第五章

18にちめ「午前零時の来訪者」

 携帯電話曰く、ただいま午前零時九分。日付は四月一〇日を跨いで一一日。田中家では寝る支度をして、ちょうど明かりを消したところだ。

 八束は真っ暗な部屋の中、座布団で即席の枕を拵えた。田中に手渡されたタオルケットを広げる。

 ただでさえ狭い六畳間だが、パーティションとして真ん中にちゃぶ台を立てている――男の寝顔なんてお互い見たくないから。


「赤羽は結局、何もしてこなかったな。俺は『どうして来なかった?』って包丁を振り回すようなのを期待してたんだが」

「そんな物騒な展開を期待するな。他人事だと思って……」


 肩が痛くなって寝返りを打つ。普段からベッドに甘やかされていると、畳が固く思えてしまう。


「明日はどうしようか? 約束をすっぽかした手前、会うのが気まずいんだよなぁ……」

「どうせ明日は金曜だ。いっそ休んじまえよ。そうすりゃ金土日と三日は間に挟めるんだし、ほとぼりも冷めるだろ」

「う~ん、それもありかなぁ……」


 そういえば……ちゃぶ台に目を向ける。

 銭湯で田中が言った『自分を騙すのは、もうやめにしろ』の意味は分からず仕舞いだった。あれは何のことを言っていたんだ?

 田中は眠ったのか、反応はない。

 明日また考えればいいか……八束も目蓋を閉じようとした。


 その時だった。

「「――っ!?」」電話が鳴った。


 聞き慣れた着信音。八束の携帯電話だ。

 背中の液晶画面に相手の名前が出る。こんな夜更けに電話を寄越す人間なんて……まさか。

 いつの間に電話帳に登録したのか、画面にはなんと、あのストーカーの名前があった。


「嘘だろっ!? そんな……っ」


 震える手で携帯電話を開く。取るべきか、放っておくべきか。田中が『取れよ』と目配せする。

 八束はぎこちなく頷く。ボタンを押し間違えそうなくらい、わなわなした指で電話を取る。


「…………もしもし?」

『どうして来てくださらなかったんですか』

「――っ!!」


 寒気がした。電話越しだからか、向こうの声に表情がない。氷のように冷気を帯びている。


「えっと……ごめん。俺もいろいろあって、急がしくてさ」

『……でしたら、今から会ってくださいませんか?』

「えっ、今は……ちょっと無理かな。夜も遅いし、それに勉強中で手が離せないんだ」

『それにしては変ですね。だって?』

「……へ?」


 月乃はどこから電話を掛けているんだ? もちろん右を向いても左を向いても六畳間。月乃なんているはずがない。

 耳を澄ますと、ガラス色の声以外にも風の音や足音が聞き取れるだろう。すると外にいるのか?……だとしても、どこに?


『では、これからお伺いしますね』

「今から!? ま、待って……」


 電話を切られた……どうしよう。月乃がやってくる。

 携帯電話が畳に落ちる。八束は途方に暮れて、田中を見た。


「その様子だと赤羽が来るんだな」

「うん……」

「なーにビビってやがる。『来る』っつっても、どうせ鮎沢んちだろ」

「……あ、確かに」


 月乃は八束が間借り暮らしをしているなんて知らないし、場所だって分かりっこない。おっしゃる通りだ。

 月乃はとんだ見当違いの場所に押し入ろうとしているんじゃなかろうか。あたふたしていたことが途端に馬鹿らしく思えてきた。

 八束は携帯電話を拾って、胸を撫で下ろそうとした。ところが、その時だった。


 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ――。

「「――っ!!」」

 錆び付いた金属製の足音が聞こえる。

 これは紛れもない、田中家へと続く外付け階段を上る足音だ。


 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ――。

 足音が階段を上りきった。廊下を歩きだす。

 かつん、かつん、かつん――。

 固い足音はどこぞのブーツを連想させる。


「田中、これって――」

「しっ……」


 田中が柄にもなく『黙れ』と。人差し指を唇に当てた。

 ただ事じゃない。六畳間から音が消えた。


 かつん、かつん、かつん――。

「「……………………」」


 ドアの前で、足音が、止まった。

 そして……ぴーんぽーん。

 インターホンが鳴る。

 しかも……ぴーんぽーん。

 インターホンは……ぴーんぽーん。

 何度も何度も……ぴーんぽーん。

 何度だって……ぴーんぽーん。

 鳴り続ける……ぴーんぽーん。


 冗長な音が六畳間に鳴り響く。こんな夜更けに普通じゃない。とうとう痺れを切らしたのだろう、隣の住人が壁を叩きだした。

 あのドアの向こうに誰がいるのか、大体の目星はついている……赤羽月乃だ。居場所を嗅ぎつけて、やってきたんだ。


『俺が出る。鮎沢は窓から逃げろ』


 田中は口の動きで指示すると、玄関に忍び寄って、サンダルを拾った。

 八束は携帯電話をポケットに仕舞い、言われた通り、窓枠に足を掛けた。ここは二階だが、今は非常時だ。田中からサンダルを投げ渡された。

『後は任せた』

 八束は急いでそれを履き、窓から飛び降りた。




 インターホンがせわしく鳴り続ける。けれどドアの向こうからは物音一つ聞こえない。

「留守のはずないんですけど……?」

 青白い顔が首をかしげた。ガラス玉のようなあかい瞳に表情はない。

 ここでジャージのポケットからスマホが取り出された。光る画面には矢印と赤い点とが、地図らしき画像の真ん中で重なっているだろう。


「やっぱり、ここで間違いないですよね?」


 ぎぎぎ……少女は壊れたマリオネットのように首をかしげる。背後の月光に照らされ、真っ白な髪が七色に輝く。スマホを仕舞い、ドアをノックする。


「やぁ~つぅ~かぁ~さんっ! 遊び~ましょぉ~っ!」

 ノックを繰り返すも応答なし。

「やぁ~つぅ~かぁ~さんっ! やぁ~つぅ~かぁ~さんっ!」

 少女はノックを繰り返す。

「やぁ~つぅ~かぁ~さんっ! やぁ~つぅ~かぁ~さんっ!」

 それでもやはり応答はない。

 野良犬の遠吠えが聞こえるだけだ。


「……変ですね?」

 錆びだらけの廊下が静かになる。

「やむを得ません……」

 ガラス色の声が言う。

「……ドア、開けちゃいましょうか」


 二秒後、ドアが蹴破られる。

 少女は右足を下ろして――、

「お邪魔しま……?」

 ガラス色の声が止まった。

 玄関前で何者かが仁王立ちしている。


「……っぜぇァ」


 獣のような唸り声。少女を出迎えているつもりなのか。

 それはドアを蹴破られても、青白い顔を見ても、微動だにしない。風に煽られた黒の髪が揺れている。


「さっきから聞いてりゃアよォ、『八束ァ八束ァ八束ァ八束ァ』だァ? あいにくとここは俺んちなんだわなァ……」


 少女は無言のまま。人形のように気味の悪い無表情を崩すことはない。ジャージの裏からエアガンを取り出した。

 躊躇なく眉間に銃口を向けて、引き金を引いた。プラスチック製だとは思えない銃声が鳴り響く。

 沈黙が訪れた……かと思いきや、

「…………?」

 何者かは……三白眼の男は立ったまま。痛がる素振りも見せなければ、仁王立ちも崩さない。


 男の顔に不適な笑みが浮かぶ。

「ッてぇなァ……」

 固めた右拳を、小指から開く。

 零れたのは……BB弾。

 なんと男はあの至近距離で射撃されたBB弾を、素手で掴み取ってみせたのだ。


 少女の目の色が変わった。

「……――ッ!!」

 瞳の紅にどす黒い闇が掛かる。


 エアガンを捨て、軍用ブーツが家の中に飛び込む。三白眼の男は『待ってた』と言わんばかりに、半身になって迎え撃つ。

 アパートの玄関にて。白と黒とが激突する。

 先制攻撃を仕掛けたのは少女だった。腕を鞭のようにしならせる。その動きは殴る、叩くといった言葉ではとても言い表せない。

 男の目の色も変わる。「――チッ」

 少し焦ったような顔をして、左肩を盾に。軽快な打撃音。体が右に流れる。音の割に、衝撃が凄まじかったようだ。

 優勢の少女はすかさず、がら空きの左脇腹を目掛けて回り込む。手には、いつの間にかバタフライナイフが握られている。


「マジかよ?」


 見開かれた三白眼がナイフの軌道を辿る。その瞳に、もはや余裕は感じられない。

 おもちゃのような刃物が脇腹を狙って、躊躇なく飛び込んでくる。それに合わせて男の顔色も青ざめて……歪む口元が一転、綻んだ。

 右足を踏み込み、強引に体勢を立て直した男は、上半身を回転。まるで噛み合わされた歯車のように、少女の突進を見事に受け流してみせた。

 よほど体重を載せていたのだろう。少女は勢い余って、六畳間に飛び込んでしまう。靴底が畳をズタズタに切り裂く。


 たたらを踏む少女と、それを悠々と見下ろす男。一瞬にして両者の立場が入れ替わった。

「面白ェ……」

 男は汗で湿った前髪を掻き上げた。狂気じみた笑みを浮かべ、台所の包丁類を少女へ投げつける。

 対して少女の表情は変わらない。大小様々な刃物が飛んでくるや、ちゃぶ台を盾とした。


「おいおい……さっきまでの勢いはどォした? まさかもォお終いってわけじゃアねえよなァ?」

 悪魔のような笑い声が言う。

「そっちが来ねェっつーんならよォ、こっちから行くっきゃねェよなァ!」

 血に飢えた鬼の口が舌舐めずりして、裸足が地面を蹴りつける……その前に、


「――こらああああああああああっ! 田中ああああああああああっ!」


 盛大な女の怒鳴り声とともに、男の後頭部を目掛けトイレサンダルが投げつけられた。

「痛ってェぁ! なにしやがんだ、このアマァァァァ…………あ?」

 すぐに振り返る男だったが……その姿を見るや雄叫びさえ忘れ、口をあんぐりさせる。

 壊れた玄関口で腕を組み、仁王立ちするサイドテールが一人。彼女は男もよく知る人物だ。


 男の顔が「うげぇっ……」と、たちどころに青ざめる。殺気だって引っ込んでしまう。

 冷や汗だらだらの男に、サイドテールの少女がずかずか詰め寄る。ものすごい剣幕で。


「誰が『アマ』ですって?」

「それは言葉の綾っつーか……」

「言い訳無用! それより何これ? うるさいからって来てみれば……あ~っ、畳までボロボロ!」

「ボロいのは元からだろ。つーか今はてめぇなんぞに関わってる暇はねぇんだ。とっとと帰りやがれブス――」


 べちーんっ!! トイレサンダルのビンタがお見舞いされる。さらに、


「あんたは――」

 ビンタ。

「いったい――」

 ビンタ。

「何様の――」

 ビンタ。

「つもり――」

 ビンタ。

「なのかしら?」

 もう一つおまけにビンタビンタ。

 計7コンボ。さすがの男もぶち切れる。


「痛ぇよ馬鹿! どんだけ殴りゃ気が済むんだ!」

「うっさいわね! 田中のくせに口答えしてんじゃないの!……とにかく今日は、み~っちりしごいてあげるから、覚悟なさい」

「痛ででででっ! だから人の話を聞けって!――耳引っ張るんじゃねぇ!」

「はいはい。詳しい話はうちでじ〜っくり聞いてあげるから」

「それじゃあ遅ぇんだよドブスが!」


 べちーんっ!! 本日一のサンダルビンタが炸裂した。

 そんなこんなで三白眼の男は、ずるずると連行されてしまった――。


 あまりにも呆気ない幕切れ。六畳間は急に静まり返った。やがて、ちゃぶ台の影から白い頭が顔を出した。

 少女が立ち上がった。手に持っていたボウイナイフが日の目を見ることはなく、ジャージの裏に仕舞われる。


「さてと……八束さ~んっ!」


 誰か探しているのだろうか。少女は誰かの名前を連呼しながら、押し入れやトイレ、換気扇の内側、鍋の中等々。部屋中を捜索する。

 けれども、いくら探しても人っ子一人見つからない。夜風に載ってやってくる野良犬の遠吠えが、やたら寂しく聞こえる。


「どこへ行っちゃったんでしょう?」


 人形のような顔が、ぎぎぎ……不思議そうに首をかしげた。

 少女はジャージのポケットからスマホを取り出した。光る画面には例の地図が。だが先程と違うのは、赤い点が矢印から逃げるように、みるみる東へ離れていくのだ。


「逃げちゃったんですか」


 声はどこか不機嫌そう……ところが一転。何を思ったか、少女の顔が晴れ渡った。


「なるほど……分かりました! これはつまり鬼ごっこですね!」


 そう言うとスマホをポケットに仕舞い、うきうきと弾むような足取りで六畳間を後にした。

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