21にちめ「相席できますか?」
齢一六の高校生に自動車運転の経験なんてあるはずがない。ましてMTとATの区別もつかない少年が、知識なぞ持ち合わせているもんか。ブレーキを踏みながらでないとエンジンが掛からないことをさっき知ったくらいだし、シフトレバーの『P』だの『D』だの『N』だのの意味はいまだ解読できていない。
だが……白銀の乗用車がネオンカラーの道を走る。あれこれ手探りして、こうして走らすことができている。
八束は神妙な面持ちでハンドルを握っている。だって運転なんてバナナや亀の甲羅を道にばらまく某レースゲームでしかやったことがないんだから。間違ってもキノコは取っちゃいけない。
教頭から脅し取った……もといお貸しいただいた車は新車なのか、インテリアのどれもが真新しい感じがして、車内にはレザーの臭いが充満している。
車載のオーディオから流れるのは流行のテクノポップだ。趣味じゃないので、音量をゼロまで落とした。
歓楽街が終われば景色は色を失う。
信号機は黄色が点滅している。
八束は無免許ながら、こうして頼もしい足を手にできた。これなら月乃の猛追だって難なくかわせるだろう。
問題はどこへ行くか。
八束宅はすでに月乃の手の内だし、だからって田中家に戻っても振り出しに戻るだけな気がする。
やっぱりある程度距離を稼いでから乗り捨てるのが無難か――警察の目も怖いし、事故を起こしたら一巻の終わりだし。緊張でハンドルが湿ってきた。
街灯の乏しい道路を進む。人気はない。歓楽街からだいぶ離れたことだし、そろそろ車とおさらばする頃合いか。駐車するのに手頃な場所を探すべく、速度計の数字を徐々に小さくしていく。
その時だった。
ふとバックミラーに目が行った。
そこに映るのは、緊張でガチガチに強張った八束の顔と、がらんとした道路。それだけならよかったのだが……砂金のような光が一粒、バックミラーの真ん中で異質な輝きを放っているだろう。
周囲の闇を巻き込みながら膨張していくそれは、死神のように背中に貼り付いて離れなかったあの日の紅とどこか似ている。
直感的に悟った。「まずいな……」
月乃も乗り物を手に入れたんだ。
もう止まるわけにはいかない。アクセルを踏み込んだ。エアコンは効きすぎているくらいなのに、冷たい汗が噴き出して仕方ない。速度計が八〇を回り、渋みのあったエンジン音が次第に声高になっていく。
無鉄砲な急加速を見てか、後ろの光も速度を上げていった。追い掛けてきたということは、赤羽月乃で間違いないようだ。
過ぎゆく街灯に照らされ、一瞬だけシルエットが確認できた。月乃は大型バイクに乗っている。
前を走る八束の車。それを追う月乃のバイク。命懸けのカーチェイスが始まった。寝静まった夜の街を、どちらも猛スピードで駆け抜ける。
ところが早くも緊急事態発生。前方から赤のテールランプが迫る。信号待ちの車だ。
「くそっ、こんな時に――」
ここで止まっては捕まってしまう。かといって対向車線より赤信号に突っ込むのも怖くてできない――そもそも技量が足りてない。残念ながら信号は変わったばかりだ。
不意に高速道路の入り口と思しきスロープが目に留まった。
「あ、これだ!」
渡りに船だと飛びつくようにハンドルを切った。
スロープに侵入するのと同時、プラスチックの砕ける音が鳴った。虎柄のポールが薙ぎ倒されるのが見えた気がする。
けれど気にしている余裕はない。カーチェイスは舞台を高速道路へ移す――。
白銀の車が深夜の高速道路をひた走る。
この時間帯は高速道路だって閑古鳥が鳴いているようだ。上ってきてから一度も車を見ていない。
ここで携帯電話が鳴った。
「なに考えてるんだよ……」
予想通り月乃からだ。
八束は汗ばむ手で電話を取った。片手運転をする余裕はないので、スピーカーモードにして助手席へ放った。携帯電話はすぐに喋りだした。
『もしもし八束さん? いま八束さんのすぐ後ろにいるんですけど――』
ガラス色の声がくぐもっている。ヘルメットの内側に通話機能付きのイヤホンでも通してあるのだろうか。
電話のためか、バイクは車のすぐ後ろについたまま。それ以上距離を詰めてこない。
『鬼ごっこ、そろそろ終わらせてもいいですか?』
「え……終わらせる?」
『思ったんです。せっかくこうして夜の街を走ってるんですから、この際ご一緒して、ドライブデートをするのもありかな〜って……どうでしょう? 夜のドライブだなんて、素敵なアイデアだと思いませんか?』
こんな暗くて狭い空間でストーカーと二人きりだなんて、しかもハンドルとペダルに両手両足を縛られている状態でなんて、猛獣だらけの檻の中で磔にされるようなものだ。
いやはや……素敵じゃないよ全然!
絶対に死ぬ。ギリシャ神話でいうところのプロメテウスみたいなことになる。有無を言わせず内臓を啄まれる。
八束は思いっきりアクセルを踏み込んだ。白銀の車が脱兎のごとく走りだす。
しかし……よくよく考えてみると、なにも焦る必要はないんじゃないか?
だって車を走らせている限り、月乃はどう足掻いても乗り込めやしないんだから……多分。
『では後ほど。すぐそちらに向かいますからね』
助手席の携帯電話が沈黙する。電話が切られたようだ。
八束はサイドミラーで後ろの様子を確認してみた。宣言通り距離を詰めてきているのか、ヘッドライトが大きくなっていくじゃないか。
「マジかよ……」
速度計の数字が頭打ちになっているのが、もどかしくてたまらない。結局なす術なくバイクに並ばれてしまった。
「――危なっ!」
しかも距離が異様に近い。
車体同士が今にも触れ合いそうな密着具合に驚いて、とっさにハンドルを右に切る。車が中央分離帯すれすれを走る。
それでも命知らずのバイクは右へ右へと、じりじり詰め寄ってくる。スピードの上げ下げで揺さぶりを掛けてみたが効果なし。一向に離れてくれない。
ここで後部座席の窓がノックされる。
「え、嘘……」
呆気にとられる八束に構わず、赤いジャージのライダーが後部座席のドアに手を伸ばして……って、
「ヤバっ!」
ただちに全ロック。タッチの差でドアを開けようとする音が聞えた。月乃は本気でこちらに乗り移ろうとしていたのだ。
速度計の指し示す数字は一二〇強。こんな猛スピードの中で飛び乗ろうなんて、正気の沙汰じゃない。下手したら死ぬぞ。
狂ってる……改めてそう思った。
そこまでしてドライブデートに漕ぎ着けたい執念と、常軌を逸した思考回路には、体中の血液が凍るような感覚を覚えずにはいられない。
エアコンの吐く冷気が今は耐えられない。震える手で暖房に切り替えた。
それでも愁眉を開いたのも事実。鍵を掛けたんだから入ってはこられまい。
ここでドアが開けられないと分かったのか、後部座席の騒々しい音がやんだ。バイクがおとなしく隣の車線へ離れていく。
諦めてくれたのか?……いや違う。
なおも並走するバイクの上で、月乃がジャージの襟に手を突っ込んで、何やら背中をまさぐっているじゃないか。恐らく打開策を思いついたのだろう。
やがて手が止まった。目当ての物を見つけたようだ。片手運転のまま、うなじの方から、にゅーっと棒状の物が正体を現す。
月乃の左手に握られていたのは、なんと全長一メートルはあろう鋼鉄のバールだった。
「いやっ……どこから出した!?」
某国民的猫型ロボットもびっくりな四次元収納テクニックを披露した月乃は、バールを持ったままハンドルを握り直し、またバイクを寄せてきた。
何をする気なのか、すぐに分かった。誰だって分かるはずだ。わざわざバールを持ち出してまですることなんて一つしかない。
ドアを壊す気だ。締め出されたからって、力業でドアをこじ開けようとしている。
「嘘だろオイ……――っ!!」
ガツンっ!! 車に衝撃が走った。
「本当にやりやがった……」
月乃はバールを振りかぶっては、躊躇なくドアへ叩きつける。金属同士のぶつかる音が車内に響き、窓の外では火花が散っている。このままだと中央分離帯まで押し込まれて、車諸共スクラップにされかねない。
こうなったら助かる方法は一つだ。つまりハンドルを左に切って、車ごとバイクにぶつかってしまえばいい。
けれどそんなことをすれば、向こうだってタダじゃ済まない。最低大怪我、下手すると死んでしまうだろう。
こっちが死ぬか、向こうが死ぬか。
「…………」
二つに一つ。
息が止まった。脈が速い。極度の緊張で視界の遠近感がおかしくなってきた。
殺られる前に殺る。これは殺人じゃない。れっきとした正当防衛だ。このままハンドルをちょっと左に回すだけでいい。そうすれば片がつく。
唾を飲み、目を瞑る。そして……左手を落とした。
「…………ハァ、ハァ、ハァ、ハァ――」
肺に酸素が流れ込む。やってしまった。
八束はただ前だけを見続けた。怖くてバックミラーを見られなかった。
自分は悪いことなんてしていない。この選択は間違っていなかったはずだ。だが、その英断が自分の首を絞めることになるのは明白だった。
八束は重荷を背負ったことに対して一つ、溜息をついた。
「やっぱり……できるわけないよな」
膝に落ちた左手が力なく空気を掴んだ。
数秒後、ドアをこじ開けた月乃がバイクを乗り捨て、後部座席に飛び込んできた。それはそれはハリウッドも顔負けのダイナミックなアクションだっただろう。
主人を失ったバイクがネズミ花火のように火花を散らしながら、闇の中へと吸い込まれていった。
後部座席のヘルメット女が起き上がり、ぐにゃぐにゃに拉げたドアを閉めた。バールの爪痕から冷たい隙間風が車内に吹き込む。
「…………」
あまりの大迫力にひどく驚いたからか、身を案じてしまったからか、ともかく八束は運転そっちのけで後部座席を振り返っていた。
真珠のようにすべすべした手が不恰好なヘルメットを剥ぎ取る。中から真っ白な長い髪が顔を出す。八束を見つめる瞳は微笑んでいた。
ガラス色の声が言った。
「来ちゃいました」
それはまるで押掛女房みたいなセリフ。
「……な」
「な……?」
「な、なんでそんなことができるんだっ!? 下手すりゃ死んでたぞ!?」
八束はすっかり我を忘れていた。
月乃は満面の笑みを見せた。
「愛の力は無限大なんです!」
「意味分かんないからぁっ!!」
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