7 広き門の先へ

「一緒にいることも多いし、何かの拍子に僕の『細胞』をヘイゼルが『摂取』してしまったんじゃないかな。というか、学校はそこまでヘイゼルのことを調べているんだ。身体検査はまだ先だったはずだけど」


 今度は、フユがファランヴェールの耳元に囁く。お互いの頬が触れる距離。ファランヴェールがまた吐息を一つ吐いた。


「フユ、悪いことは言いません。もうヘイゼルと『関り』を持つのはやめてください。貴方はまだ未成年。今なら保護観察程度で済みます。罪にはなりません」

「で、ヘイゼルにだけ罪を背負わせろって言うの」

「はい」


 お互いがお互いの耳に囁き合う。まるで睦み事のように。しかし部屋の中の空気は、触れるだけで壊れてしまいそうだった。


「それを僕が『うん』と言うとでも?」


 言葉の中に、これまではなかった僅かな怒気が混じっている。


「はい」


 しかしファランヴェールはそのままの調子で、ただそうとだけ答えた。フユがファランヴェールから顔を離す。そのまま両の手で、ファランヴェールの顔を包み込んだ。


「矛盾してるよ。ファルだって、罪を犯したいと思ってる」


 近づいているのか、それとも近づけているのか、そのどちらともわからぬままに、二人が顔を近づけ合う。


「はい」


 お互いの鼻の先が触れ合った。


「前にも言ったよね、ファル。僕は何をしてでも、全て知りたいんだ。きっとヘイゼルはお父さんがお母さんと協力して作ったんだと思う。それを確かめたいし、ヘイゼルに組み込まれたPIが本当はどういうものなのか、お父さんと解放戦線の関係はどういうものだったのか、そして、バイオロイド解放戦線とは本当はどういう組織なのか、その全てが知りたいんだ。その為なら、僕は悪魔にでも魂を売る。ファルは協力してくれるって言ったよね」

「はい。しかし、貴方が捕まるような事態になっては、意味がないのです」

「それはファルが何とかして」

「私にもできることとできないことが」


 ファランヴェールの眉が苦しげに歪む。


「じゃあ、ファルの願いをかなえてあげたら、僕の言うことを全て聞いてくれるかい」

「フユ、それは」

「ファルを愛した人がいたんだよね」


 ファランヴェールが静かにうなずいた。


「その人のように、ファルを愛せばいいの?」


 しかし、その問いかけには、首を横に振る。


「ミグランは私を愛してくれました。そしてそれが愛なのだと教えてくれました。私は今、あなたを愛したいのです、フユ。彼は私を愛してくれたのに、私は彼を愛してあげられなかった。今度は、私が」


 と、フユがファランヴェールの唇を手でふさぐ。厚みのない、少し冷たい感触。


「僕は、その人の代わり?」


 ファランヴェールの言葉にショックを受けて……ではない。フユはファランヴェールの心の奥底を覗き込むように、その紅い瞳を見つめている。他人に触れられたくないものも数多くあるその領域に、フユは遠慮もなく踏み込んできている。


「違う、違うのです、フユ。 そうじゃない」


 フユの指の上をファランヴェールの唇が動く。フユがそっと指を離した。


「いや、いいんだよ、ファル。僕は、それでも」

「違う、違うのです。私が愛したいと思ったのは」


 自分から遠ざかろうとするフユの頬を、ファランヴェールの手が押さえる。


「貴方が、初めてで」


 フユはその力に抗おうとはしない。いや、それどころか、手に引かれるままにまた触れるほどに顔を近づけた。


「それが、第二世代のバイオロイドがコンダクターを選ぶ基準なの?」


 その少しオクターブの高い穏やかな声にも、茶色い瞳にも、どこか冷めたものが含まれている。どうすれば、それを温めることができるのか――ファランヴェールの頭の中はただそれだけで占められていた。


「そうではなく、それはただ、私が、そう思うだけで、それがなぜなのか私には」


 普段、学校で見せているような威厳は、今のファランヴェールには全く見られない。ただそこには、ミディアムストレートの栗毛色の髪をした少年を前にして、どうしていいか自分でも分からずに、戸惑い、思考を彷徨わせているバイオロイドが一体いるだけであった。


「理由もわからず、僕のことを愛してるの?」


 どんな答えをフユが期待しているのか、ファランヴェールには分からない。だから、ただ思うままに「はい」と答える。


「ねえファル。愛って何? 僕には分からない。お父さんもお母さんもずっと忙しくしていて、あまり遊んでもらったことはないんだ。あの写真、あれが家族で行った唯一の旅行。そして両親と揃って行った二度目のお出かけが、シャンティ・ホテルだった」

「フユ……」

「もちろん、悲しかった。でも、不思議なんだ。お父さんとお母さんを殺したバイオロイドにも、解放戦線と名乗る組織にも、何か、恨むような気持は出てこない。僕は」


 そこでフユが、視線を落とした。


「冷たい人間なのかな。両親すら愛してない。愛なんて知らない。それとも、家族愛と他人に対する愛は違うの? お父さんやお母さんは僕を愛してたの? 僕がヘイゼルを愛してるのか、自分でも分からない。ヘイゼルは、僕を愛してるの? ただDNAの声のままに動いているだけじゃないの? それは愛なの? 分からない、もう何も分からないよ」


 まるで抱えていたものを一気に吐き出したようだった。どれほど気丈にふるまっていても、フユはまだ十代半ばの少年に過ぎないのだ。

 フユが一つ肩を震わせる。ファランヴェールの手を、少し熱を持った液体が濡らした。


「フユ、泣かないで、泣かないでください」


 ファランヴェールが思わずフユを抱きしめる。その腕の中で、フユはしばらくしゃくりを繰り返していた。


 フユが落ち着くのを待って、ファランヴェールがフユの髪をなでる。


「私も、本当のところは分からずにいるのかもしれません。ただ、私が知っているやり方で、貴方を愛することしかできません」


 フユがその濡れた瞳をファランヴェールに向ける。


「それが罪になるとしても?」

「ええ、愛することが罪であっても」


 ファランヴェールが唇を触れるほどに近づける。しかしフユは近づくことも離れることもしない。ただ、『愛される』ことを待っているようである。


 ファランヴェールはその唇で、そっとフユの唇を塞いだ。

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