31 『屋敷』の主
先頭を行くファランヴェールは『進める道を進む』という言葉通り、悩む仕草も見せずに歩き続けている。
「これだと元の場所に戻らない?」
三度左へ直角に曲がったところで、ヘイゼルがフユに近づき耳打ちした。
「いや、位置がずれている。元に戻ることはない」
ファランヴェールがそう言ってヘイゼルを睨みつけた。
「ファルには分かるの?」
フユが尋ねる。
「ちゃんと頭の中で位置を把握しています、マスター」
「すごいね、ファル」
ファランヴェールの答えに、フユは感嘆の声を上げた。
「ボ、ボクにだってそれくらい」
「はいはい、次は頼んだよ」
フユのジャケットを引っ張りながらヘイゼルが抗議する。それをフユは、笑いながらなだめた。
「でも、随分広いね」
「地下にでも降りない限り、このフロアだけでは広さにも限度があると思いますが」
ファランヴェールはこの建物に入ってきた経緯をフユに説明していた。この場所自体は地下ではなく地上部分にある丘の中だということも、である。
「僕たちを外に出す気がないのかな」
フユが思わず不安げな声を漏らす。
「絶対あいつの仕業だよ」
あいつ――ヘイゼルはカグヤのことをいまだ警戒しているようだ。
カグヤはヘイゼルに関するある程度の秘密を知っていた。フユはカグヤから聞いた話は二人に話していない。
「だから、あの人はお父さんの知り合いで」
「でも、でもね」
ヘイゼルはそう反論しようとして、突然そこで言葉を切った。フユを見つめていた視線が宙を泳ぐ。
「ヘイゼル、どうしたの」
「声が、聞こえる」
「どんな」
ヘイゼルは完全に歩みを止めていた。フユがヘイゼルを抱えるように抱く。
「分からない。意味をなしてない。でも、なんか、心を凍らせるような、そんな冷たい」
ヘイゼルがフユに抱き着いた。
「冷たい?」
「……憎しみ。憎悪を感じる」
フユはヘイゼルを抱いたまま、通路の先で同じく立ち止まりフユたちを待っていたファランヴェールに視線を向けた。
しかしファランヴェールは、少しつらそうな表情を返した。
「私にはわかりません」
ヘイゼルだけが感じるというのなら、それはフユに向けられたものなのだろう。
「誰か分かる? それか、どこ、とか」
フユの問いかけに、ヘイゼルはゆっくりと前を指さした。その先にはファランヴェールがいる。
「な、なぜ私が」
「ちがう。その先。通路の」
ファランヴェールは一瞬ぎょっとしたが、その後のヘイゼルの言葉に、視線を後ろに向けた。
通路は少し先で左に曲がっている。
「見てきましょう」
ファランヴェールが通路を進み、左へと消える。しかしすぐに角から顔を出した。
「突き当りです」
「行ってみよう」
そう答えたフユをヘイゼルが引き止める。
「だめだよ、行っちゃ」
「でも、進まないと、どのみち出口がないよ。ヘイゼルが守ってくれるんだよね」
フユにそう言われ、ヘイゼルは少し渋った後で、フユにぴったりと体を寄せたままフユについていった。
角を曲がると、確かに突き当りになっている。そこまで進んだところで一人と二体は立ち止った。
突き当りの壁は何の変哲もないただの壁である。しかしそれは、脈動する光を放つパネルに囲まれた通路の中ではかえって異質なものに見えた。
「何かあるのかな」
フユが壁に近づく。
「マスター、危ないですから」
ファランヴェールがそう止める間もなく、フユは壁に手を触れた。
シャッという風切り音がして、壁にぽっかりとした四角い穴が現れる。その奥では暗がりの中、青白い光がゆらゆらと揺らめいていた。
海――フユはその色に、一度だけ連れて行ってもらった海の色を思い浮かべた。
どうもそこは大きな部屋になっているようで、入り口からでもいくつかの大きなカプセルが見えている。
「培養カプセルだ……研究室かな」
恐れを知らない子供のように、フユがその中へと入ろうとする。
「フユ、だめだよ」
ヘイゼルが引き止めようとするが、それをすり抜けるようにフユは部屋の中へと入った。
そのままカプセルの前へと進む。中は培養液らしき液体で満たされていたが、その液体の中には何も浮かんではいない。
「ようこそ、ワタシの『屋敷』へ」
突然甲高い声がかかる。ヘイゼルと、後から入ってきたファランヴェールがととっさに身構えたが、フユはまるで無防備な様子でその声の主を探した。
部屋は円形のホールのようになっている。カプセルがあるのは中央だが、声は部屋の入り口とは反対の、奥から聞こえてきたようだ。
いくつかの太いケーブルが床から生えていてそれらはガラス張りのカプセルにつながっていた。それらをよけ、フユはその裏へと回る。
部屋の奥、様々な機器で覆われたベッドのようなもの――フユには一瞬、それが背の部分を起こした手術台に見えた――があり、そこに人影があった。
上半身だけがフユの目に見えている。長い黒髪。体は随分と細く華奢なようだ。背も低いようで、あまり大きくないが胸に膨らみがある。目は機械的なゴーグルに覆われていて、それがフユの方を向いていた。
「貴女は」
そう言いかけたところで、フユの腕をヘイゼルが抱える。ヘイゼルを見ると、かなりの敵意で視線の先の人物を見ているが、飛び掛かろうとはしていない。いや、まるで恐怖に体を動かせないでいるようだった。
「あら、人に名前を聞く前に自分から名乗るのが礼儀だと、両親から教わらなかったの? フユ・リオンディ」
その言葉に、フユがその女性に視線を戻ず。
「失礼しました。でも僕の名前は知っていたでしょうから。なぜ、僕をここへ」
「ここに連れてきたのは、気を失ったアナタを保護するにはここが一番安全だったからよ」
「保護?」
「ええ。アナタ、殺されそうだったから。別にそうなったところで面白かったかもだけど、今アナタに死んでもらうのは面倒なのよ」
それほど歳を感じない、いや、下手をすればフユとほとんど同い年の少女のような声で、その人物は平然とそう言い放った。
ヘイゼルが体を動かす。フユはそれを抱えて止めた。
「貴女は一体」
誰ですか――フユがそう言い終わる前に、凛とした声が被せられた。
「イザヨ・クレア博士」
ファランヴェールが信じられないものを見るような表情でそうつぶやく。
「あら、ファランヴェール。良かったわね、『マスター』を見つけられて。貴方にとっては『代用品』でしょうけど」
そう言うと『少女』は、露わになっていたその口元に、小さな笑みを浮かべた。
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