第16話 娘を頼むのである 


 ――新塾区。


 視界の隅に出現した『ゲート・ゲヘナ解放フォーマット中……33%』の文字。

 もうじき、魔界と人間界とのゲートが完全解放される。それは悪魔という種の完全勝利を意味するはずなのに、そこには歓喜は一欠片すらもありはしない。側近たちの間にあったのは、五臓六腑が煮えくり返るような憤激。

 命懸けのいくさを汚され、唯一の誇りにすら泥を塗られ、そして何より側近たちが忠誠を捧げていた将の娘をゲートの鍵にされてしまった。

無論、これは戦争だ。これが戦で華々しく散って行ったのだったら、涙を呑んで受け入れよう。

 だが、こんな同胞からの騙し討ちのような方法で忠誠の対象を奪われるなど納得がいくはずがない。


「バアル様! もう自分は陛下にはついていけませんっ!!」

「そうです! これでは我らは何のために命を懸けたのかわかりませぬ!」

「リリス様をお救いする許可をいただきたいっ!」


 臣下は一斉にバアルに片膝をつく。この行為自体が絶望王への反旗、謀反に等しい。もはや後戻りはできない。それはこの部屋の誰もが抱く共通認識。

 

「……バアル様?」


 跪く臣下の一人がバアルの顔をうかがい、ぎょっと目を見開く。

 無理もない。あの鉄の心を持つとも称された彼らの将は、いつもの両拳を腰に当てる姿勢のままで大粒の涙を流していたのだから。

 

「無駄である。一度ゲートに取り込まれれば、解除コードを知っているのは絶望王のみ。吾輩であっても分離は不可能である」


 バアルにすら分離できないのだ。絶望王に反逆しリリスの元へ辿り着いたとしても、臣下たちにはどうすることもできない。

 その絶望的ともいえる答えに、今まで築き上げてきた掛け替えのないものが、ガラガラと崩れ落ちるのを感じながら、臣下たちは膝を折り、すすり泣く。


『……バアル、聞こえているか?』


 ノイズが入った若い男の声。絶望王が、魔界における悪魔たちを統べる神ならば、この声の持ち主は、魔界における第一権力者――悪魔大元帥アスタロト。


「聞こえているのである」


 一切の感情を殺したような抑揚のない声で返答するバアルに、家臣の一人が生唾を飲み込んだ。


『ゲヘナが解放され、ようやく運営を介さない通信が可能となったのだ』

「無駄口は好まぬのである。要件は?」

『そう怒るな。娘といっても、元はたかが人間の小娘ではないか。おぬしのような生粋の大悪魔がこだわる理由はなかろう?』


 バキッと奥歯が砕ける音。そして主の全身から漏れ出る濃密で危険な闇色の魔力。主の顔は、まさに悪鬼と表現するのにふさわしい様相に変わっていた。


「元帥閣下は端から吾輩の娘を利用するつもりであったのであるな?」

『それが一番手っ取り早かったからな。だからこそ、お前の戦隊にあの娘を捻じ込んだのだ。それが功を奏して、こうして人界は我ら悪魔のものだ。バアル、お前の功績は計り知れぬぞ』

「人界を制圧できる。その根拠、是非、教えて欲しいものであるな?」

『もうじきゲートが完全解放される。そうなれば、我らの人界での力の制約はなくなるのだ。そうなれば、人界は我らの他世界への足掛かりとなろう。人界で戦力の増強、部隊の再編制を行い――』

「違うのである。他世界のへの侵攻の根拠ではなく、この人界を制圧できるという根拠を、この吾輩にご教示願いたいのである」

『人界を制圧できるという根拠? 我らの力の抑制がもうじきなくなるのだ。人間が我ら悪魔にかなうわけがあるまい』

『バフっ! ブハハハハハハハハハハッーーーーー!!』


 突然、堰を切ったかのように声を上げて笑い出すバアルに、配下の者たちはポカーンと半口を開けて眺めていた。


『今我は何か愉快なことを言ったかね?』


 濃厚な不愉快さを滲ませた声で尋ねるアスタロト元帥。


「誓ってもいいのである。元帥閣下や絶望王陛下は、この戦い、碌に目を通しておらんようなのである。いや、この《カオス・ヴェルト》の運営とやらに、上手くごまかされているのであるか。なるほど、これが、運営側が我らに課した強者の枷という奴であるか。中々手の込んだ制約であるな」

『バアル、それはどういう意味だ?』


 今までアスタロト元帥にあった余裕の一切が、その声からは消失していた。


「この東京という地の特定の場所に8日間留まる。それが我が軍の受けた制約である」

『それは運営側から報告を受けている。だから、ゲームのルールである一方的命令権を使用し、貴様にあの宣戦布告を命じたのだ。制限期間内に、他の六道王の勢力が人間どもと接近することだけは、可能な限り避けたかったのでな』

「このいくさ直前に吾輩の師団を寄せ集めの兵に再編成したのも、他の六道王の攻勢を危惧したからであるか?」


 本来、バアルの第五師団は史上最強の戦闘師団。おごりもなければ、戦闘に余計な愉悦もない。勝利のためなら例え、道端の蟻に対してでも全力を出す。そんな悪の戦闘狂集団だ。故に強さに差などなく、特定の場所への封じこめなど全くの意味すらなさない。

 仮に本来の第五師団が相手だったのなら、フジムラ・アキトの敗北は必至だったはずなのだ。


『そうだ。今回はこちらの手の内を晒す結果になるからな。他勢力にこちらの最大戦力を知られるわけにはいかぬ。どの道、人界の制圧にそんな大層な軍はいらぬ。名の通っている貴様が出陣すれば、他勢力も軽はずみな行動はとれぬであろうし』

「愚かである!」


 バアルはとびっきりの侮蔑のこもった声色で、得々と己の戦略の種を明かすアスタロト元帥の言を愚者だと断じた。


『バアル、貴様、もう一度言ってみろ!』

「愚かといったのである。バアル五少将はリリス以外全員、敗北。歩兵隊、騎兵隊、巨人部隊は完全壊滅し、悪竜騎兵部隊も時間の問題である。もはや我ら親衛隊しか残されてはおらぬのである」

『ふん! 確かに、《カオス・ヴェルト》とかいうルールにより、人間どもにも想定を超えた手練れが混ざっていたのは認めよう。だが、それも人間界で我ら悪魔に課せられている力と能力の制限によるのは明白。もう少しでゲートが開く。そうなれば、最精鋭をこの世界へ送り込むことができる』

「どうやら、元帥閣下は致命的な勘違いしておられるようである」

『勘違いだと?』


 鼻で笑うバアルに、アスタロト元帥はイラつきを隠そうとも尋ねる。


「我ら悪魔は、この地に来てから何の制約も受けてはいないのである」

『はあ? そんなわけあるか! いくら寄せ集めとはいえ、ほとんどが歴とした正規軍だぞ!

 それにバアル五少将もいたのだ! マーラとサマエルは悪魔王。人間ごときに敗れるはずがない!!』

「そう思いたければ好きにすればいいのである。だが、今のフジムラ・アキトは吾輩と同等。いや、それ以上かもしれぬのである」

『魔界でも五指に入る強さを誇る貴様と同等? それは笑えぬ冗談だな?』

「吾輩の言が冗談だと思うなら、その目でしっかりと確認すればよいだけである」


 そう吐き捨てると、一方的に通信を切ってしまう。

 そして部下たちをグルリと眺めると、厳粛な顔つきで


「お前たちは、我が娘のためにすべてを捨てることができるのであるか?」


 その意思を尋ねる。


「もちろんです! リリス様は我らの全て! 絶対に犠牲になどさせやいたしませぬっ!」


 髭面の軍服の幹部が拳を握って、力説する。


「俺はリリス様に拾われた口だぁ。たとえ、バアル様が見捨てても俺はあの御方を救いにいくぜ!」


 黒一色の衣服を着たイケメン幹部の青年が宣言し、


「我らの忠誠は、バアル様とリリス様のもとに!」


 年老いた老兵が、右手を胸にあてて恭しく一礼する。


「そうであるか」


 バアルは満足そうに何度もうなずき、口端を上げると、


「お前たちは絶望王陛下に弓を引いた反逆者なのであーる! 直ちに誅殺するのが筋ではあるが、今までの功績に免じ、猶予をやるのである。直ちに、この場から去るのであーる!」


 主人からの三行半。通常ならば動揺してしかるべきだ。だが、バアルの家臣たちは主の意図と望みを明確に理解していた。

 敬礼をすると、次々に姿を消す幹部たちに、バアルは――。


「娘を頼むのである」


 そう小さく呟いたのだった。


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