恋の終わりに
秋義
第1話カウンターにて
深夜、というには少々早い時間。
随分とめかしこんだ客が、これまた随分と酔った様子で店の入り口に立っている。
扉を押し開けた、というよりはもたれ掛かったら開いてしまったという体で、細いヒールを引きずるようになだれ込んできた。
肩にかけた大きな紙袋をすこしつぶし気味に何とか店内に入り込むと、姿勢を整える。
そして静かな店内をちら、と見渡し所在なさげに目を伏せた。
その一連の流れを見ていた先客の男が腰を浮かせ、誰もいないカウンターの奥に向かい身を乗り出す。
「はじめ、お客さん」
その声にはいよ、と返事が聞こえて間もなく、艶やかな椿の描かれた暖簾の向こうから、はじめと呼ばれた女店主が料理を載せた皿を片手に姿を現す。
「いらっしゃいませ、お待たせしてすみません。お好きなお席へどうぞ」
随分と酔った様子の客がほっとした様に頷くのを見ると、はじめは先客の男の前に皿を置いて暖簾の向こうに姿を隠す。その背を追うように、厨房から一番近いカウンターの端の席に手を伸ばすと、高さのある椅子に少しふらつきながらもしっかりと腰かける。
様子を見届けた男は視線を手元に戻し、湯気の立つ料理に箸を伸ばした。
「お出迎えが遅れてすみません、この通り閑古鳥だったもので」
今度はカウンターを挟んで現れたはじめの手からおしぼりを受け取りながら、随時酔った様子の客は「いいえ、お邪魔でなければ良かったのですが」と不安げに少し声を震わせた。
「とんでもない、どうせ朝まで開けてるので。お好きにくつろいでいってください」
メニューを手渡しながらお飲み物は?と続けると、ビールを、と随分酔った様子の客が返し、はじめは再び姿を隠す。
「あの」
二席隣の先客の男は、予想していなかった呼びかけに一瞬体を強張らせ、張り付けたような笑顔で随分と酔った様子の客へ首を傾ける。
「煙草、良いですか?」
どんな面倒が待っているのかと身構えていた先客の男は自分の手元にあった煙草の箱を持ち上げ、お気になさらず、と面倒そうにしていた表情を和らげた。それに会釈で返し、かちり、と深く息を吸い込んだ随分と酔った様子の客の元に、ジョッキに注がれたビールと鮮やかな野菜の盛られた小鉢がどうぞ、と届けられる。
小さくありがとうございます、と返すと一息に半分ほどを飲み下し、ふぅ、と息を吐く姿にはじめは思わず目を見張り、先客の男はそっと眉をひそめる。
二人のそんな気配を知ってか知らずか、端末を取り出し忙しそうに指を動かす。画面から目を離さずに煙草を持ったままの手でジョッキを握ると、今度は口をつけてしばらくそのままで、減ったか減らないかわからないままテーブルに下ろす。
苦々しい表情で手元を睨みながら深く息を吸ってはゆるゆると紫煙を漏らす。
しばらくそうしていると指に触れそうになった火を煙草を灰皿に押しつけた。
先客の男と何か話していた様子のはじめがそれを合図にしたように「結婚式ですか?」と笑みを向ける。
随分と酔った様子の客は少し驚いた様に間の抜けた声を漏らし、端末から目を離すと、はい、良いお式で、とにこにこしながら続ける。
「昼間から泣いちゃいました、もぅ本当に綺麗で幸せそうで…あ、そうだ!」
足元にあった紙袋を引き上げ箱を一つ取り出すと丁寧に包みを剝がしていく。
「甘いもの召し上がれますか?」
箱の中から個包装になったバームクーヘンを取り出しはじめに向ける。
「もし大丈夫でしたら、幸せのお裾分けです」
「これは嬉しい、ありがとうございます」
はじめのその言葉にへへ、と嬉しそうにしてお兄さんも良かったら、と先客の男の方へ手を伸ばす。
「俺も?勿体ないですよ」
先客の男が遠慮してみせると同時に入り口の扉が大きく開き、むっとした空気とはじめー!という大きな声が店内に流れ込む。
「五月蠅いのがきた…」
そうはじめが呟くのをかき消すように、大きな声の男が席に着くより先に言葉を続ける。
「また振られちゃった、慰めて―!」
「他をあたってくれ、仕事中だ」
「お客さんするから、ね?なんか美味しいお酒ちょうだい」
うんざりという言葉を張り付けるはじめの顔色を気にする様子もなく、新たな客は先客たちの間に立ったままカウンターに手をついて溜息を漏らす。
その溜息を睨み、まったく、と呟きながら前を通り過ぎようとするはじめを、結婚式帰りの客が控えめに呼び止める。
「私も、同じものを頂いていいですか、何でも飲めるので」
「かしこまりました」
そのやりとりを見ていた新たな客は結婚式帰りの客の方へ身を乗り出してきた。
「珍しい、綺麗な恰好した女の子だ、結婚式帰り?」
「はい。あ、良かったらこれ、どうぞ。幸せのお裾分けしてたんです」
「うわー、嬉しい!僕今めちゃくちゃ落ち込んでてさぁ」
「振られちゃったんですか?辛いですね」
その言葉に頷きながら、いかにも気落ちしているとばかりに下げ切っていた口角を柔らかく持ち上げて見せ、でも、と結婚式帰りの客の隣に腰かけた。
「今お姉さんに優しくしてもらったからちょっと癒された」
そう首を傾ける声の大きな男の額に色鮮やかなグラスが押し付けられ、からりと氷の揺れてぶつかる音に、つめたーい、と言う失恋に悲しむ男の声と、まったく、と言うはじめの溜息が混ざる。
「他を当たれとは言ったが初対面の女性に絡むな。―すみません、うるさくして」
「いいえ、楽しいです」
失恋に悲しむ男に押し付けられていたのとは色違いの、背の低いグラスを受け取りながらそう目を細め、直後慌ただしく目と口を大きく開いた。
「あ、失礼ですよね、失恋したのに、楽しいなんて」
「大丈夫ですよ、それにとっての失恋は通り雨に降られるのと同じですから。直ぐに忘れます」
「えー、いつも悲しんでるよ?人を何だと思ってるの。ま、でも失礼だとかは思ってないから気にしないで」
かんぱーい、とグラスを寄せてくる失恋に悲しむ男に「実は私も今日失恋したんです、仲間ですね」と結婚式帰りの客がグラスを寄せ、こつりと音を鳴らした。
「えー!すっごい奇遇!運命かな?」
「ふふ、こんなかっこいい人と運命なら嬉しい」
「やめておきなさい。それは軽薄を絵に描いたような男だ、調子に乗らせないでやってくれ」
結婚式帰りの客にそう言ったはじめは、はっと咳払いをして失礼しました、とひとこと置いて続ける。
「誠実って言葉をどこかに置き忘れてきたらしく、それを見抜かれてしょっちゅう振られているんです」
「ひどーい、僕は僕なりに実に誠実に全力で愛を返してるのにそれが上手く伝わらないんだよね」
「そういうとこだよ」
軽薄な男が口を開くたび、表情を呆れに染め上げるはじめの言葉に、なるほど、と結婚式帰りの客が頷く。
「えぇー、もぅ、二人して何さ」
「三十路前の男が可愛い子ぶるな、薄気味悪い。言い寄ってくる女みんな相手にするから駄目なんだよ」
「別に二股とかしてる訳じゃないし、話もしないでごめんなさいも可哀そうでしょ」
「モテるんですね、でもお兄さんと付き合うのは寂しそうだなぁ」
「まさにそれ!さっきなんか寂しいって言われて振られたの。ほとんど毎日デートしてたのに寂しいって言われても困っちゃうよねぇ」
エスパー?といたずらに笑う軽薄な男に結婚式帰りの客が多分ですけど、と少し間をおいて「多分、会ってる時間分、寂しくなったんだと、思います。あ、私、特別じゃないな、って」そう言うと目を伏せ、小鉢からトマトを一つ摘まんだ。そこへ
結婚式帰りの客の端末が着信を告げ、もしもし、と姿の見えない相手にだけ聞こえるような小さな声で応答し、相槌を打ちながら誰とへもなく頭を下げ、店の外へと姿を消した。
軽薄な男は正面に向き直り、特別ねぇ、と小さくこぼしグラスを傾けた。
「あ、美味しい。柔らかい味だね新しいやつ?」
「いや、この間美味しい水を汲みに行ってきたから前割しておいたんだ。旨いだろう」
中身はいつものだよ、とはじめは軽薄な男に向けてやっとくつろいだ表情を見せ「うん、旨いね」と頷く男の声もすっかり落ち着いていた。
間もなく、結婚式帰りの客は席に戻り煙草に火を点ける。
「あ、意外と似合う」
「え?」
「煙草。意外だなーと思ってたんだけど吸い始めると違和感ないね」
「あ、すみません!断りもなく、苦手ですか?」
「だいじょーぶ大丈夫、向こうのお兄さんさっきからガンガン吸ってるしね」
こそっと笑う軽薄な男につられたように笑う結婚式帰りの客に男がで?と続ける。
「お姉さんは何で失恋したの?」
「お前はデリカシーもどこかに捨て置いてきたのか」
「違うよー、こういうのは話しちゃったほうがいいんだって。溜めとくとろくな事にならないし、初めましてだから話易いこともあるでしょ?」
体ごと結婚式帰りの客に向け、わざとらしく片目を閉じ、首を傾げて見せる軽薄な男。
「ふふ、そうですね、でも面白くもなんともないですよ」
「いいからいいから。どんなだって人の不幸は蜜の味だよ」
大きく足を組み直し身を乗り出す姿に「うわぁ、意地悪だ」と結婚式帰りの客が笑い、はじめは軽薄な男を視線で咎める。
その視線に気づいた結婚式帰りの客は大丈夫ですよ、と笑い深呼吸をすると困った様に眉尻を下げ「でもほんとに面白い話ではないんですが」と前置きをして話し始めた。
「少し付き合ってた人、なんですけどもう別れてからの方が長くて、用もなく、会って飲んで話して友達、って感じで。…正直私はずっと未練たらたらで、なんでも良いから関係を切りたくなくて」
「でも、私も恋人もいる時期もあって何度も忘れようとしたんです。ただ最近はお互いフリーで、好きだとかそういうのはないけど、やることはやってて」
結婚式帰りの客は諦めた様な笑い顔で更に続ける。
「多分、十年、会う度に好きだって気持ちだだもれだっただろうし、それでも毎週のように会ってたから、ちょっと期待してたんです。すぐ付き合うとかはなくても、こうやって傍にいれるかなって」
「で、今日…あ、その人バーで働いてるんですけど、ドレス姿見せて少し気を引けたらなって、帰りに寄ったら」
―あいつこの忙しいのに彼女と旅行行っちゃってさ、薄情だよね。
「ってマスターがぼやいて。あぁ、そっか、って」
「忙しそうだからって言って出てきたんですけど帰る気にもならなくて、飲みながらなんとなく歩いてたらここに」
灰皿に落としていた視線を上げしょうもないですよね、と話を区切る。
すると軽薄な男が合点がいったようになるほど、と声を上げた。
「さっきのはお姉さんの心情だったわけだ?」
「はい。でも、私も言ってから気が付きました。そういう気持ちだったんだな、って。正直何も考えられてなくて。」
綺麗に編み込まれたブロンドの間に指を混ぜ込みながら結婚式帰りの客は続ける。
「さっきの電話その人からだったんですけど最後の言葉がこれか、っていうのと、あの人の声があんまりにもいつも通りで」
電話のやり取りを脳内で反芻する。
―旅行中だって?いいなぁ。
―おぅ、最高だよ。ごめんな、店いなくて。
―ううん、こっちこそ楽しい時間邪魔しちゃってごめん。
―帰ったら飲みいこうぜ。地酒買って帰るから。
―あぁ、うん、ごめん。もう二度と会いたくない。
―え?なんで?俺そんな、なんかした?
「もう腹立つの通り過ぎてからだ冷たくなりました」
「ほんとに友達だったんだね!都合の良い女友達?」
「うわ、本当に意地悪だ。なんで今日まで見ないふりできたんですかね、多分、わかってたのに、期待を捨てきれなかった」
「特別?」
「はい。ただ、今はもう、あの人の事好きじゃないんだな、って、すごく不思議な感じです」
なにせ十年ぶりなので、と結婚式帰りの女は笑い、軽薄な男はそっか、とだけ返した。
「まぁ私も大概不誠実でしたから、因果応報ってやつですよね」
「そうだねぇ。あー耳が痛いなぁ、はじめからの視線も痛い」
おどけて見せる軽薄な男に自覚あるんじゃないか、と吐き捨ててはじめは二人に新しい飲み物を勧める。
「ちょっと冷えてきたので温かいものが欲しいんですけど…」
そういいながらメニューを探す結婚式帰りの客の言葉に
「あ、じゃぁこれあっためたやつは?」
とグラスを指差す軽薄な男にいいですね、と結婚式帰りの客が頷く。
程なくして柔らかく湯気を立てる陶器が二人の前に届けられ、揃って口をつける。
その温かさに肩の力を緩めた結婚式帰りの客は、未練がましく口を開く。
「せっかくめかしこんだのに、顔も見ないでさよならですよ。あー悔しい。見返してやりたい。意地張ってないで可愛くしておけば良かったなぁ」
あーぁ、と飾らずに嘆く結婚式帰りの客の目の前で軽薄な男はいやいや、わかってないねと手を振って見せる。
「女性の一番の化粧は笑顔だよ」
「慰めてくれてます?」
「違う違う、ほんとの話。それだけ長い間一緒にいて、自分を想ってくれてた女性が、他の誰とも比べないくらい幸せになって笑っている、その隣に居られないことをその男はきっと悔しく思うね。口先ではなんと言ってても」
軽薄な男は少し真面目に目を合わせて続ける。
「どんな化粧をしていても、衣装を纏っていても、心から溢れる自信と笑顔に敵う美しさはないよ。うんと幸せになって見返してやりなさい」
そう目を細めた軽薄な男に「おじいちゃんみたい」と結婚式帰りの客が呟く。
ショックそうにえぇ、と漏らす軽薄な男と口元に手を当てくっと笑うはじめを交互に見て違うんです、と手を振る。
「あ、年寄りくさいってことじゃなくて、うちのおじいちゃんみたいだなぁ、って」
「お年寄りには変わらないじゃん」
「まぁ、そうなんですけど…でもおじいちゃん若かったし…うぅ、すみません…」
「謝られたら年寄りくさいってことになっちゃうから謝らないでよー!」
ごにょごにょと弁解の余地を見つけられず小さくなる結婚式帰りの客にもう、と唇をへの字に曲げる軽薄な男。はじめは愉快そうに肩を揺らし、先客の男は黙って本を読んでいる。
そこへ再び端末が着信を告げる。画面を確認して初めて真剣な表情になる結婚式帰りの客は端末を耳にして一つ二たつ頷くとしっかりとした足取りで椅子から降りた。
「すみません、お会計してください」
端末をカバンにしまい、代わりに財布とイヤホンを取り出す。
「随分慌ただしいね」
と心配そうにするはじめに「職場から呼び出しで…」と言いながら会計の書かれた紙と紙幣をを交換する。
「こんな時間に?」
「はい、よくあるので…でもここまで何もなくて良かった。ありがとうございました、お話しできてすっきりしました」
「それは良かった、僕も楽しかったよ」
「これも少し自分を顧みる良い機会だったと思います」
はじめから小銭を受け取るとふふ、とひとつ笑みを零し「また来ますね」と頭を下げる。下げた頭を持ち上げながら「あ」と思い出したように軽薄な男の方に視線を向ける。
「羨望や寂しさに憑りつかれているうちは、心から愛し、愛されなんてのは難しい。幸せの形はなんでもいい。一番大切なのは自分が本当に幸せで、それで誰かが笑ってるということだよ。それが、寂しくないって事だ」
したり顔でそう言うと、虚をつかれたような軽薄な男に
「私が小さい頃、おじいちゃんがよく言っていたことです」
と笑いかけ、ではと改めて頭を下げ今度こそ店を後にした。
扉が閉まるのを見届けて、いやいや、とカウンターに向き直る軽薄な男にはじめがしかし、と笑う。
「見返されたことがあるような口ぶりだったね」
「そりゃー僕だよ?見返されまくりだよ」
「それで?悔しかったの?」
「それはそれは悔しかったさ。でもね」
軽薄そうな男はグラスに口をつけ、一間空けて続ける。
「一番悔しかったのはさ、そうなるともー僕を見返そうなんて考えてなくて、ただただ幸せなだけなんだ。それが少し悔しくて、寂しかったなぁ」
「きっと僕の事をたまーに思い出して心から僕の幸せを信じてるんだよ、たまったもんじゃない」
そう、溜息を一つ漏らすとカウンターに身を乗り出す。
「ねぇはじめ、僕通り雨にふられて心も体も冷え切ってるんだけど」
「それはよくない。早く帰って温かくして眠ると良い。」
そう背を向けるはじめにえーっ、と食い下がる。
「帰りたくないなー」
カウンターに頬をよせる軽薄な男に呆れ顔を取り戻し、はじめは腰に巻いたエプロンの紐をほどく。
「一杯くらいなら付き合ってやる。今日はもう仕舞いだろうしな。飲んだら帰れよ」
そう言いながら店頭の明かりを落とした。
恋の終わりに 秋義 @akiyoshi-33
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