僕の担当しているアイドルは病んでいる。
寿 丸
第1話「黒星フカミというアイドル」
僕の担当しているアイドルは病んでいる。
いわゆる、「病んドル」というやつだ。人を呪い、自分を呪い、世間を呪い、生まれてきたことを呪う。普段使う言葉も「死にたい」だの「やってられない」だの「あたしなんかに」だのとネガティブワード連発だ。
そして、今日も僕の担当アイドルは病んでいる。
「ああ、死にたい」
おはようございます、ではなく死にたい。僕はもうすっかり慣れてしまった。
「調子はいかがですか」
「見ればわかるでしょ。死にたくてしょうがないのよ」
確かに、彼女――黒星フカミは目も落ちくぼんでいて、髪もボサボサで、肌にも張りがない。これでアイドルと名乗れるのだから不思議なものだ。顔立ちは端正、手足も細く、肌も蒼白。最後のはちょっと危ない気もするが、この容姿があるからこそぎりぎりアイドルとして許されるのかもしれない。
「抱っこ」
「はいはい」
僕はフカミを抱き上げた。彼女は身長百五十にも満たないほどの背の高さで、まるで子供を抱きかかえているような気持ちになる。僕の腕の中で丸くなるフカミは一見すると愛くるしい小動物のようにも見えるが、「ぐるるぅ」と奇妙な声で鳴いたりするので不穏なことこの上ない。
「あの、そろそろ出かけないとまずいんですが」
「やだ。生きたくない」
「なんか漢字を間違えている気がするのですが」
「レッスンなんかしたくない。みんな死ねばいい」
「そういうことを言ったら僕まで死んでしまいますよ」
「やだ。マネージャーだけは生き残ってほしい。あたしがいなくなっても、あたしの思い出を抱いたまま生きてほしい」
「怖いことを言わないで下さい。とにかく、着替えてご飯食べて行きますよ」
フカミは僕の袖をぎゅうっと引っ張る。まだ離れたくないということらしい。
僕はフカミを半ば強引に引き離し、洗面所へと向かわせた。その間に僕はフカミの朝食を簡単に用意する。といっても彼女の冷蔵庫の中にロクなものはないことは知っていたから、あらかじめコンビニでサラダと野菜ジュースとシリアルと牛乳を買ってきた。アイドルの体調の把握を務めるのもマネージャーの仕事だが、自分のことは最低限自分でやってほしいなぁと思わなくもない。
しかし、フカミにはそれが難しい。
「おはよ、マネージャー」
ようやく朝の挨拶が聞けた僕は「おはようございます」と返した。
「朝食、用意してありますよ」
「コンビニで買ってきたものばかりじゃない。ハンバーグが食いたい。最後の晩餐に」
「今は朝です。贅沢を言わないで下さい」
「ぶぅ」と言いつつ、フカミは朝食に手をつける。
「よく噛んで食べるんですよ」
「あたしを子ども扱いしないで。何歳だと思っているの」
「二十一歳ですね」
「女性の年齢を言い当てるなんて、野暮ね」
僕はため息をついた。
食事の後はお決まりの薬の時間だ。ひとつだけではなく、複数の種類の薬を十錠近く飲まなくてはいけない。「あーあ」と言いながら手のひらの薬をフカミは見下ろしている。
「なんであたし、アイドルなんかやっているんだろ」
「あなたが望んだことじゃないですか」
「なんか流れでそうなっただけよ。薬に頼って生きているアイドルなんて、格好悪いじゃない。体調不良で休むこともしょっちゅうだし、ファンのみんなにも心配かけるし、SNSではネガティブなことばっかりつぶやいてるし、キモいって叩かれてるし、親からも実家に戻ってこいって言われるし、ほんといいことない」
「そんなことないですよ。薬じゃなくても、サプリに頼ったりしているアイドルなんて山ほどいます。あなたの場合はそれがたまたま薬だった。休むことが多くても、活動できる時は思いきりやれているじゃないですか。自信を持ってもいいんですよ」
「ネガティブなことばっかりつぶやいても? キモいって言われても?」
「まぁ、それがあなたの持ち味ですし。フォロワーだってこないだ五千人を超えたばかりじゃないですか。そういうことを言ってくる人はたったの一人か二人ぐらいでしょう。ブロックしちゃいましょう」
「あんた、ドライね。……でも、本物のアイドルだったら十万人は固いじゃない。あたしなんか全然」
そうだろうか。僕のフォロワーなんて百人にも満たない。それを考えれば五千人というのは十分魅力的な数字だ。
「アイドルは数字じゃないですよ」
「そうかしら?」
「現に、あなたを応援しているアイドルは一定数いるじゃないですか。ファンレターだって花束だって届いていますよ。カミソリ入りの手紙も」
「……それは嬉しくない」
「そうですか。でも、ポジティブなことばっかり書かれている手紙を受け取ったってあなたは喜ばないじゃないですか」
「ぶぅ」
「そろそろ時間です。行きましょう」
僕はフカミにサングラスとマスクをかけてあげ、共にバンに乗り込んだ。フカミは運転している僕の袖を引っ張っているのだが、事故ってしまいそうだから正直やめてほしいところではある。
「ねぇ、マネージャー」
「なんでしょうか?」
「このまま赤信号に突っ込んで、死んだら楽かなぁ」
「それは困ります。万が一死に損ねたら苦しい思いをし続けることになりますよ」
「痛いのは嫌だ」
「そうですね」
「じゃあ、我慢する」
「そうして下さい」
走り始めてから二十分後、僕らは都内のスタジオに着いた。
フカミは首を九十度に曲げ、「はぁあ」とため息をついた。
「やっぱり行きたくない。マネージャーと富士の樹海に行きたい」
「その申し出は嬉しいですが、デートのスポットの場所としては最悪ですね」
「なんかあたし、馬鹿にされているような気がする。あっちこっちから声が聞こえる気がする。ほら、幻覚なんかも見えてきそう」
「そういうことが言えるならまだ大丈夫ですね。さぁ、行きましょう」
「マネージャーの意地悪」
ぶぅ、と頬を膨らませ、フカミは諦めたように助手席から降りた。僕も降りて、一緒にスタジオに入る。
すると二人の女の子が出迎えてくれた。一人はポニーテールの、もう一人はボブカットの子。どちらもフカミと同じグループの子で、病弱かつ小柄なフカミのことを何かと心配してくれている。
「フカミ、今日は大丈夫なの?」
「だいじょばない」
「ここまで来れるってことは元気なんしょ? だったら大丈夫っしょ! フカミ、その気になればめっちゃ激しい振り付けもできるじゃない」
「さっさと終わらせたい」
「まぁまぁ、フカミ。そんなこと言わないで。私たち、フカミが来るのを楽しみにしてたんだから。これからタピらないかどうかって」
「タピる……」
一瞬、僕はフカミの目が猛禽類のように鋭くなったのを見逃さなかった。フカミは極度に甘いものが好きなのだ。あとはドーナツ。いや、これも甘いものか。
「フカミ、今日も頑張ろうね」
ポニーテールの子——アルミがフカミの背中をぽんと叩いた。高身長で顔立ちもしゅっとしていて、フカミと並んでいるとお姉さんっぽい。
「フカミが来れば勇気りんりん!」
ボブカットの子――ミルキがフカミの首に腕を巻きつける。フカミはなんとか逃げ出そうとするが、ミルキの腕から逃げられない。こう見えて合気道を学んでいるらしく、相手を捉えたままの技術を学んでいるのだそうだ。地味に怖い。
「じゃあ、皆さん。後はよろしくお願いします」
ぺこり、と頭を下げるとフカミが恨めしげにこちらを睨んでいた。涙目で。
でも、僕は知っている。フカミはやればできる子なのだ。最初はどんなに嫌がっていても、実際に一歩踏み出せば走り切れる。背中を押したり腕を引っ張るのが大変だけども、一度場に出た以上は最高のパフォーマンスを発揮してくれる。
三人はレッスン場に移動した。壁にガラスがしつらえていて、その手前にはコーチの姿がある。冷徹な目つきの女性だ。
「フカミ、あなた来ていたのね」
「…………」
「またそんな顔をして。それじゃあアイドル失格だって言われてもしょうがないわよ」
「……好きでなったんじゃないんだもん」
「まぁまぁ、そのぐらいにしてあげましょ、センセー」
ミルキがすかさずフォローをしてくれたので、僕は内心で胸をなで下ろした。このコーチはフカミの中身というか精神状態について多くは把握していないので、フカミのことを単なる怠け者と見ているフシがあるのだ。
「それじゃあ、始めるわよ」
音楽が流れ、小刻みなビートが三人の体を揺らす。
フカミは諦めたように目を閉じ――ぱっと開いた。
それからは別人のようだった。フカミは音楽にタイミングよく合わせ、ダンスも一切間違えず、更には手や腰の振りのキレも見事で、ステップも軽やかだ。水面の上で天使がタップを踏んでいるような、優雅な足取り。
笑顔も完璧だった。顔が前を向くタイミングに合わせて、ぱぁっと輝かせたり、あるいはウィンクをしたり。フカミが家にいる時の状態を知っている身としては、その落差に本当に本人なのかと疑いたくもなる。
音楽が流れてから終わるまで、一切のノーミス。
コーチはあまり面白くなさそうな顔をしていた。
「相変わらず完璧ね、フカミ」
「ありがとうございまーす……」
「あとは息切れした後にそんな顔をしなければいいんだけどね」
はぁ、とため息をつく。自分の言うことがほとんどないから悔しいのだろう。
その後コーチはアルミとミルキにダメ出しをして、それでレッスン終了となった。
次は簡単なライブだ。午後五時からなので、時間にはまだ間がある。僕は車に三人を乗せて、会場へと向かった。
「ねー、フカミ! マネージャーさんとはどうなのよぶっちゃけ!」
「どうもしないよ……いつも甘やかしてくれるだけ」
「それ、かなりいい関係じゃないの?」
「マネージャーが甘やかすから、あたしどんどんダメになってくの。あたしがこんなのはマネージャーのせいなの」
「はは、僕のせいですか……」
ガラス越しにアルミが気遣うような苦笑を見せてくれる。フカミとは違ってこの子はあまり手がかからない。いわゆる優等生タイプなのだろう。実際小中高と成績は優秀で、大学も首席で納めたらしい。絵に描いたような天性のアイドルで、だからこそフカミとユニットを組んでいるのが謎だ。
「それよりフカミ、会場に行ったらまずどこ行く?」
「寝る」
「もー、フカミったらそればっかりじゃん。何かあればすぐに寝る、寝るってさぁ。マネージャーからもなんとか言ってやってよぉ」
「はは……フカミの体調は安定しないので、勘弁してやって下さい」
「まっ、マネージャーがそう言うんならしょーがないか」
ミルキは調子外れな口調に似合わず、優しいところのある子だ。フカミが嫌がるようなことは絶対にしない。それでいてフカミが望んでいることはできるだけ叶えてあげようとする。おそらくこの後ミルキは、眠りにつく(予定の)フカミにタピオカドリンクを買ってきてあげるだろう。そういう子なのである。
会場に着く頃には、フカミはすっかり眠りについていた。日に一度か二度ぐらいは深い眠りについてしまう。それでいてライブ直前にはきっちり目を覚ますのだからアイドル根性とはこういうことを言うのかもしれない。
僕はバンを会場の裏口に回し、アルミとミルキを連れてテントに入っていった。会場の設置をしている責任者に挨拶に行くためだ。
その責任者は手近なスタッフに指示を下していたが、僕たちに気づくとばたばたと駆け寄ってきた。
「どうも、新垣さん。アルミさんにミルキさんも! ……フカミさんは?」
「ああ、まぁ……ちょっと、仮眠中で」
「ああ、大変ですもんね。寝れる時は寝なくちゃ体がもたないですもんねぇ」
仮眠と言っておけば大抵は納得してくれるので、こういうところでアイドルという立場は便利だ。
「会場の方はどうですか?」
「少々遅れが出ていますけど、問題ありませんよ。開幕までには間に合わせますから」
「頼もしい限りです」
僕は一礼し、アルミとミルキもそれに合わせた。すると責任者は「やめて下さいよ」と困ったように手を振る。
「お互い持ちつ持たれつでやっているんですから、そんな大げさにしてもらわなくても大丈夫なんですよ」
すると、つんつんと背中を突かれた。振り返ればミルキがそわそわと、指をくるくる回している。
「ねぇ、マネージャー。ライブまでまだ時間があるよね?」
「そうですね。その頃にはフカミもすっかり元気になっていることでしょう」
「じゃ、あたしフカミのためにタピオカ買ってきたい」
「あ、私も」
「いいですよ。ただ、ファンの人たちにバレないように気をつけて下さいね」
「はーい!」
「承知しました。では、行ってきますね」
アルミとミルキはテントから退出し、僕は責任者に向き直った。
後は大人の会話である。フカミからすれば退屈極まりないことだろう。
〇
ライブ一時間前。そろそろ起こさないと、準備に間に合わない。
僕はバンの外からフカミの様子をうかがうと、彼女はすっかり起きていてタピオカドリンクをんぐんぐと飲んでいた。アルミ、もしくはミルキが起こしたのかはわからないが、きっとフカミは自分で起きたことだろう。何気にスマホでアラーム設定をしてあることを、僕は知っている。
後部座席のドアを開け、「調子はどうですか?」と聞いた。
「頭痛い。ぐわんぐわんする。耳鳴りする。死にたい」
「薬は飲みましたか?」
「タピオカドリンクと一緒に飲んだ」
「それは、あまり良くないと思います。先生からも薬剤師からも、水を一緒に飲むようにって何度も言われているでしょう。それよりも、そろそろ会場に入らないといけませんよ」
「マネージャー、おんぶ」
「いけません。ここでは人目につきます。申し訳ないのですが、自分で歩いて下さい」
「ぶぅ」
フカミは重たげに体を動かして――僕はそれを支えて――なんとか地面に降り立った。会場に赴く際も「はぁあ」とため息ばかりついている。
「ライトがちかちかする。目に痛い。なんかうるさい。鼓膜敗れそう」
「ライブですからねぇ。でも、いざ始まると平気じゃないですか」
「我慢してるだけ。えらいでしょ」
「はい、とてもえらいです。フカミさんはとても立派ですよ」
「立派、か……」
ぽつりとつぶやく。その言い方に引っかかるものを覚えつつも、僕はこれからのライブのことに頭を切り替えた。
テントに入ると、真っ先にアルミとミルキが出迎えてくれた。二人はすでにステージ衣装に着替えていて、化粧もヘアスタイリングもばっちり決まっている。
「フカミ、大丈夫?」
「タピオカ、しっかり飲んだ?」
「飲んだ。ありがと」
フカミはアルミとミルキをぎゅうっと抱きしめた。「もー、衣装がしわになるよー」とミルキが控えめに抗議するも、フカミは離そうとしない。アルミが困り顔で僕に視線をよこしてくるので、僕はフカミを二人から引き離した。
「さぁ、フカミさん。あなたもセッティングを」
「はーい……」
ライブ開始まであと四十五分。スタイリストさんには負担をかけてしまうが、それでも間に合うことだろう。
僕は色々といじってもらっているフカミの後ろ姿を見ながら、先ほどのフカミの言葉を頭の中で繰り返していた。立派、という言葉にフカミは何かしら思うところがあるらしい。それがなんなのか、僕には見当がつかなかった。
フカミはただでさえ自分と他人とを比べる傾向が強い。薬に頼っている自分を引け目に感じているところがある。一流と呼ばれるアイドルと自分とでは天地ほどの差があると思っている。アイドルという肩書がなかったら、ただの病人として不名誉な認定を受けることも本人は重々承知だ。
もう少し気を遣ってあげないといけないな、と思っていた矢先。
「あの、マネージャー……」
アルミがおずおずと話しかけてくる。その後ろには不安顔のミルキも。
「フカミ、大丈夫ですか?」
僕は一瞬だけ目を丸くし、「大丈夫ですよ」
「フカミのことならお二人も詳しいじゃないですか。今日のレッスンを見た限り、大丈夫ですよ。立派にこなせますって」
「そのことなんだけど」
ミルキが前に出てくる。
「フカミ、なんだかすごく悩んでるみたい」
「というと?」
「タピオカドリンクを届けに行った時にね、フカミはうなされてたの。起こしてあげたらすっごく暗い顔をして、あたしなんかアイドルの器じゃないって言うの。どうしてそう思うのかって聞いたんだけど、フカミは何も教えてくれなかった」
「……そうですか」
「マネージャー、何か知りませんか?」
「いいえ、残念ながら」
「マネージャーでも知らないことあるんだね」
「ええ。悲しいことですが、マネージャーでもできることとできないことがあります。もちろんできる限りフカミやあなたたちのフォローをしていくつもりですが、最終的にはあなた方の意思にかかっていると思っています。僕はあくまでもフォローという役割で、あなた方の背中を押してあげることしかできないんです。手を差し伸べることができても、立ち上がらせるのとは違います」
「でも、フカミはいつもアイドルになんかなりたくなかったって……」
「本当にそうですか?」
ミルキはうつむいた。フカミの言葉が真実なのかどうか、考えあぐねているようだ。
「フカミの言葉を真に受けるな、とまでは言いません。けれど、考えてみて下さい。あれほどアイドルになりたくないと言っている人が、いざステージに立って最高のパフォーマンスができるでしょうか。フカミはやればできる子なんですよ」
「それは、そうかもしれないけど……」
ぽん、とアルミがミルキの肩に手を置いた。
「マネージャーの言う通りよ。私たちはマネージャーとフカミを信じるだけ。フカミがどんなに悩んでいても、その悩みはフカミのものだけ。どれだけ心配しても、私たちで解決することじゃないのよ」
「アルミ。それはちょっと薄情なんじゃない……?」
そうかもね、とアルミは首を振る。
「でも、あなたは自分の悩みを人にどうにかしてもらおうって考えたこと、今までに一度でもある?」
「それは……相談ぐらいはしたことあるかもだけど」
「それでいいの。最終的にどうにかするのはマネージャーの言う通り、本人次第よ」
「そういうことです」
僕は二人に、力強くうなずきかける。
「ひとまずは、今日のライブのことだけ考えましょう」
「はい」
「うん……」
「お待たせ~……」
フカミが覇気のない声と共に僕らに加わった。見た目は華美だが、表情に冴えがない。まぁ、これはいつも通りなのであるが。
「ああ、お母さんのお腹に還りたい」
「そこまで言いますか」
「帰りたい」
「訂正してもダメです。あなたには……いえ、あなたたちにはこれから最高のパフォーマンスをやって頂くのですから」
「そうよ、フカミ」
アルミが背を軽く叩く。
次に、フカミの腕にしゅるりとミルキの腕が回った。
「これでもう逃げられないわよん。さぁ、覚悟を決めましょ、フカミっち」
「ぶぅ」
二人に引っ立てられるように、フカミは渋々といった具合にライブ会場への入り口に赴いた。ここまで来れば大丈夫だ、という自信が僕の中にあった。
果たして――ライブは成功だった。
フカミはいつになくキレのあるパフォーマンスを披露し、声の張りもばっちりだ。アルミやミルキとのコンビネーションも見事なもので、むしろフカミの方が積極的に二人のフォローに回っている感がある。歓声に合わせて振りを変える――つまり、アドリブに近い――のも、フカミならではの魅力だ。
もちろん、アルミもミルキも負けていない。フカミに体力がないことは二人も知っているから、あまり彼女が派手に動き過ぎないようにうまく立ち回っている。二人だけの歌詞パートの時にはフカミに休んでもらっているし、いざフカミが動く段になれば動く範囲を広げすぎないように陣形を変えている。こういった陣形は一朝一夕でできるものではなく、このユニットならではの魅力だった。
大歓声の中、三人はステージから降りてきた。するとフカミはその場でへたり込んだ。そのままぐにゃあと倒れかけるところを、僕が支えた。
「お疲れさまです、フカミさん」
「プリンが食べたい」
「いくらでも食べさせてあげます。とにかく、今日はよく頑張りました。アルミさんとミルキさんも、最高のパフォーマンスでしたよ」
「ありがとうございます」
「あんがと、マネージャー!」
フカミは相変わらず、僕の腕の中でぐんにゃりとしたままだ。「帰る、死にたい、帰る、寝たい……」とうわごとのようにつぶやいている。
僕はとりあえずフカミのことをスタイリストさんに任せ、服を着替えさせてもらった。アルミとミルキはまだまだ余裕たっぷりといった具合で、今日のライブの感想などを交わし合っている。タフだ。
「マネぇ~ジャぁ~」
今にも泣きそうなフカミの声に、振り返る。両手をふるふると伸ばして近づいていく様は迷子になった子供のそれだ。「はいはい」と僕はフカミの頭を撫でた。フカミは僕の腰に手を回し、ぎゅううっと力を込める。見かけによらず力があるので、下手すると背骨がへし折れてしまいかねない。
「抱っこ、抱っこぉ」
「ここではダメです。人目がありますから」
「ぶぅ」
「もう少しの我慢です。今、責任者たちと話をしてきますから」
僕はそう言ってフカミをアルミとミルキに預けた。責任者と会話といっても後始末は彼らの方がやってくれる。むしろ労いの言葉の交換といってもいい。
儀礼的なやり取りを済ませると、僕は三人のところに戻った。フカミはすかさず「抱っこ」と求めてきたが、まだ早い。
「とりあえずバンに乗りましょう。三人とも、今日は疲れたでしょうから」
「そうですね」
「あたし、まだ三曲ぐらいはイケるけどなぁ」
「あなたの体力は買うけど、フカミがついていけないわよ」
「あ、そーか。ごめんね、フカミ」
「別にいーい……」
裏口からバンに乗り込むと、即座にフカミは僕の前に座った。対面で。これでは運転できない。
「フカミさん、もう少しだけ我慢してもらませんか。家に帰ったら好きなだけ抱っこさせてあげますから」
「やだ」
「困りましたね、マネージャー」
「フカミ、こっちに来ない? アルミとあたしで膝枕してあげっから」
ミルキの提案はフカミにとってはそう悪くないものらしく、運転席から後部座席へとのたのたと移動した。ふぅ、助かる。
バンを発進させる。三人をそれぞれの家まで送り届けるのは骨が折れるが、フカミたちに負けてられないという意地もある。
まず、アルミを送り届けると、彼女は家の前で丁重に頭を下げた。
「お疲れさまでした、マネージャー。またよろしくお願い致します」
「はい、よろしくお願いします。フカミのこと、ありがとうございました」
「いいえ、慣れてますから。……フカミのこと、お願いしますね」
「了解しました」
今度はミルキの家へ。はぁー、と名残惜しそうにフカミにほおずりしている。
「フカミっち。またねー。ああ、寂しいよぉん」
「あたしも寂しい」
「お、フカミっち。今日は素直だねぇ。なんかあったん?」
「別に何も」
僕らはミルキに別れを告げ、それからフカミの家に行くことにした。
助手席に座るフカミは、ぼんやりと虚空を見つめている。僕はその様子が気になって、つい尋ねてみた。
「フカミさん」
「なに?」
「アルミさんとミルキさんから聞きました。あたしはアイドルの器なんかじゃないと言っていたそうですね。どうしてそう思うんですか?」
「……大したことじゃないよ」
「心身のことですか? きちんと薬を飲んでご飯を食べて運動すれば……」
「そういう話じゃないの」
フカミはそれ以上答えたくない様子だったので、僕は言及を諦めた。
フカミのマンションに着く。僕は駐車場に入り、運転席を降りてマスコミがいないかどうかを確認した。フカミはまだテレビに出演するほど力のあるアイドルではないが、それでも警戒するに越したことはない。
「マネージャー、抱っこ」
「はいはい、わかりました」
マスコミがいないことを確認してから、僕はフカミを抱きかかえた。
それからエレベーターに乗り、フカミの部屋に。
フカミはとっと地面に降り、靴を脱ぎ、無造作に服を脱いだ。やれやれと思いながらも僕も室内に上がり、フカミが脱ぎ捨てたものを洗濯カゴに入れていく。
不意に、フカミがシースルーに下着のみという姿で立ち尽くしているのに気づいた。
「フカミさん?」
「あたし、アイドルになんか向いてない」
「またそれですか。言ったじゃないですか、フカミさんには……」
きっと振り返る。フカミの目には涙が溜まっていた。
僕が仰天していると、フカミは体ごと僕に突っ込んできた。突然の出来事に受け止めきれず、床から倒れ込んでしまう。
ぼか、ぼか、とフカミにしては力強い殴打がきた。僕はとっさに両腕を交錯して、無慈悲な猛撃に耐える。
「あたし、辛いんだもん! 薬のことやうつだってことや毎週メンタルクリニックに通ってることとか、そういうの隠して!」
「でも、僕とアルミさんとミルキさんは知っているじゃないですか……!」
「それだけじゃない! あたしなんかいなかったら、アルミもミルキももっといい子を見つけてもっといいステージに行けるはずだもん! あたし練習も休みがちだから、ろくに練習できないし!」
「でも、フカミさんもみんなもきちんと最高のパフォーマンスができています! それは自信を持っていいことだと思います!」
ぽかぽか、と次第に殴打が軽くなる。僕は両腕を解き、フカミの小さな拳に胸を殴られるままになっていた。
「あたし、見捨てられるのが怖い」
「それは……そうでしょうね」
「今はよくてもうつがもっとひどくなったら、自分じゃどうにもできないかもしれない。それじゃあアイドルとしてやってけない。そんなんじゃあマネージャーだって、あたしのことを見捨てるかもしれないじゃない」
「僕は、見捨てませんよ」
「うそ」
「うそではありません。アルミさんもミルキさんも、あなたのことを見捨てたりしません」
「なんで?」
「簡単ですよ。あなたのことが好きだからです」
すると、ぽっとフカミの頬に朱が差した。
「あたしに、アイドルとしての価値があるってこと?」
「それもあります。でも、僕たちがフカミさんのことを好きなのはそれだけではありません。一生懸命なあなたが好きだからです」
「あたしが?」
「あなたはたぶん、自分のことが嫌いなんだと思います」
「嫌いよ、大っ嫌い」
「それでもいいと僕は思います。自分のことを肯定できなくても、自信がなくても、あなたを好きだという人はいます」
「なんで?」
「そう言われると返事に困ってしまいます。好きというのは理屈ではありませんから」
「大人の逃げ常套句」
「そうかもしれませんね」
はは、と僕は苦笑した。いつの間にかフカミの手は止まっていた。
こてん、とフカミは僕の胸に頭を置いた。まるで親に甘える子供のように。ぐりぐりと頭を押しつけて、せっかくセットした髪が乱れていく。
僕はやんわりと、フカミの頭に手を置いた。
「あたし、マネージャーのことが大好き」
「はい、僕もです」
「マネージャーだけじゃない、アルミもミルキもみんな大好き」
「はい、知ってます」
「みんながいなかったらあたし、ステージに立てられない」
「はい。それがわかっているあなたは十分、アイドルとしての資格があります」
「アイドルって、資格が必要?」
「それはなんとも。でもアイドルに限らず多くのステージに立つ人は、必ず誰かの助けをもらっているんですよ。それがわかっているのとわかってないのとでは、大きな違いがあります。フカミさんはそれがわかっている。今はそれだけでも十分じゃないですか」
「うつ病でも? メンタルに通ってても?」
「関係ありません。……ああ、ひとつ思い出したことがあるのですが」
「なに?」
「今日の薬、もう飲みましたか?」
あ、と間抜けっぽい声を上げる。僕にすっかり甘えている内に忘れていたらしい。
「ダメですよ、薬はきちんと飲まないと」
「マネージャーに言われなくてもわかってる」
「わかってるなら、薬を飲みましょう。水を用意しますから、薬を撮って来て下さい」
はぁい、と生返事してフカミはようやく僕の上から降りた。のそのそと自室まで向かっている間に、僕はコップに水を注ぐ。
困った子だ、と僕は一人で苦笑した。
それほど間を置かずにフカミが出てくる。手には数錠の薬。僕がコップを差し出すと、フカミは手元の薬をじっと見下ろして――ぐいっと水ごと飲み干した。
「これでいい、マネージャー?」
「はい、完璧です」
「あたし、寝る」
「はい。でも、その前に化粧を落としていきましょうね」
「マネージャーがやって」
「ダメです。そこは自分でやって下さい」
ぶぅ、とフカミはいつものように頬を膨らませた。この瞬間だけは素直にかわいいと思えるのだから、罪な子だ。
フカミはメイクを落としながら、僕が玄関で靴を履き替えるのを見つめていた。
「ねぇ、マネージャー」
「なんでしょうか」
「あたし……ううん、なんでもない」
「そうですか」
「マネージャー」
「なんでしょうか」
「明日もよろしくね」
「はい、こちらこそ。みんなフカミさんのことを待っていますよ」
「うん」
僕はフカミを肩越しに振り返り、軽く手を振った。フカミもそれに応えた。
フカミのマンションから出、バンに乗り込む。僕はシートに体を預け、「ふぅ」と細く長く息を吐いた。
「今日の仕事はこれで終わり、か……」
どことなく名残惜しかった。不思議な感覚だ。けれど明日の朝になればまたフカミを迎えに行けるだろうし、今朝のように病んでいる彼女を見ることもあるだろう。彼女が元気よく「おはよう」と言ってくれたことなど今までに一度もないが、それでもいいと僕は思っていた。
「さて、帰るか」
キーを挿し込み、バンを発進させる。
夜道の運転は好きじゃない。
けれどハンドルを叩く僕の指は、軽やかに跳ねていた。
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