第六章
22にちめ「ラブレターじゃ伝わらないこと」
「無事に相席できたことですし、お待ちかねのドライブデートに移りましょうか。その前に――」
運転席の後ろより赤い気配が忍び寄る。
「た〜っち!」ぎゅむ~っ!!
突然、赤い腕に抱きつかれた。
「ぐえっ!?」
これはヘッドロックか、はたまたスリーパー・ホールドか……って、絞め殺されるっ!?
青ざめた八束はジャージにタップ、タップ、タップ! ギブアップの意思表示を。
しかし月乃は弄んでいるのか、くすくすと緊張感なく笑っている。
「八束さんったら、そんなにはしゃいじゃって……なんでしたら、もう一回やりますか? 鬼ごっこ」
言われてみると……この抱きつき方は絞め技というよりスキンシップっぽい。するとこれは鬼ごっこの醍醐味、ボディタッチ? 袖から香る甘い匂いに、不覚にも頭がくらくらしてきた。
月乃は座席の間からサイドブレーキの上をすり抜けて、助手席に腰を下ろす。
「さあ、ドライブデートの始まりです」
街の明かりが乏しくなってきた……郊外に出かかっているのかな? ここまで闇雲に車を走らせてきたから、道路がどこに繋がっているのか見当がつかない。
「どうでしたか? 私の運転。なかなかのものだったでしょう?」
「……あ、うん。すごかった。あんなスリリングなことができるなんて……赤羽さんならアクションスターにだってなれそうだね」
月明かりが運転席を照らす――って、
「ほ、包帯が真っ赤ですよっ!?」
「……えっ? あ、ちょっと!?」
「もしかして傷口が開いたんじゃ……あ、痛かったですか?」
「いや、痛みならまったく……アドレナリンでも出てるのかな?……あはは」
包帯越しに手の温もりが伝わる。ガラス色の声は不安そうだ。月乃は痩せ我慢を見抜いてしまったのか、手を引っ込めはしたが、眉のハの字が解かれることはない。
「……赤羽さん?」
「はい……その……ですね……」
何か変だ。初デートで浮かれていた先程までとは、まるで様子が違う。血を見た途端おとなしくなるなんて。
「あの……覚えてますか? 今朝、机に手紙が入っていたこと」
「え……まあ、うん……」
「あの手紙の差出人って……実は私だったんです」
「そ、そうだったんだ……?」
「こうしてお会いしたのだって、お話するためでして……すべてはこの一言を聞いていただきたくて……」
そこまで言うと、紅い瞳がまっすぐ八束を見上げた。息を整え、ずっと胸に仕舞い込んでいた言葉を声に載せる。
「八束さんを傷つけてしまって、ごめんなさい」
真っ白の髪が頭を下げた……え、月乃が謝った? 真面目な声色からして、冗談で言っているわけじゃなさそうだ。
「あの時は告白の返答を求めるあまり、衝動的に刃物を突き立ててしまって……でも信じてください。傷つけるつもりはなかったんです。ただ、ああでもしないと、話をうやむやにされちゃいそうで……つい」
月乃は今にも泣きだしそうな顔をする。
「でも……そのせいで八束さんが大怪我しちゃって、気付いた時には意識がなくて。このまま死んじゃうんじゃないかと思うと怖くなって……私、わたし……」
紅い瞳が潤んで見えるのは、気のせいじゃないはずだ。
「顔を上げてよ。そんな謝らなくたって、別に怒ってないからさ。それに悪気があったわけじゃないんでしょ?」
「もちろんです。けど……怒ってないんですか?」
「……う、うん。全然」
「本当の本当にですか?」
「もちろん……」
嘘だ。怒っている……というより『ごめんなさい』一つじゃ許せない蟠りが残っている。
それでも命が惜しいから、月乃好みの八束さんを演じることにする。
車内が静かになった。聞こえるのは後部座席の隙間風と……泣き声?
月明かりを秘めた雫が頬を伝う。涙で濡れた顔はほっとしたのか、穏やかに微笑んでいた。
「よかったです……本当によかった……」
「おいおい。なにも泣くことはないでしょ」
「すみません。でも安心しちゃって……だって不安だったんですもん。退院してからの八束さんって、なんだか私を避けているみたいで。ですから嫌われちゃったんじゃないかって、不安で仕方なかったんです。でも本当はそうじゃなかったんですよね? 最初から許してくださってたんですよね?」
「……あ、うん」
「私は幸せ者ですね……こんなにも想われていたなんて……」
変だな、月乃が恋する乙女に見える。好きな人の言動に一喜一憂する、ただの乙女に。
この気の毒なストーカーは哀れなことに、八束の言葉なら、それが真っ赤な嘘だろうと信じて疑わないようだ。まんまと騙され、安心しきっている。
「私も馬鹿ですね。八束さんを疑っちゃうなんて」
「あはは……」
「ですから八束さんの肩から女物の香水が香ったのも、二の腕に口紅の跡が見えるのも考えすぎなだけ。すべて気のせいなんですよね?」
「……はえっ!?」
歓楽街でOLたちにつけられたやつだ! 確かに二の腕には、甘噛みされた時の口紅がべったりついているだろう。慌てて車載のティッシュで証拠隠滅を図る。
「な、何だろうね? 路地でペンキでもついたかな?」
「さあ? 何でしょうね。ふふふっ」
この意味深長な笑顔、やっぱりバレているんじゃないか?
「あは、あはははは……」
「ふふ、ふふふふふ……」
冷房は切っているはずなのに寒気がする。息苦しい笑い声が車内に木霊する――。
月乃がそうも浮かれたり、妙にそわそわしたりするのは、これが初めてのデートだと思い込んでいるからか。
照らし合わせてみると、八束だって初めてのデートの時は緊張で喋りが噛み噛みだったり、蹴躓いてジュースを零したりと失態の連続で、たどたどしいことになっていただろう。
風に載って、潮のつんとした香りがする……まさか海沿いを走っているのか? だとしても海の近くに高速道路なんて、通っていただろうか。
「デートってこんなにも楽しいものだったんですね。やっぱり普通科に来て正解でした」
「そういえば赤羽さんはどうして普通科に? 確か俺と一緒で、希望して入ったんだよね?」
「私が普通科に来た理由ですか?……どうしてだと思いますか?」
「えっと……もしかして俺が普通科に行くって知ったから?」
「確かに一緒のクラスになりたくて、普通科に入りましたよ?――私の頭で理数科には入れませんが、普通科なら難なく入れますから。ですが下心に動かされたわけじゃありません。これはすべて八束さんのためなんです」
「え……俺のため?」
八束が面食らったのを見て、月乃が笑いだした。いつの間にか運転そっちのけで、まじまじ目を見つめてしまっている。
「びっくりされましたか? でも本当のことです。私が普通科に来たのは『八束さんと同じクラスになって、その傷ついた心を癒やしてあげられたらな』って思ったからなんです」
「……え?」
「その様子だと自覚されてはいなかったのかもしれませんね。ですがここ数ヶ月の八束さんって塞ぎ込んでいるといいますか、しょんぼりしちゃってたんですよ。ずっと影で見守ってきたから分かります。あのことで落ち込んじゃってたんですよね?」
「あのこと……」
これは聞き返さなくても分かる。『あのこと』とは、穂積に振られたことを指しているのだろう。
「八束さんは我慢強い方ですから、どんなに辛くたって涙一つ流されませんでしたけど、だからこそ痛々しく見えまして。そんな心の傷を癒やせるのは、私以外にいません。そう思ったからこそ、普通科に行かれるという噂を耳にした時、すぐに追い掛けようと決心しました」
「そんな……じゃあ赤羽さんは俺を慰めたいから体育科を諦めて、普通科に来たっていうの?」
「好きな人の役に立てるなんて、これほど素敵なことはありませんから」
「でも……そのジャージは?」
「これでしたら、ただ着心地がいいから着ているだけで、別に陸上自体に未練があるわけじゃないですよ?」
「え……そうなの? いつも着てるから、てっきり心残りがあるのかなって……」
「こうして恋人になれたわけですから、むしろ普通科を選んで正解だったと思います」
ひまわりのように晴れやかな笑顔に、後悔なんて微塵も感じられない。月乃は同じクラスになれたことに、心の底から満足しているようだ。
たとえそこが、学校中から煙たがられているクラスだったとしても……まったく、なんて大胆なやつだろう。付き合ってもいない男のためにすべてを擲って、落ちこぼれの一員になろうとするなんて。
それにしても……八束には『我慢強い』という言葉がやけに耳に残った。銭湯で聞いた『自分を騙すのはもうやめにしろ』となぜか重なってしまう。
別に自暴自棄になって落ちぶれたわけじゃないのに、どうしてこうも引っ掛かりを覚えるんだ?
心情を表すように、月に雲が掛かる。車内が暗くなっていく。しかし夜の高速道路って、こんなに暗かっただろうか。
「この道路、やけに暗くない?」
「それはつまり『月がきれいですね』ということですか?」
「いやいや、口説き文句として言ったわけじゃないから」
「そうだったんですか?……ごめんなさい。以前『デート中の男女は愛を囁き合う』と伺ったものですから、てっきり……でしたら私から言わせてください。月がきれいですね」
「そう? 曇ってて何も見えないけど」
「も~っ! そこは『君の方がきれいだよ』って返すところですよ!」
「そうだったんだ?……ごめん。ロマンスにはてんで疎いもんで」
話は結局脱線して、高速道路の謎は迷宮入りしてしまった。あとは月乃の好きな恋愛トークに逆戻りである。
「八束さんはシャイなところがありますもんね――そこがまた可愛らしいんですけど。こういうのはやっぱりシンプルに伝えるべきでしょうか?……大好きですよ」
途端に『きゃっ、言っちゃった』みたいな上目遣いをして、頬を赤らめる。
ここは『君の方がきれいだよ』とキザなセリフを返す必要はないだろう。お礼だけ言っておく。
しかしそうした素っ気ない反応が、かえって不安を煽ってしまったらしい。
「もしかしてシンプルすぎて薄っぺらく聞こえちゃいましたか?……ごめんなさい。八束さんへの想いは一言じゃ言い表せないくらい大きいんですけど、その……私は語彙力が拙いものですから、どうしても想いのすべてを言葉に載せることができません。ですが心の底からお慕えしているのは本当なんですから。想いの強さなら、誰にも負けない自信がありますし……もちろん、あの女とは比べものにならないくらい」
心ない一言が八束の神経を逆撫でする。お前が穂積の何を知ってるんだと言い返したくなる。
あの夜もこれで取り乱して失敗したというのに、なぜかこれだけは黙っていられない。気付いた時には口が開いていた。
「前から言おうと思ってたけど、そうやって穂積を引き合いに出すのはやめてくれないかな? 赤羽さんは『自分は違う』って言いたいんだろうけど、そんな風に比べちゃうと、相手方が悪く聞こえるでしょ? そういうのって、聞いてる側はあまりいい気がしないからさ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
「だってあの女は罵られて当然なことをやってきたじゃないですか。例えばほら、八束さんが理数科に行けなかったのだって、本を正せばあの女のせいだったでしょう?」
「え……?」
八束は言葉を失った。
紅い瞳が、じっと答えを待っている。
「まさか……そんなわけないだろ? 普通科に入ったのは俺の意志で、穂積のせいじゃない」
「嘘ですよ」
「嘘なわけあるか。俺は普通科を変えようと思ったから、理数科に行かなかったんだ」
八束が理数科へ進まなかったのは、落ちこぼれだらけの普通科を変えようと思ったからだ。穂積に行くよう強要されたわけじゃない――むしろ引き留められたくらいだし。
思い返してみると……ほら。嘘じゃない。すべて本当のことだ。
けれど……どうしてこうも念を押すように確認したんだ? それにこの冷や汗。まさかどこか気に病む点があるんじゃないだろうか。
「嘘です。断言しましょう。だって八束さんが身を投じたところで、所詮は個人プレー。それしきのことで普通科を取り巻く環境が変わるはずありません。むしろ八束さんの方が足を引っ張られて、一緒に堕落してしまうんじゃないでしょうか?」
いくら否定しようと、月乃は頑として譲らない。ガラス色の声が、急に大人びて聞こえる。
「得られるメリットがリスクに見合っていないのは私が見ても明らかなんです。それなのに、私よりずっと頭のいい八束さんが、この選択の無謀さに気付かないわけないじゃないですか。ですから『普通科を変えたい』というのは、あくまで自己欺瞞に過ぎない。そうとしか考えられないんですよ」
言われてみると……確かに。こんなハイリスク・ローリターンなことをするより、もっと他に方法があったんじゃないかと思えてしまう。
ひどい胸騒ぎがする。このまま聞かなかったことにして、やり過ごすべきじゃないかと思えてくる。
「欺瞞だったら、俺は何のために普通科に入ったっていうんだ?」
どうして普通科に入ったのか。とうとう八束自身、分からなくなってきた。それでも……なぜだか分からないが、次の言葉は聞いてはいけない気がする。
紅い瞳は穏やかだった。まるで幼い我が子をあやすように。落ち着いた声が言った。
「あの女から逃げるためです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます