされていない、シンプルなものだった。ミケが手をかざすと、ぎいぎいと錆びついた音を立てながら開いた。

 ほんの少しだけ躊躇して、雨女と一緒に中へ入った――コンも後に続く。


 入った途端、真夏の昼間のような熱気が身体を覆う。むっとした湿気のある暑さに目を閉じた。足を止めて数秒、ゆっくりと目を開く。眼前には地獄と表現するしかない光景が広がっていた。


 先ほどと同じ、鉄の臭いが鼻に突き刺さる。言うまでもなく血の臭いだ。私は湖の岸に居る。いや、普通の湖ではない。色が真紅で煮えたぎっている。ぽこぽこと音が鳴るほど沸騰していて、嫌な臭いのする湯気が立ち昇っていた。


 その湖の中に、人がたくさんもがき苦しんでいた。熱さでじたばた暴れている。溺れている者がほとんどで呼吸もままならないだろう。助けを求める悲鳴が湖から聞こえてくる。見ていると心が折れそうになった。


「ここは……ミケ、ここは一体なんなんだ?」

「聞いたこと無いにゃん? 地獄の定番、血の池地獄だにゃん」


 血の池地獄! 有名な地獄の一つだ。ということは、あそこに居るのは、全て罪人なのか。こんなに地獄に落ちる者が居るのか!

 ミケは「ありきたりだけど、御主人様には見てほしかったにゃん」と言う。


「見てほしかったって……どういう意味だ?」

「地獄巡りは肉体ではなく、心を試すものだにゃん。だから最初は優しいものから見せて、徐々に慣らしたほうがいいにゃん」

「これで、優しいのか?」

「地獄の中じゃマシな部類だにゃん」


 怖ろしい……どんな罪を犯したら、こんな目に遭わなければならないのだろうか。


「店主。少し手が痛いです」


 私は知らないうちに雨女の手を握っていた。それも強く握り締めてしまったようだ。

 慌てて「す、すみません!」と手を離した。


「いえ。今度からは優しく握ってくだされば……」

「何、いちゃついているんだにゃん。それよりも面白いものが見えるにゃん」


 ミケが指差すと一人の罪人が、血の池から逃れようと岸に上がった。しかし他の罪人は後に続かない。苦しみでそれすら考えられないのだろうか?


 その罪人――裸の男だ――が岸に上がった瞬間、地面の岩が罪人にくっついた。一つだけではない。十数個の岩が纏わりついた。その罪人はしばらく抵抗していたが、バランスを崩して血の池に落ちてしまった。それっきり浮かんでこなかった。


「……酷い仕打ちだ。まさに地獄だな」

「でも悪いのは罪人だにゃん。自分の罪を受け入れなかったから、より酷い罪を受けたんだにゃん」


 全身震えて、顔も青ざめて、立っているのがやっとの私に、ミケは「御主人様は分かるにゃん?」と訊ねた。


「あの罪人は罪を犯したにゃん。罪は償うものだにゃん」

「…………」

「だから同情とか可哀想とか、そんな風に思っちゃ駄目だにゃん」


 まるでおもちゃを買ってもらえない子供を諭すような口調だった。

 悲しいことだが、ミケの言っていることは正しい。

 割り切るしかないのだろう……


「次の地獄に行くにゃん。もうすぐ迎えの車が来るはずだにゃん……あ、来た」


 ミケが指差す方角から、タクシーがやってきた。そして私たちの前に止まる。よく見ると『地獄タクシー』と社名が書かれていた。


「お待たせしました。地獄への移動にご利用いただきありがとうございます」


 タクシーから降りた運転手の格好をした男には、目が無かった。目だけではなく、鼻も口も無かった!

 ゆで卵のようにつるりとした顔のない男に、私は「あなたは妖怪なのか?」と訊ねた。


「ええ。のっぺらぼうです」

「口がないのに、どうして伝わるんだ?」

「念話というものですよ。喋っているように聞こえるだけです」


 唖然としていると「初乗りは四百二十円です」とのっぺらぼうは後部座席を開けた。

 かなり安い……いや、それはどうでもいい。


「目がないのに、運転できるのか?」

「ああ、見えていますよ。安心してください」


 見えていても余所見はしませんよと彼なりのジョークを言って、のっぺらぼうは私を後部座席に招いた。私と雨女、そして小さくなったコンは後部座席に乗り、ミケは助手席に乗った。


「それじゃ出発するにゃん」

「了解。出発します」


 のっぺらぼうの運転は案外丁寧で震動も少なかった。

 窓の外から見えるのは灰色の空だ。血の池に夢中で、空の色すら分からなかった。


「店主。大丈夫ですか? 酷く顔色が悪いですが」

「……相当苦しいですね。地獄巡りは」


 雨女は車の中でも私の手を握ってくれた。

 コンも私の頬に擦り寄る。


「お客さん、地獄巡りですか。大変ですね」

「のっぺらぼうさん。ご存知ですか」

「ええ。最近だと、地獄巡りをする人や妖怪は少なくて。不景気ですよ」


 その言い方だと、私以外も地獄巡りをするようだ。


「昔はそんなにやっていたのか。どうして皆、地獄巡りをする?」

「ああ、すみません。魔王のお二人に口止めされているんですよ。私、口ないんですけどね」


 口が無いゆえに口が堅いのか。

 そんな感想を抱きつつ、私は相変わらず何も知らずに、新たな地獄へと向かった。

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