Like or Love?

 二月も下旬に差し掛かり、受験があったことが遠い昔のように思えてくる。だが、まだ二次試験が控えている人も大勢いて、バイトでレジ打ちをしていると、近くの予備校に通っている同年代たちをよく見かけた。

 彼らは、私の顔を見て「お前は大学決まったみたいで良かったな」と言うような目で私を睨みつけてくる。これがなかなかにストレスで、謂れのない烙印を押されたみたいで余計に疲れが溜まっていった。


 夕日も完全に沈んで、街灯が真っ黒な影を伸ばす。灰色の薄い雲が空を覆って、北風がコート越しの私の肌を刺した。

 バイト帰りのくたびれた体を引っ張って、駅に向かう。。私のバイト先は自宅から数駅先だ。家の近くだと、万が一辞めた時そこに足を運びにくくなってしまうのだ。

 帰宅ラッシュからはズレてはいるものの、駅前のロータリー近くにはスーツ姿の人たちや大学生と思しき団体が大勢いた。


「今日も疲れたな……」


 駅の構内に入るとより一層、人の密集度が上がる。


 丁度電車が来たみたいで大量に帰宅者が流れてきている。


「あ、ごめんなさい」


何度か肩がぶつかり、よろめきながらもどうにか近くの柱まで着いて寄りかかる。タイミングが悪かった。この波と喧騒が一度落ち着くまで休息だ。


 ふぅ、とため息をついて、乳白色の柱に全体重をかける。

 気を緩めたら寝てしまいそうになるので、天井を見上げて一息つく。疲れた頭が勝手に回転し始めた。

 まず思い浮かんだのはバイトの事。それなりに充実している。やることは多いし、まだ出来ていない事だらけだが、この調子なら大学へ行ってもやっていけそうと茫漠とした前途への希望が湧いている。


「大学、かぁ」


 それを頭に浮かべたのがいけなかった。そこから、思考が悪い方向に巡って──瀬尾君が頭に浮かんでしまった。

 途端に疲労感が増した。相変わらず通知は切ったままで、日に日に少しずつ罪悪感が募っている。


 瀬尾君の事はまだ好きなんだと思う。ふとした時に彼の事を思うと、まだ少し胸が苦しくなる。でも、もう沸騰するような思いはしていない。


 だから多分、会ったとしてもみだりに硬直したり、赤面しているような気持に襲われるような事はないはずだ。


「……そろそろ行こうかな」


 人の流れに穴が空き始め、頃合いといったところだった。ホームは風が絶え間なく吹き付けるので、出来ればもう少しここにいたかった。


「あれ、定期……落とした?」


 ポケットの中にはスマホとカイロの感触しかない。さっきぶつかった時に落としたのだろうか。肩に掛けた鞄の中も探ってみるがやっぱり見当たらない。バイトの更衣室から出る時にはあった筈だ。もう一度ポケットに手を突っ込んで、辺りを見回す。それでもなくて気持ちは逸り、来た道を戻ろうとした。





「これ、平田のだよね?」



 だが、右足を踏み出すその前に、私の定期が返ってきた。



「あ、ありがとうござ……い!?」


「久しぶり」



 片手を挙げて屈託のない笑顔を浮かべる瀬尾君がいた。久しぶりに顔を見たが、流石に一か月程度では何も変わっていなかった。


「えっと、ありがとう」


 彼から定期券を受け取った。間違いなく、私のだった。


 前に瀬尾君と顔を合わせた時の心臓が跳ねるような、恋をしていると自覚するような思いが再燃する。だがそれよりも、ポケットの中の、通知を切ったスマホがカイロまで冷やしているような、そんな気がいていた。


 どうしてこんなところに、と疑問は尽きなかったが、そんなことより一刻も早く立ち去りたかった。


「じゃあね」


 言い終わると同時に私は背を向けて走り出していた。正確には小走りだが、気分的には全力疾走だった。


「いや待った!」


 雑多な喧噪が後ろに流れていく中で、瀬尾君の叫び声が私に届く。やがて声に追い付くように瀬尾君の手が私をがっしり掴んだ。


「なんで逃げたのさ」


「……電車、来るから」


「そういう走り方には見えなかったけど?」


 閉口したと同時に瀬尾君の手が外れる。逃げ出してもいいが、そうしなかった。

 私は瀬尾君に向き直った。緊張はしなかった。


「それより、どうしてこんなところに瀬尾君がいるの?」


「予備校が駅の向こうにあるんだよ」


 怒っているような声色ではなかったが、ひたすら背筋が凍る。


「……で、なんで逃げたのさ」


「だって、気まずい、から」


 ホームから電車の出発のアナウンスが流れてきて、それが終わると、瀬尾君はまた口を開いた。


「少し時間ある? 俺も時間あるからちょっとだけ話さない?」


「……うん、わかった」


 この会話を逃したら二度と瀬尾君と話さなくなってしまう予感がしていた。


 私たちは駅構内のコーヒーチェーンに入った。二人してカフェオレを頼んで、小さな丸机に向かい合って座った。

 親には少し遅れるとだけ電話をした。遅すぎないうちに帰れとだけ言われたが、それ以上帰宅を急がされるようなことはなかった。


 問題は瀬尾君だった。さっきの口振り的に、予備校に向かう途中なのはすぐに分かった。こんなところでたむろしていていいのだろうか。


 「さてと、色々言いたい事訊きたい事あるんだけど」


「瀬尾君、試験いつ?」

 私は早速話の腰を折る。


「明々後日だけど」


「じゃあ、早く予備校行かなきゃだよ」


「たかだか数十分くらいで合否が分かれるような勉強はしてないから」

 カフェオレを口に運んで、強い口調で言った。


「なんで俺の事、積極的に避けていたの?」


 彼はじっと私の眼を見ている。その眼差しからは背けられなかった。


「瀬尾君の時間を取りたくなかった」


「冬休み前まで、ほぼ毎日連絡取りあっていたくせに?」


「……」


「それに、自己採の時も声掛けたのに無視するし、RINEもアレきり無視られるし」


「怒ってる?」


「少しだけ。でもそれ以上に、嫌われるような事したかなって内心すっごい怖いんだよ」


「嫌ってなんか!」

 反射的に机に乗り上げる。


「あ、いや、その……嫌いだから避けていたとか、そんなんじゃないです……」


 すると瀬尾君は大きく息を吐いて、溶けそうなくらいほっとしたように「良かったぁ」と呟いた。


「そんなに、ほっとする?」


「そりゃそうだよ。友人に訳もなく避けられたり無視されたり離れられたりしたら怖くなるし、こっちが何かしたのかってめっちゃ悩む。絶対嫌われたって思って中々こっちからは切り出せないし」


 それに、と言って瀬尾君はカップの湯気に目を落として沈黙した。店内で流れるジャズ風の音楽が、ツンと鳴る耳の奥で鈍く聞こえている。

 瀬尾君は、真剣な面持ちで顔を上げて、すぅっと吸い込んで言った。



「平田の事、ずっと好きだったから余計に」



「……………はい?」


 彼は正面、つまり私をずっと見ている。


 瀬尾君の言っている意味が良く分からない。私の事が好きと言ったのか。確かにそう聞こえた。それ以外には聞こえなかった。

 火傷するのもお構いなく一気にカフェオレを飲み干して咳き込む。過剰な糖分は熱のせいで麻痺してしまっている。


「大丈夫?」


 私の事が好きらしい彼は自然に紙の手拭きを差し出してきた。それを手に取った時、軽く指が触れて、ひったくるように奪い取った。


 口元を覆って、ついでに泣きそうな目元を覆った。


「……どうして」


 覆いきれない。薄い紙でも、私の数か月の自制心でも抑えきれないものが堰を切って出てきた。


「今なの。受験生じゃないの?」


「そうだけど」


「現抜かしている、場合じゃないんじゃないの?」


「浮ついているって思うよな。まあ、実際傍から見たらそうなんだけど、今日逃したら二度と言えないような気がしたから」


「卒業式とか、登校日とか、受験、終わってからでも、遅く、なかったんじゃない」


「正論だけど、今言っておきたかったんだ」


 意味が分からなかった。だって、明々後日試験本番で、そこで彼の人生が大きく左右されるのだ。果たしてその瞬間の前に、恋愛なんかに逃避している場合ではないだろう。




 少なくとも、私はそう思っている。だから二年間ずっと無自覚に抱いてきた、この不条理な恋の行方をひた隠しにしてきたのだ。それが枷になると信じて疑わなかったから。それが障害になると決めつけて動かなかったから。

「じゃあ……だよ。もし仮に、仮に、私が瀬尾君の事好きで、センターの前に告白とかしていたら、それは、その……今言っておきたかったで通用する?」


 火傷で傷ついた、震える喉から精一杯絞り出して言った。


「通用する」


 どんな答えを期待していたのかは私だって知らない。でも、瀬尾君のその一言で、私の数か月の行為を愚かだと罵る自分がいて、徒労だったと嘲笑う自分がいて、同時に、阿呆だと笑ってくれる自分がいた。


「瀬尾君」


 何かに、踏ん切りがついた。あるいは、場に流された。どっちでもいい。






「私も、ずっと好きです」










 瀬尾君の手元のカップは既に冷めてしまっているようで、湯気は消えていた。

 電車の到着のアナウンスが流れて、出発するくらいの短い時間しか過ぎていなかったが、私が最後に口を開いてからずいぶん時間がたったような気がした。



「……それで、瀬尾君は私と、どうしたいの?」


 先に口火を切ったのは私だった。我ながら意地悪な質問だなと思った。自分は何も考えていないのに。


「どうって……どうだろう。一瞬考えさせて」


「私は……」


 考えるまでもなかった。今までの瀬尾君との係わりを思い返せば、私のしたい事なんて決まっていた。  


 何でもない事で笑い合う事が出来る彼が好きだ。


 高校に入って初めて趣味を共有できた彼が好きだ。


 偶に些細な口論になるけど、すぐに非を認め合うこの関係が好きだ。


 かけがえの無い、友達の瀬尾君が好きなのだ。


 だから。






「「このまま、友達でいたい」」


 言葉が重なった。

 見つめあって、それからまた同時に吹き出して笑いあった。


 瀬尾君が冷めたカフェオレを一気に飲み干して、足元に置いていたショルダーバッグから財布を取り出すと、一枚の短冊のような紙を机の上に置いた。


「さてここに、平田が断った筈のライブチケットがありますが、どうしますか」


 私は迷わず言った。


「いくらだった?」

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