19にちめ「鬼ごっこ再び」

 下が花壇で助かった。

 八束が着地したのは大家さん自慢の花壇。よく耕された土は柔らかく、落下の衝撃で足をくじくなんて災難は免れた――代わりに花壇のお花が下敷きになったが。

 息を整えたいのは山々だが、そんな時間がないのは明々白々。土を払うのもほどほどに走りだす。


 やがてアパートから凄まじい音が聞こえた。

「始まっちゃったか……」

 どうやら戦いが始まったらしい。この街最強の男といえど、田中の安否が心配になってきた。


 八束は深夜の住宅街を駆ける。さあ、どこへ逃げるべきか。

 バスやタクシー、電車といった乗り物は使えまい。終電はとっくに過ぎているし、乗ろうにも財布を忘れてしまったし。

 警察に相手にされなかった昨日を踏まえると、交番に駆け込むのも得策とは思えない。まして喧嘩に慣れていない別の友人宅に匿ってもらうのはナンセンスだ。


 となると……どこへ逃げればいい? どこまで行けばストーカーの魔の手から逃れられる? そもそも高校陸上界の至宝を相手に、手負いのもやしっ子が逃げ切れるだろうか。

「とにかく走るっきゃないか」

 赤の横断歩道を突っ切った。この先は駅前商店街だ。道幅が次第に広くなっていく。

 そんな時だった。背後で不意に、何か白い影が揺れた気がした。


「まさか――」


 月乃らしき気配を背中で感じたが、振り返ることはできなかった。まさか田中がやられたのか? 考えている暇はない。脇目も振らず無人の駅前を駆け抜ける。

 ところが、どんなに必死に走っても、足音がじりじり近づいてくるから恐ろしい。すぐ後ろまで迫ってきているんじゃないかと思えてくる。

 このままだと追いつかれるのも時間の問題か……恐怖に喘いでいると、


「――わぇっ!?」

 突然、大きな手に引っ張られた。


 理解の追いつかないまま、駅の男子トイレに放り込まれた。どぎつい臭いに掻き消されたが、一瞬だけ柑橘系の制汗剤の香りがした。

 トイレの出入口には、やけにすらっとした男の背中があるだろう……はて、このモデル体型の後ろ姿に親しみを覚えるのはなぜ?


 走ってきた方から、固く軽やかな足音がやってきた……月乃だ!

 とっさに洗面台の下に逃げ込む。避難訓練でも落第点な隠れ方だが、今はこれが精一杯だ。行き場を失った熱が肌を赤く染め上げる。


「よ、つくのん。そうも慌ててどうした?」


 赤髪の背中の発した『つくのん』は、赤羽月乃のニックネームだ。すると、すぐそこに月乃がいるのだろう。

 ここからだと壁が邪魔で、姿は確認できないが、それは向こうも同じこと。まだ気付かれてはいないはずだ。


「もしかしてヤッツーを探してる?」

「えっと……はい」

「それなら向こうで見たぞ。なんかすっごい慌ててるみたいだったけど」

「それは変ですね? この辺りから微かに八束さんの匂いがするんですけど?」

「おいおい、匂いって……とにかく追ってるなら、急いだ方がいいぞ。あいつは見た目もやしのくせに、足は速いから」

「そうですね……分かりました。ありがとうございます」

「おう、気にすんな……って速いなぁ。もう行っちゃったよ……」


 赤髪の男があんぐりするくらいの俊敏さで、足音が遠のいていった……助かった。これでしばらくは顔を合わせずに済む。

 自然と肩の余計な力が抜けていった。鼻を刺すような臭いがしても、今だけは胸いっぱい空気を吸い込める。


 出入口の長身が振り返る。

「さてと……これでよかったのか?」

「うん……助かったよ……」

 八束は洗面台に手を掛け、立ち上がった。顔を上げると、そこには伊藤凜の子供っぽい笑顔があった。




 ガラス越しに見る道路は、深夜の駅前らしくがらんとしている。

 今いるファストフード店は、利用客の大半が駅前の待ち合わせ場所として使っているせいか、従業員より客が少ない印象を受けるだろう。店内を見回しても、いるのは机に参考書を広げた大学生くらいだ。

 八束と凜はガラス張りのカウンター席に腰掛けている……のだが、


「どうした? そんなそわそわしちゃって」

「なんだか落ち着かなくて……あのさ、やっぱり席を変えない?」

「なんで?」

「だってここ、外から丸見えだぞ?」


 月乃が嘘に気付くのも時間の問題だ。いつ戻ってきたっておかしくない。それなのに、なにもこんな人目のつく席に座らなくたっていいじゃないか。言われるがまま座ったものの、八束は気が気じゃなかった。


 そうした不安と裏腹に、凜は「ちっちっち――」とポテトをメトロノームみたく左右に振る。

「何も分かっちゃいませぬな〜」

 今度は指示棒みたくビシビシ振りながら、

「いいか? 俺はなにも考えなしに席を選んだんじゃ~ない。ちゃんと見つかった時のことまで考えてのここなんだ」


「……と言いますと?」

「ここなら……ほら、外の様子が逐一窺えるだろ?」

「でも向こうからだって丸見えじゃないか」

「だとしても窓から離れた席でだべってるよりはずっといい。いざ店に入ってこられると袋の鼠だからな。その点この席なら見通しが効くし、バレてもそこの『スタッフオンリー』から逃げられるだろ」

「……なるほど」


 見つかりにくい場所より、逃げやすい場所か。これはこれで理に適っている気がする。

『立ち入り禁止』に飛び込むなんて、店からしてみれば迷惑な話だろうが、店内で血生臭いケチャップを撒き散らされるよりはましだろう。


「どうよ、この完璧な位置取り……見直したろ?」

「凜っていつも馬鹿やってる割に、しっかり計算してるよな」

「あたぼうよ。これくらい、お茶の子さいさいですわ」


 笑う凜はコーラで口直しする。


「まあ……俺も何だかんだで女の子から逃げることが多いもんなぁ。メンヘラナースのゆみちゃんと付き合ってた時は特に……あの時はしんどかった」

「……メンヘラナース?」

「話してなかったっけ?」

「初耳……っていうか、メンヘラナースとか闇が深すぎでしょ」


 月乃にナース服を着せた感じか?

 うん……怪しいお注射とかしそう。


「結局二週間そこらで別れたんだけど、その後が大変で……それを考えると、いま付き合ってるさなえちゃんは天使だわ」


 八束は紙袋の端をちぎり、ストローを抜き取った。息もだいぶ落ち着いただろう。奢ってもらった烏龍茶に口をつける。

 凜ががっつりめな夜食を食べながら言う。何気ない感じで、


「それで、つくのんに何をしたんだ? 見た感じ、ご立腹だったぞ――つまりはごりっぷくのんよ」

「いや、何も――ごりっぷくのんって何だ?」

「あの様子だと……さては浮気したろ?」

「一緒にするな……まあ何もしなかったのが原因っていうか、正直なところ、なんで追い掛けてくるのか、俺だってよく分かってないんだ」

「ふ~ん。心当たりがないねぇ……あ」


 ここで凜が何か思い出したらしい。ハンバーガーの包み紙を開いたまま、


「そういや、ヤッツーがパシられてる時だったか、玲奈のやつと何か話してたっけな」

「なんて言ってた?」

「えーっと……確か『話したいことがある』とか『そのためにラブレターを書いた』とか」

「え……?」

「初耳ですか……もっと詳しく知りたいなら、直接聞いてみりゃいいじゃん。どうせ電話番号とか交換してるんだろ?」

「まあ持ってはいるけどさ――というより勝手に電話帳に登録されてたんだけどさ」


 経緯はどうであれ、月乃の番号なら手元にあるから、電話を掛けようと思えば掛けられる。

 八束は携帯電話を見た。

 それでも……気が引けるんだよなぁ。なにしろ相手はストーカーだし。月乃のことを考えるだけで憂鬱になってしまう。


「俺はこの先どうすればいいと思う?」

「それ、俺に聞く?」


 美形の横顔が八束を振り向いた。そこに普段のおちゃらけた色はない。


「俺はお前らの間に何があったのかは知らんが……もっとつくのんを信じてやったらいい話じゃないの?」

 八束を諭すようで、それなのにどこか羨ましそうな声が言う。

「俺はこれまでいろんな女の子を見てきたけど、つくのんほど『好き』って気持ちがまっすぐな子はいなかったぜ? 伝え方に多少問題があったって、あそこまで誰かを想えるなんて正直すごいと思うし、そんな風に慕われるなんて、どう考えたって幸せ者だろ」

 烏龍茶のカップが中身の水位に合わせて小粒の汗をかく。

「だからってわけじゃないが、ヤッツーも逃げてばっかりじゃなくて、ちゃんと真正面から向き合ってやるべきじゃないの?」


 ここで電話が鳴った。月乃からだ。

「ほれ、お姫様からお電話だ」

「うるせー。茶化すな」

 凜に背を向け、電話を取った。


『もしも~し。いまお電話しても大丈夫でしたか~? 実はご提案したいことがありまして』

 喜々とした声が耳をつんざく。

『かくれんぼもいいですけど、そろそろ鬼ごっこに戻りませんか? その方がもっとはらはらして楽しいと思うんですよ~』


 表情なんて伝わるわけないのに、八束は苦笑してしまう。

「え、なに? かくれんぼ? 鬼ごっこ? え~っとぉ……何のことかな?」

 だってまさか月乃の口から『かくれんぼ』だとか『鬼ごっこ』だとか、懐かしい遊びが出てくるなんて思いもしなかったから。


『八束さんが誘ってくださった遊びのことですよ~。さっきまでが鬼ごっこ、今がかくれんぼですよね?』


 やっぱりよく分からなかった。けれど……まさか逃げる背中を見て、鬼ごっこを始めたんだと勘違いをしたとか?

 あり得る。

 心臓の悲鳴を恋のドキドキだと聞き間違えて、勝手に相思相愛だとか思い込んでしまった彼女なら、とりわけ。

 それなら……八束は口を開いた。


「えっと……赤羽さん? その遊びのことだけど、この辺でやめにしない?……ほら、最近はなにかと物騒なご時世でしょ。こんな遅くに女の子が出歩いてると危ないし」


 向こうが遊びだと思っているのなら、終わらせるのも簡単なはず。そう考えた八束は、終わる流れに話を持っていった。


『そうですよね』

 話に乗ってくれた。これなら――、

『でしたらご希望通り、今すぐかくれんぼを終わらせて』

 うんうん――、

『鬼ごっこを始めましょう』


 え……どうしてそうなるの?

 電話に食らいつく。


「ちょっと……赤羽さん? 話が噛み合ってないんだけど、今の話を聞いてたかな?」

『そう焦らなくても大丈夫ですよ。すぐに見つけてあげますからね』

「いやいや、俺は別に鬼ごっこがしたいって催促してるんじゃなくて、ただ追い掛けるのをやめてほしくて……聞いてる?」


 その時だった。

 八束の顔にうっすらと影が差す。何者かの気配を目の前に感じる。

 さらに、こんこん……頭上でガラスを叩く音がした。


 誰かが呼んでいる。

「…………」

 まさか……恐る恐る顔を上げた。


「『』」


 八束は椅子から転げ落ちた。

「――うわぁぁぁぁっ!?」

 店中の視線が『何事だ!?』と集まる。

 凜も「あらま……」と目を見開く。


 青白い人影の中、紅い目玉が二つ、こちらを見つめている。しかも不気味な微笑みを浮かべて。


 もし……このまま逃げずに、月乃と向き合ったなら。

 不意に例の助言が脳裏をよぎる。

 このまま逃げずに……やっぱり無理!


「だって怖いもん!」


 今すぐここから逃げ出さなきゃ! 我に返るや、ばたつくように起き上がり、一目散に逃げ出した。凜のことを気にしている余裕はなかった。

『立ち入り禁止』のドアをこじ開け、仰天する目玉を避け、駆け抜ける。八束はすっかり顔を青くして、裏口から飛び出した――って、

「また路地裏かよ!?」

 裏口は薄汚れた路地裏に繋がっていた。

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