段差と転倒、それと負け犬のリード

通行人B

段差と転倒、それと負け犬のリード

 今思えば取捨選択を間違えたのだと思った。あの時あぁすれば良かった、なんて気がつくのはいつだって事後。遅い。遅すぎるのだ。


 §


「それじゃ、お先に失礼します」

「気をつけて帰れよミナミ」


 楽器を片手に学校を後にする。帰宅するまでの十数分、ミナミの頭の中ではこの後の予定の確認とその整理をし続けている。

『今から直接塾に行くのは早過ぎるから一旦家に帰る』

『帰ったら手洗いうがいをして着替える』

『必要な道具を確認して、親がいれば報告してから出発』

『塾が終わったら人通りの多い明るい道を選んで——』

 そんな態々考える事でもないのにミナミは考えてしまう。いや、考えておかないと気が済まないのだろう。両親の期待を受けている以上、その期待に応えたい。そう願っているからこそ石橋を叩くレベルで確認して対処しておきたいのだろう。


「——今日もいる」


 家に帰る途中、電柱を背に立っている一人の女性に目が行った。別段人目を引く様な派手な服装をしているわけではない。ただその人の手には缶が握られており、頬の赤みから考えてそれがお酒だと知っているからだ。

 今回、その人に目が行った理由は他でもない。その人はいつもそこに立ってはお酒を飲んでいるからだ。

 日が暮れ始めたとはいえ、世間一般では夕食にはまだ早い時間。そんな時間に家ではなくこんな所でお酒を飲んでいるのだ。きっと碌な大人ではない。


「……あぁ、ああいう大人にはなりたくないな」


 すれ違う前に目を逸らし、早歩きで通り過ぎる。すれ違いざまにキツくない程度の大人の女性らしい香水の匂りがし、ミナミはそれを忘れる様にと歩を更に早めた。

 ミナミの両親はお酒も煙草も嗜んでいない真っ当な大人だった。『酒は人を狂わせる』だの『煙草を吸っている奴には碌な奴はいない』だのそう教わっていた。あの女性は煙草の臭いこそしてはいないものの、あんな人の目に着きそうな所でお酒を飲んでいた事には変わりはない。

 そうしていつからか、学校からの帰り道でその人とすれ違う度に『あの人は反面教師だ』と自分に言い聞かせて奮起する様になっていた。




「——あれ?今日はいない?」


 そんなある日のこと、いつもと同じ様に帰路を歩いている最中、いつもの場所に女性は立っていなかった。別に今まででも雨の日とかならいない日もあったが、今日の様な晴れた日にいないという事は無かった。

 いつもいる所にいない。見慣れた景色なのにどこか違和感。そうしてルーティーンになりつつあったのにそれが達成出来ずにモヤつきながら家に帰る。家に帰ってもミナミの頭には女性がお酒を辞めたという考えが出る事はなかった。結局モヤついたまま塾に行き、勉強に身が入らなくて教師に叱られてしまった。


「——今日はいる」


 その翌日、学校帰りのいつもの道を通った時、いつもの場所でお酒を飲んでいる女性の姿を見かけた。

 やはり禁酒をしていない。やはりダメな大人だ。あんな大人には絶対にならない。

 そういつもの様に女性とすれ違いざまに嫌悪し、自身を奮起させるミナミ。しかし、いつもと違う所を挙げるとしたらその場所で女性がお酒を飲んでいる姿を見て、心のどこかでホッとした事だった。


 §


 世の中お金より大切な物は沢山あるが、大切な物を守る為にはお金がいる。


「はぁ、今日も今日とで酒が美味い」


 そんな事を考えながらハルノは電柱に寄りかかりながらお酒に口をつけていた。ハルノは社会人数年と浅い経験の中で人生の岐路を決めつついた。

 ハルノの職場はブラック程ではないが給料はてんで安かった。文句を言おうにも妥当だと言わんばかりの仕事量。やる事が無いから定時で終わる。寧ろ貰いすぎと思うぐらいだったと思う。

 しかし、そんな生活に満足出来るかと聞かれれば否である。安い給料に見合ったアパート、その残金から引かれる生活費、贅沢らしい贅沢は我慢出来ても、自分へのご褒美が一日一本のお酒というのはあまりにも虚しい。

 今でこそ耐えられていたとしても、今後の貯蓄が出来ていない以上、今のうちに金策をしないといけない。

 そんなハルノが選んだ金策というのが娼婦だった。別段好きな人がいるわけでもなく、そういう関係を望んでいるわけでもない。手っ取り早く稼ぐのならそれが最効率だと行き着いてしまった。

 決断した後は早くそういった格好を用意し、職場から離れた所で客を探し、一時を見知らぬ男と過ごした。

 とはいえ、最低な事だと自分で理解しているそれに対して、ハルノはアルバイト感覚で行っていた。基本は待ちの姿勢だし、声をかけられなくとも、まだ明るいうちからお酒を飲みながら定時に帰れなかった人達を眺めるのはそれはそれでハルノの娯楽として成立していた。


「——おや? もうそんな時間か」


 お酒にほろ酔いつつあると一人の見知った女学生が目の前を通り過ぎて行く。その娘はハルノの知り合いというわけではなく、大体学生の下校時間になるとハルノのいる道を必ず通る娘だった。更に詳しくいうのであれば、決まって不快そうな顔をしながら足速に通り過ぎて行くから面白くて覚えてしまっていた。


「まぁ当然か。こんな所でお酒を飲んで客を待っている様な女は嫌だろうに。……見た目通りの真面目ちゃんだ」


 くっくっくっと笑いながらお酒を飲むと人通りが増えていく。さて、今日はどっちかなと笑みを浮かべた。




「お嬢さん、一人?」

「おや?」


 そんなある日のこと、いつもと同じ様にお酒を傾けながら人が増える時間を待っていた時、声をかけられた。初めて見る顔だが雰囲気で分かる。客だ。

 珍しく早い時間だと思うも、ハルノからすればお金さえ払って貰えるのなら時間なんてどうでもよかった。数字を提示し了承を貰うと男と腕を組み、ホテルのある小道へと連れて行かれた。

 何度か世話になったカウンターを抜けて部屋に入り、お金を受け取ればアルバイト開始。数回の軽いキスから始まり、息継ぎをする度に男の衣服を脱がして行く。ボディータッチを増やしていくと男は喜んだので、酒に酔ったフリをしながら自分の衣服が上手く脱げない演技をして男に脱がせてもらう。

 途中、シャワーへと提案するも男は拒否。汗臭いのがいいのだとか、追加で出すからと渋々了承し、ベットへと移動した。

 全身を愛撫しながら男の好きそうな所を探り、それを見つけては時間を稼いだ。暫くして遂にというか面倒な事に男のモノを咥えた。シャワーを浴びていないから汗臭いし、元々声をかけるつもりだったのか綺麗に洗われていない。内心ハズレと思いながらも笑顔を向けては美味しそうに咥えて見上げた。


「そ、そろそろ」

「わかった。それじゃあどうぞ」


 男にゴムを付けてから自分の股を広げる。早く終わらせたいがために咥えている間に自分のを濡らしていたのが功を制したのか、男は自分のが良かったのだと勘違いをしてくれた。


「(……ヘッタクソだなぁ)」


 やっとの事で行為に入ったと思えば男は猿の様に腰を振った。「どうだ俺のモノは!」だとか「良過ぎて声も出ないか?」なんて見当違いの言葉で喚きたてる。『うるせぇ気持ちよくもないし痛くも痒くもない』それでも、下手な態度をとって殴られるのも嫌だからわざとらしい喘ぎ声をあげる。

 男が猿の様に腰を振っている間、ハルノの頭は早く終わって欲しいからと声をあげながらどうでも良いことばかりを思い出し、ふと「あの娘、ちゃんと家に帰れたのかな」と思い出していた。




 あれからまたお酒を飲みながら人を眺めつつ、人を待つ日が続いた。一度関係を持った相手からもリピートを貰うこともあり、偶に稼ぎが良いといつもより良いお酒を飲む事もあった。

 しかしどんなに良いお酒を飲もうが、あの女学生から見れば自分はただの飲んだくれで、ハルノを見る目は相変わらず不快そうで昨日と変わらない態度に笑みが溢れる。


「今日は坊主か。まぁいつもの事か」


 今日も今日とでお客はゼロ。とっくに飲み終えた缶を近くのゴミ箱に捨てて帰る支度をする。支度といってもせいぜい近くのコンビニで明日のご飯を買うぐらい。遅い時間となればあるのは大体は売れ残り。売れ残り同士選ぶものも少ないかなぁと思い、見つけたコンビニに足を向けると声が聞こえた。


「やめて下さい! け、警察を呼びますよ!」


 自分には関係無いけど気にならないといえば嘘になる。軽く振り返って見れば、一人の男が女性に詰め寄っていた。男の方は何やら興奮気味でハルノから見れば『酒に酔った客』と感じ、女性の方はといえば……


「……あらら? いつもの真面目ちゃんじゃん?」


 私服になって一瞬分からなかったけれど、絡まれた女性はいつも自分の前を不快そうに通り過ぎる娘だった。手荷物から見ておそらく塾の帰りか何かだろう。面倒臭い相手に絡まれて可哀想に。

 別に女学生の所の教師でもなければ知り合いでもない完全な赤の他人。よくすれ違う関係程度で向こうからの感情を表すなら嫌悪。そんな相手を助ける気もない。……気もないのだけれど。


「まぁ、あの酔い方なら絞れそうだな」


 今日は坊主で引き上げるつもりだったけれど、上手くいけば稼げそうな相手がいれば声をかけてみるのも手だろう。


「ちょっとそこのお兄さん。私が相手してあげるから乗り気じゃないその娘の手を離さない?」

「あ、貴女…」


 男と女学生の間に割って入る。男は戸惑いつつも、話が早いとすぐに女学生を掴んでいた手を離した。


「他の人に絡まれる前に早く帰りなさい」


 そう声をかけ、多少強引に男の腕を引いて人波に紛れてからホテルに向かう。ベロベロに酔っ払っているのか、やけに声が大きいし自分よりお酒臭い。それでも陽気な気配に「沢山出してくれたらいっぱいサービスしてあげる」なんて心にもない言葉を吐いて男を押し倒し、お金を巻き上げた。




「昨日はありがとうございました」


 翌日、予想通りの昨日の稼ぎに懐が暖かくなった。上機嫌にお酒を飲んでいると、昨日助けた女学生から御礼を言われた。どうやらあの時、向こうもハルノだという事に気がついていたのか向こうから声をかけられた。

 昨日は結果的に助ける形になってはいたが、ハルノ自身は助けたつもりはなく、寧ろ人の客を横取りしたなぁなんて思っていた。そんなハルノの思いを知る由もなく、助けられたと勘違いをして御礼を言いに来る女学生に『律儀だなぁ』なんて内心思ったりした。


「無事に帰れたのならいいよ。あの時間は酔っ払いが多いからね。塾帰りなら違う道を通るか早めに帰った方が良いよ」

「……やっぱり昨日のは貴女で、私の事覚えていたんですね?」


 余計な事を言ってしまった気がした。向こうは自分を知ってはいたけど勘違いしていた可能性もあった様だった。それなら今飲んでいるお酒を理由に知らぬ存ぜぬを通した方が良かった気がした。

 しかし飲んだお酒は吐き出せるというのに、吐いた言葉は戻す事が出来ない。お酒はほろ酔い以上にならないハルノは、失敗という冷や水をぶっかけられたように酔いが覚めてしまっていた。


「その、何かお礼をさせてください!」




 あの日からハルノはミナミという女学生に好かれた様だった。お礼をしたいと詰め寄るミナミに対して「いや、別に気にしなくていいから」なんて謙虚に言ってしまったのも原因だと思う。

 元々、ハルノはミナミと知って助けたわけでもなく、良い金ヅルを見つけたと思って男に声をかけてたのだ。その分の利益はたんまり貰ったし、お礼をしたいと語る女学生相手にお金をせびるのもお酒をせびるのもどこか決まりが悪い。

 自分は娼婦だというのは簡単だがあそこまで不快そうな顔をしていたのに、今では尊敬の眼差しをしており心の中で「素直か?」と零してしまいタイミングを逃してしまった。結局「自分は少し離れた所の会社で事務作業をしている」「家はここから少し離れた所」なんて本職や余計な事まで語ってしまっていた。


「ハルノさんって意外と真面目な仕事をしているんですね? ……何でこんな時間に外でお酒なんて飲んでいるんですか?」

「……大人になると色々あるのよ」


 あまりにも真っ直ぐな視線。一度発言を失敗してしまったが為に、自分の汚いと思える部分を隠す為に綺麗そうな真実ばかり語ってしまう。一つ一つ語る度に自身にも後ろめたい感情があったのかなんて気がつき頬を緩ませる。

 自分ばかり喋れば墓穴を掘ってしまうと察したハルノは、今度はミナミがどういう人間か興味は無いが聞いてみることにした。


「私は○○高校の吹奏楽部に所属してるんです。腕前はまだまだですが一応パートリーダーに任命されてます」

「へぇ? それじゃこんな遅くまで大変だね?」

「塾があるので確かに大変ですけど、趣味らしい趣味も無いですし。それに親が私にあれこれさせてくれてるのは、私に期待してるって知っているので私はそれに応えたいんです」


 それじゃあ尚更自分と関わったらいけないでしょ。そんな事を思う程、ミナミはハルノにとって真っ直ぐな人間かつ、つまらない人間だと感じた。


「(まぁ、言っても私もつまらない人間の部類か)……そっか。それよりいつまでも話しをしていて良いの? 塾の時間じゃない?」

「そうでした! ……一応、親には部活が忙しくて帰らずに塾に行ってると言ってますので少しぐらいは」

「ふふっ、悪い子だ」

「……明日も会えますか?」

「予定が入らなきゃね」

「そうですか。ではまた明日!」


 自分に背を向けて来た道を戻るミナミ。恐らく学校側に塾もあるのだろう。

 持ち上げた缶が異様に重く、軽く振ってみればまだ中身が半分以上も残っていた。すっかり抜けてぬるくなった炭酸。会話する度に自身のアルコールが抜けて妙に頭が冴えてしまう。これでは酔ったフリが出来ないし、美味しくない状態のお酒を飲んでからピークを過ぎた時間に客を探すのも面倒。


「……今日もまた小遣いは無しか」


 §


 ハルノと出会ってからミナミは帰るのが少しだけ楽しみになっていた。あれだけ不快に思っていたハルノに助けてもらって以来、どうしても気になってしまう。言葉にするのなら『尊敬』が当てはまった。

 尊敬してしまったが故にミナミはハルノの飲酒に対して、何か事情があるのではないかと肯定する為の理由を考えていた。

 それにハルノと話しをしてみれば、なんて事のない真面目かつ常識的な社会人であり、飲酒をしていなければ就活等で聞かれる『尊敬する人物』という問いに両親・教師と続いてハルノと答えてしまいそうな程好意印象を持っていた。


「こんにちはハルノさん!」

「……ん? やぁミナミちゃん。学校お疲れ様」


 今日も今日とで学校帰りのいつもの場所を通れば、いつもの電柱を背にお酒を飲んでいるハルノを見つけては声をかけてしまう。


「ハルノさんもお仕事お疲れ様です。……最近、何かありました?」

「何かって? ……ん〜? 別に何もないけど?」


 最近、ミナミにはハルノが元気が無い様に見えた。前までは不快に思って目を逸らしていたし、今であれば元々元気があった方とは感じてはいなかったけれど、不意にそう感じていた。今みたいにハルノに聞いても本人はそれに気がついていない様で、自分の頬を触れてみたりしていた。


「その、何か悩んでいるというか不満? 諦めている様な感じがしまして」


 そう思った事を口にすると、聞いていたハルノは目をぱちくりと開いては少し間を空けて笑い出してしまった。


「な、何で笑うんですか!?」

「アハッハッハッ……いや〜ごめんごめん。……ミナミちゃんは私の事をよく見ているなぁと思っただけだよ?」

「それが何か………ッ!!」


 気が付いてしまってはどうしようもない恥ずかしさに顔を覆う。だってそうだろ? あれだけ不快に思っていたハルノに憧れてしまい、あまつさえ本人が気が付いていない僅かな変化にさえ気が付けるほどハルノを見ていたのだ。それをあろう事か本人に無意識に話してしまい指摘されてしまったのだ。恥ずかしくないわけがない。


「も、もう笑わないで下さい!」

「だからごめんって。ハハッ……そうだね………そうだよなぁ」


 ひとしきり笑ったハルノは困った顔をした。そんな顔を見たミナミは当然気になり、ハルノの名を呼ぼうとした時、離れた所で「あれ? ハルノちゃんじゃない?」と声が聞こえた。

 声の主はミナミの知らない男性。スーツ姿に対して頬を赤らめている。フラつき方を見るにお酒に酔っているのだと気がついた。


「ハルノさん?」


 ハルノに視線を向けると暫く考えた後、小さな声で「潮時かなぁ」と呟いたのが聞こえた。


「やっぱりハルノちゃんじゃん久し振りだね〜」

「そうですね」

「最近忙しくて忙しくてする暇無くて溜まってるんだ。だから相手を……ってあれ?」


 男性がハルノの隣にいたミナミに気がつく。酔った視線がミナミの体を舐め回す様に見つめる。咄嗟にハルノの背後に隠れるも、男性はそうかそうかと笑いながらその視線をハルノに向けた。


「なんだハルノちゃん。友達連れて……三人でしてくれるの? それならおじさん頑張っちゃうけど?」


 小気味良く腰を前後に振る男性。ミナミには何を言っているのか理解出来ず、怯えた表情を浮かべると男性は腰を振るのを止めては今度はあれ? と首を傾げた。


「……ん? 違うの? てっきり友達にその仕事を紹介してたのかと」

「し、仕事って?」

「そりゃハルノちゃんの夜のお仕事だよ。お金を払えば一発ヤらせてくれるお仕事。聞いた事ないかい? 確か……そうそう、娼婦、売春婦とかそういうの」


 娼婦・売春婦。名前なら聞いた事があった。その人達がやる事も、どういった人かも。

 視線をハルノに向けると残念そうに笑うと、自分の背中からミナミを引き剥がしては酔った男の腕に自身の腕を絡めた。


「それじゃあミナミちゃん。気をつけて帰りなさい」


 そう言うとハルノは男の腕を引いては、あの日と同じ様に人波に紛れて見えなくなってしまった。

 残されたミナミは暫く呆然とその姿を眺めて動けずにいた。フラついて踏みとどまろうとした時、何かを蹴って倒してしまった。視線を下げればハルノが先程まで飲んでいたであろうお酒の缶が倒れており、そこからドクドクと黄金色に光る液体が溢れていた。

 娼婦・売春婦・男・酒。時間が経つにつれて冷静になっていくミナミの頭の中では疾っくの疾うに答えが出ており、それについての感情が足下の缶を踏み潰した。


「——裏切られた」


 §


「今日も今日とで酒が美味い」


 あれから数日が経過した。あの後、全てをバラした男から金を巻き上げた後、いつもの場所に戻ってみれば潰れた空き缶が落ちていた。それは自分が飲んで捨てるのを忘れていた物と同じ物で、下手くそな踏まれ方をしているのを見て残念そうに笑ったのを覚えている。

 その翌日、反省する気もなくまた同じ様にお酒を飲んでいればやはりミナミがやって来た。ただ今までと違う所をあげるのなら、以前の様に顔を合わせなくなったぐらいだろう。

 当然だ。一度不快に思った相手に心を開いてしまったと思えば、相手が実は金さえ払えば股を開く様なアバズレだったと知ってしまったのだ。もしミナミが貧乏人やハルノと似た様な環境だったのなら理解はできそうだが、不自由無く健全な生活をしていた学生が、自分の身体を売るなんて事を受け入れる事も認める事も出来ないだろう。

 とはいえ、散々好かれた相手に嫌われたハルノだが、その事をどうとも思っていなかった。その表情を見れば『やっといつもの生活に戻れたな』なんて思っているに違いない。

 ハルノにとってはミナミはその程度の人であり、気にするほどの悩みにすらならなかった。


「お姉さんいくらですか?」


 そんな事を思っていたある日、いつもより早い時間に客がやってきた。どんな相手かと視線を向けると、そこには目に涙を溜めながら頬を赤くして怒っているミナミが立っていた。


「ど、どうしたのミナミちゃん? もう声をかけてこないと思ってたよ」


 驚きつつもヘラヘラと笑ってみせる。しかしミナミの表情と先程の言葉を考えれば直ぐに笑うのを止めては溜息を一つ吐き出した。


「——自分が何を言っているか分かっているの?」

「分かっているからいくらか聞いているんです」

「あのね……」


 顳顬を押さえるもミナミが本気だという事には変わりない。

 ……面倒臭い。そう呟くかの様にもう一度溜息を吐いては掌をミナミに向けた。


「じゃあ五万」


 金額なんていつも変動するけれど子供相手に払える額とは思っていない。分かったら早く帰って欲しい。そういった思いを含めてとりあえず五万と口にしてみたところ、ミナミは財布からお金を引き抜いてはハルノに突き出した。


「それじゃあ買いました」


 §


 別にハルノの事が好きだったわけではなかった。

 始めは明るい内から人目に付く様な場所でお酒を飲んでいる碌でもない大人だと思っていた。そんなハルノの事を反面教師として、嫌な所だけしか見ないようにしていた。

 あの日、ハルノに助けられた時、ミナミは今まで見ようとしなかった良い所を見た気がしてしまった。碌でもない大人だけれども、話した事もない人が困っていると助ける。そんな誰にも出来そうで大半の人が出来ないことをすることができる人だと知ってしまった。勿論、今となればあれが故意で助けたとは思ってはいない。きっと偶然に近い結果だと思う。けれど、助けられたミナミからすればハルノは凄い人だと印象付くのは当然の事で、そう感じてしまったが故に、見ようとしなかった所を勘違いして尊敬してしまった。


 ハルノさんは見ず知らずの人を咄嗟に助けられる凄い人だ。

 ハルノさんは真面目に仕事をしている立派な社会人だ。

 ハルノさんがお酒を飲んでいるのはきっと何か事情があるに違いない。


 思えば思うほどミナミはハルノに近づいていた。近づいて僅かな変化すら気がついてしまうほど意識してしまった。


 ——だからこそ裏切られたと思ったし、ハルノをお金を払えば股を開く卑しい人だと失望した。


 ——それと同時に、そんな人を尊敬してしまった自分が酷く恥ずかしかった。


 ハルノが娼婦だったのは前からの事で、ハルノが悪い事をしてるわけではないにしろ、ミナミは勝手にハルノの事を尊敬し、勝手に失望したのだ。いわば自業自得だ。

 しかし、ミナミは当然それを認めたくはなかった。親の期待に応える為に必死に勉強して、塾にも行って、部活でパートリーダーにまでなって。そこまで出来た自分が尊敬する人を間違えた。好感を持ってしまったなんて認めたくはない。

 あの日以来、ミナミはまたハルノを不快そうに見て反面教師にしようと奮起してみた。しかし、奮起すればする程、過去の自分がその反面教師に寄り添っていた事実が自身を苦しめる。思い返せば思い返す程恥ずかしい。あの日々を後悔しなかった日は無い。

 どんなに勉強しても部活に集中しても気は紛れず、終いには「ミナミさん、体調が悪そうだし早退した方が良いよ」と言われて家に帰される始末。

 とぼとぼ家に帰る途中、いつもの場所を無意識に通り、いつもの電柱を無意識に見てしまう。偶然というか、恐らくまだ仕事中なのかハルノはそこにはいなかった。それを考えてホッとした反面、無意識に理解出来てしまった自分が情けなくなって涙が出てきてしまった。

 家に帰れば母親はまだ帰っておらず、誰もいない家に「ただいま」と力無く呟く。

 着替えて自室のベットに倒れ込む。頭の中は早退した事、パートリーダーなのに部活に顔を出せなかった事、恐らくこのまま塾に行っても先生に怒られそうな予感がして行きたくない事。……そしてこれらの事全部がハルノのせいだという事。


「……何で私がこんな目に遭わないと行けないの?」


 呟いて浮かんだのが『自業自得』よりも『ハルノのせい』だった。思えば思う程湧き上がる怒りと後悔、悔しさ。涙は余計に溢れ、握りしめたシーツがぐしゃぐしゃに変わっていく。感情に振り回されるミナミは、ベットの上で行き場のない怒りに身を任せる様に暴れ、語彙力の無い暴言を吐き、近場にあった枕を何処かに投げつける。


『ガシャン‼︎』


 突然聞こえた鈍い金属音に一瞬で冷静になり、音の発生源を探した。どうやら先程投げた枕が机の上の何かに当たって倒してしまった様だった。とりあえず枕をベットに戻して倒した物を確認すると、それはずっしりと重さのある貯金箱だった。


「……そういえば全然使ってないな」


 ミナミには趣味らしい趣味も贅沢らしい贅沢もしておらず、月々のお小遣いやお年玉の大半は貯金という形で収まっていた。

 折角だし気分転換にと貯金箱を開けて金額を確認してみた。殆ど使っていない為、中の小銭は思っていたより少なく大半がお札になっている。千円・五千円・一万円ととりあえず種類別に分けてからそこからそれぞれどのぐらいあるかを数えてみる。


「……合計で大体十万円。そんなに貯めていたんだ私」


 貯まっていた金額に驚きはしたものの、これといって使い道は思いつかなかった。趣味も贅沢も無い。偶に文房具や参考書を買う程度。何ならいつか自分専用の楽器を買う為に貯めるのも悪くはない。そんな事を思いながら再び貯金箱の中に戻そうとする際、一つ使い道を思いついた……いや、思い出してしまった。


「これだけあればあの人を買えるんじゃないかな……」


 ミナミの思い出した使い道。それはハルノをこのお金で買う事。一体いくらするかは分からない。けれどあの男性が再びハルノにお金を出すぐらいだ。大金には違いないけれど買えない事はないはず。

 自分がハルノを買う。そうする事でマウントを取って、自分は貴女とは違うという事を示そうと思った。

 絶対に自分は間違えてない。貴女の様な最低な大人より自分が上だ。

 そんな事を考える程ミナミの中はハルノの事ばかりで、優位に経つ事でその思いを断てるのだと疑わずに大金の入った財布を握りしめて家を飛び出した。


 §


 ミナミはハルノにお金を渡そうとすると、小道を抜けた通りにあるホテルに連れて行かれた。受付が何度もハルノ達に視線を移している事からきっといつもここでシているのだと分かった。


「特別にホテル代は出してあげるから余計な事は言わないでよ」


 ハルノの言う余計な事とはおそらく年齢の事だろう。今でこそミナミは私服に着替えてはいるが実際は未成年。同性とはいえ未成年に手を出すのは犯罪だからという念押しなのだろう。これにはミナミも厄介事になって親を呼ばれるのはよくないとその言葉に頷いた。

 部屋に入ると変わった雰囲気の内装に思わず足を止めてしまう。以前家族旅行や修学旅行で泊まったホテルは質素だったり、和室の様な広々としていたのに此処はどうも違う。言葉にするのなら視覚的に甘ったるく、過ごしやすい気温より少し高くて妙に落ち着かない。

 戸惑うミナミを他所に、手荷物をテーブルに置いたハルノはミナミを部屋の中央まで連れてくる。その顔を掴んでは上を向かせられ、ハルノが見下ろす形で目が合った。


「ミナミちゃん。一応これが最後の確認兼、警告。……引き返すのなら今の内だよ? 今なら此処でお昼寝してその五万円を私を忘れる為に好きな事に使えるよ?」

「……何ですか? そっちこそ今更怖気ついたんですか?」


 思わず強気の態度を取ってしまう。ハルノはその応えを聞くとまた溜息を吐き、何も言わずに口付けをした。それは偶に見る外国人が挨拶でする様な軽いものではなく、洋画のラブシーンの様な激しく強烈なものだった。

 何の合図も無しにミナミの口内にずるりとハルノの舌が侵入する。キスなんてした事がないミナミはそれに驚いているが、お構いなしにハルノは口内を犯す。歯に舌を這わせ、上顎を擽り、舌を絡める。暴れ回る舌にされるがままにされ、掴めない呼吸のタイミングに酸欠に苛まれる。


「……キス一つでそんな顔になってたら後が保たないよ?」


 ハルノの声にミナミは惚けた顔をしていた。何を言っているのか理解出来ない。それ程まで頭が回らず、ただ自身へ伸びた蜘蛛の糸の様な唾液をぼんやりと眺めるしかなかった。


「ほら、床でヤると体が痛くなるしベットに行こうか?」


 最初の威勢は何処へ行ったのか。手を引かれただけで理解出来ずについていく事しかなく、ベットを前にした途端ダンスをする様に回転し、気がついたらベットの上に押し倒されていた。


「ミナミちゃんはこういうのは……まぁ初めてだよね? 私も女の子同士ってのは初めてだけどある程度慣れている分リードしてあげるから」

「違っ! わたしっ…んっ」


 咄嗟に声を張るもまたもや口を塞がれる。時折空く口同士の隙間から漏れ出す吐息。ハルノに嬲られているのにも関わらず、彼女の口からお酒臭さは感じられず、僅かばかり感じる唾液の甘さに頭の中を掻き回されてしまう。

 乱れた息を整えようと息を吸っていると胸元が緩くなり、視線を向ければ自分の着ていたブラウスが既に脱がされていた。そして今、ハルノはスカートまで手をかけ始めていた。


「な、何をして…」

「何って。……そのままだと服が汚れちゃうよ? ほら、腰上げて? 脱がしてあげるから。はい、ばんざ~い」


 頭で理解する前に腰を上げてしまい、気がつけばあっという間に下着姿にされてしまう。恥ずかしさに体を抱きしめる様に身を縮めると、そんなミナミに目もくれずにハルノはどんどんと自身の衣服を脱ぎ去っては、一糸纏わぬ姿を晒していた。初めてお風呂や家族以外で目にした他人の裸体。その体はあまりにも官能的で、自分に静かに近づいて来ても逃げる事が出来ず、ただ釘付けになってしまっていた。

 ギッギッとベットを軋ませながらミナミの上に覆い被さるとそのまま抱き締められる様に腕を回される。あれだけ不快に思っていた相手なのに鼓動の音がやけに煩い。もしかしたらハルノにも聞こえているのではないかと思ってしまう。


「緊張してる?」


 耳元で囁かれて心臓が一度大きく跳ね上がる。思わず顔を背けるとケラケラと笑われてしまい、またもやいつのまにかホックを外されて上裸を晒してしまう。その事さえハルノの「ミナミちゃん、綺麗な形してるね?」という感想で気が付けたほど。


「暴れないで?」


 突き飛ばそうと手を伸ばすも抱き締められて身動きが取れなくなる。肌と肌が密着し、互いの体温、息遣い、鼓動が聞こえてくる。


「偉い偉い…いい子いい子」


 髪を撫でられる。頬を撫でられる。頭を撫でられる。普段親にもされたことのない文字だけ見れば健全なスキンシップ。それを親ではなくハルノにされている。感じる感情は? 恥ずかしい? 悔しい? 何も感じない? ……分からない。分からないけど……嫌ではない。

 思わずハルノを抱きしめ返してしまう。ただそれだけなのに、ミナミはこの瞬間には本来の目的を忘れてしまい、その体をハルノに委ねてしまった。






 ……気が付いたら全身体液でぐちゃぐちゃにされていた。エアコンの風が肌を撫でるだけで体は痙攣し、シーツが擦れるだけで致してしまう。

 性行為なんて学校の保健体育の授業で教科書の知識程度でしか知らないミナミが、経験豊富なハルノを抱けるわけもなく、最初から最後までハルノに抱かれてはかされてしまった。

 初めての性体験。相手が同性とはいえした事には変わりなく、未だ感じる体でシャワーを浴びながら蹲ってしまう。


「うっ…うぐっ……っく…うぅ…」


 溢れ出す涙がシャワーのお湯と共に流れる、


 ———あの女にかされた。


 羞恥と屈辱。それがミナミの心を殺そうとしていた。

 あれ程豪語したのにも関わらず、呆気なく服を脱がされてしまった。体を、心を許してしまった。

 あれ程不快に思っていたのに、何度も何度もイかされてしまった。なすがまま、されるがままだった。

 ……そして何より、それに感じていた自分がいた。喘いでいた自分がいた。それが何より恥ずかしくて悔しかった。

 こんな言葉だって数時間前まで知らなかったのに、ミナミは文字通りハルノに教え込まれてしまった。


 ひとしきり泣いた後、お風呂場から出ると既に着替えていたハルノが体を拭いてくれた。最早抵抗する気もせず、されるがままに身だしなみを整えてもらい、手を繋いでホテルを出た。ホテルを出れば既に遅い時間。時間を考えるのなら今頃自分は塾でノートにペンを走らせている頃だなぁなんて思ってしまう。


「ミナミちゃん」


 ハルノの声に力無く振り返ればまたもやキスをされる。ただ違ったのはホテルでされた様な貪る様なものではなく、挨拶をする様な軽いキス。


「……分かったのならもうこんな事はしちゃダメだよ?」


 ハルノの手には少し厚い札束が握られており、何となくそれがシャワー中に抜かれた物だと気がついた。

 返す返事を探している内に、ハルノは背を向けては暗がりの夜道に消えて行ってしまう。

 ……完全に負けた。ハルノがいつも立っていた電柱に寄りかかり蹲る。不快に思っている相手にマウントを取ろうとするも、失敗し、抱かれてしまった。親から貰ったお金をそんな不埒な事に使ってしまった。

 自分のプライドはズタズタ、親への期待を裏切る行為をしてしまい罪悪感がのしかかる。


「あ〜ぁ、どうしてこんな事になっちゃったのかな」


 独り言の様に呟く。当然答えは返ってこないし、ミナミの心は未だに上の空。自身の指針は方角を見失い、ぐるぐる回り続けて地面へと視線が落ちる。すると「あっ」と思い出したかの様に手荷物を確認すると少なくなった財布を引っ張り出した。中を除けば予想通り五万円が抜かれており、残金が——五万円程残っていた。

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段差と転倒、それと負け犬のリード 通行人B @aruku_c

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