イチゴミルクに罪は無いから。
八時十五分、いつもならそろそろ瀬尾君が教室に入ってくる時間だ。重い荷物で若干猫背気味になって、大股に歩いてくる彼が。
結局、あの後一睡もできなかった。情けないくらい大きなあくびが出る。内心は全く穏やかではない。
教室内は、終業式だと言うのに空気は張りつめている。一般受験が多いらしい私のホームルームクラスでは、数学の問題を解いている人、単語帳を開いている人、一問一答を解いている人などがいて誰もが真剣な面持ちだ。私の隣の席の男子も、イヤホンをして物理の映像授業を観ていた。
教室の窓際の席で恋に現を抜かして窓の外の無駄に晴れた青い空を眺めているような空気の読めない人間は、日本中探しても私くらいなものだ。
全くもって不条理な恋だ。
大丈夫だと言い聞かせる。これまでも趣味を隠し通したではないか。あの時瀬尾君に露見したのは、露見するような機会があって、打ち明けた方が良かったからだ。
「大丈夫。打ち明ける機会、つまりは告白……するはずないし、私ができるはずがない」
手を組んで、ぐっと伸びをして上体を前に倒す。視界が焦げ茶色になって、次第に黒になる。机に突っ伏して考えるのをやめた。
意識しないようにしていても、耳は聡い。建付けの悪い教室の前の扉がガラガラと歪な音を立てて開いた。
トントン、大股で教壇を通る音。ギギッ、と机に体をぶつけて床と擦れる音。「っと、ごめん」謝る瀬尾君の声。徐々に足音が近づいてきている。
足音が止まった。もう目の前にいるのだろう。瀬尾君のホームルームでの席は私の三席斜め後ろだ。
顔を上げられない。このまま狸寝入りと決め込もうか。
──イチゴミルク、買うの忘れたし。
寝不足で全く頭が働かなかった今朝は、虚ろに身体の記憶している習慣に従って学校まで着いた。その瞬間に、イチゴミルクを買いにコンビニまで寄るという行動はインプットされていない。
瀬尾君が通り過ぎるのを待つが、中々通り過ぎる気配が無い。
コン、と机の上に何かが置かれた。ペットボトルのような音だった。
「おはよう」
私は顔を動かして、その物を見た。白いピンク色のパッケージの飲み物だった。
「コレ、昨日話していたやつ。もう飲んだ?」いつもと変わらない調子で瀬尾君が言った。
「……買うの忘れた」
声が震えた。
「マジか。じゃあ一本あげる」
「別に、今いらない」
「ずっと見てるくせに?」
私はずっとイチゴミルクの原材料名にばかり焦点を合わせていた。内容は一文字たりとも入ってきていない。
「……やっぱいる」
「どっちだよ」
「ちょうだい。折角だし」
本心を隠そうとして、ぶっきらぼうな口調になっている。自己嫌悪は募るばかりだ。それでも瀬尾君の方を見れない。いつものように話せない。身体は蝋のように固まって直座不動を貫く。ボトルの中の液体はぬらりと揺らめいている。
「いーーーろはーー」
不意に、誰かに呼ばれた気がして「なに」と不用意にも首を回してしまった。
不幸にも瀬尾君と、目が合ってしまった。
短く整えられた髪。二重まぶたなのに細い目。少し歪な形をして緩く結ばれたネクタイ。若干肩の余ったブレザー。
マジマジと観察をしてしまう。
頬が苺よりずっと紅く、熱くなる。
「ごめん! やっぱなんでもなかった!」
タイミングの悪いクラスメイト。友人の名前が脳裡で列挙されているが、彼女たちの間の悪さを呪う暇もない。
「……………」
何か言わなければ。無難に挨拶だろう。それと、飲料のお礼。自然に。普通に。友達らしく。だが、今までどうやって挨拶をしていただろう。
おはよう?
ハロー?
グッドモーニング?
仕草はどうだった?
片手は挙げていた?
両手で小さく手を振っていた?
……いやいや、そんなあざとい事、私はしていなかったはずだ。ただ顔だけ向けて「おはよう」と短く言っただけだったか。
霞がかかったように思い出せないというより、真っ白で、思考回路が全くシャットダウンしている。
つい先週まで一年以上ずっと毎日続けてきた挨拶の仕方すら思い出せないでいる。正常に処理すらできない。
「──お、おはよう」
片手をあげて、わざとらしくひらひらと振る。たどたどしくなった不自然な挨拶を誤魔化すように二へっと笑う。どうにか瀬尾君の顔を見ようとするも、つい目が泳いでブレザーの胸の校章やネクタイ、彼の顔の先の天井に目が行く。
「ん、おはよう」
「イチゴミルク、ありがとね。いくらだった?」
少しずつ、声の震えが引いていく。慣れだろうか。
瀬尾君は「お金はいい」と手を振った。
「バッグの中にあと二、三本入ってるから。それに勧めた手前飲んでほしいじゃん」
「親切心溢れすぎでは」
そういう所が……、いけない。そうではない。
「まあ、明日から冬休みだし、年の暮れ親切の大特価セール、みたいな感じ」
「今のは笑うところ?」
「別に笑う所でもないかなー」
じゃあ、と言うと瀬尾君は思い出したようにバッグから私の手に持っているのと同じペットボトルを取り出して、私の隣のイヤホンしている彼の机に置いた。
訝しげな顔をしたクラスメイトと何やら言い合い、結局押し付けることに成功した瀬尾君は鼻歌を歌って自席に向かって行った。
私は訳もなく膨れた。またイヤホンを付けて映像授業に取り組み始めたクラスメイトを蹴り飛ばしたい衝動に駆られた。
それが何故なのかは分からない。
虫の居所が悪いまま、瀬尾君から渡されたイチゴミルクを乱雑に開けて喉に流し込む。
「あっまぁ……」
世界が変わると言うのは決して大仰な表現ではないと思い知らされた。
それまでの混濁とした気持ちを全て攫っていってしまいそうだった。
多少、スッキリした。
「帰りに、二本くらい買おうかな」
一気に飲むのは勿体なかったので、一日かけてゆっくり飲んだ。
飲み終わった後、瀬尾君に『美味しかったです』とメッセージを送った。
既読はすぐに付いた。
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