だって気持ちが浮ついていたんですもの

 十月、私はとても晴れやかな気持ちで一週間の秋休みを迎えていた。バッグの中の通知表は二年に入って最初の成績が綴られていた。考査での出来が功を奏して、滑り出しとしては好調。いつも口酸っぱく突っ込んでくる母も、通知表さえ見せれば「後期も頑張りなさい」と一言だけ言って、しばらく不機嫌になることはなかった。


 そのおかげで私は秋休みの最終日、三年前から大好きなアイドルグループの全国ツアーに心置きなく、なに一つのしがらみもなく行くことができた。


 五人組の男子グループ。カッコよさもさることながら、主観ではあるが、歌唱力や踊りの技術が他のアイドルと比べても群を抜いている。

 初めて見た時は、まだ結成から一年かそこらだったはずだ。今はすっかり疎遠になってしまった中学の友達に布教されたのが始まりだ。

 その頃は何かにハマるだとか、好きになるだとかの趣味を増やすことに対してとても後ろ向きだった。今も大して変わらないが、当時はもっと酷かった。

 それでも、友達の誘いを無碍にすることも出来ず、仕方なしに彼らの出る音楽番組を観た。


 その後の顛末は簡単だ。


 翌日にCDショップにあったアルバムを中学生の財力の限り買った。

 何度かライブにも応募はしていたが、二桁に届くくらいの倍率は大きな壁だった。

 高校に入ったと同時にバイトを始め、そのお金でファンクラブに入ることは許可してもらえた。それでも流石の人気と倍率だった。


 このライブで初めて当選した時は悲鳴を上げて涙が出るかと思った。しばらく現実を受け入れられず、その日の晩御飯の味がしなかったのはよく覚えている。

 苦節三年、いくつもの『ご用意されませんでした』を越えて念願の初ライブだったのだ。

 ハコは一万弱。そこで誰が見知ったクラスメイトに声を掛けられるなんて予想できるだろうか。


「平田さん?」

 その一言にどれだけ肝を冷やされたことか。



 月の光は興の公演を終えて灰色の薄く広がった雲の幕によって覆われた夜。街灯の黄色く白く光る光だけが帰路に着く人の靴を照らしていた。

 目の裏で、ついさっきまでの彼らのダンスがずっとリプレイされていた。まだ聞こえにくい耳の奥で、ついさっきまでの彼らの歌が再生され続けていた。

 会場の入り口付近の生垣近くに立ち尽くして、私はライブの余韻に浸っていた、会場をぼんやりと眺めていた。会場のホールは万を越える人を収容できるだけあって、少し離れた程度では両手を広げてもまだ余りあるくらい大きかった。

 事後物販に並んでいる列も目に入るが、肩に下げたトートバックの中の満たされた中身と充足感に満ちた胸が、わざわざ物販に足を運ぶ必要がないことを物語っている。

 そんな多幸感に満ちた至福の全身につま先ほどの虚無が染みだしていることに気づいた。この数か月間をさっきまでの二時間足らずに全て注ぎ切った反動。これが燃え尽きるというやつなのだろう。初めて体験する、相反した感情が指先から体全体を渦巻いているこの状況に、聞くよりずっと泣きたくなるものだなと感じて幕の閉じた空を見上げた。


「あー、明日からまた学校か……」


 一気に現実に引き戻されそうになっている。家に帰るまでが遠足であるように、家に帰って会場限定のCDをパソコンから音楽プレイヤーに取り込んでベッドの中でそれを聞き、寝落ちるまでがライブなのだと友達は言っていた。それに倣うなら、まだ今は虚構夢想の最中なのだろう。



 トートバックを持ち直して、アリの軍隊のようにぞろぞろと駅に向かって行進をする人たちを目に入れる。進みも遅く、詰まりながら流れていた。あまり人が少なくなってから帰りたくはなかった。


 これくらいの人だかりに紛れて帰ろうと、家に着いてからの計画を夜空に描き、虚無感から目を逸らしながら歩きだしたところだった。




「あれ、平田さん?」



 その一言で、否が応無しに目を逸らしていた現実に引き戻される。


「瀬尾……君?」


 長い裾のスカートを翻して、聞きなれた声の方を向いた。私より頭一個分くらい高い身長の彼がそこにいた。私服姿で、それがいつもの制服での彼と乖離していたために一瞬誰かと疑ったが、紛れもなく瀬尾君であった。


「やっぱり平田さんだ。終業式ぶり」

 瀬尾君は手をひらひらと振った。思わぬ遭遇に驚きを感じていたのかもしれない。


 どうしてこんなところに瀬尾君が。私は背中が凍るような心地がした。


「こ、こんばんは」

 一歩後ずさりする。


 私がライブに行っているという事はクラスの友人にも伝えていない。周りに所謂ドルオタだということも公言していない。ちょっと気になっている程度しか話題にしたこともないはずだった。

 むしろ、その手の趣味は隠している方だ。

 私は意図して人と一定の距離を取っていた。趣味に関しても、滅多な事では自分から言わない。あとは大体周りに合わせて何となく答えて下手に軋轢を生まないようにいい感じの距離を自然に保つ。

 それはひとえに、私が人と距離を測るのが苦手だったからだ。

 中学時代、クラスメイトに物理的にも精神的にも距離が近いといった事を言われて白眼視されたトラウマが甦る。あの視線が怖かった。遠巻きに囁かれ、決して超えることの叶わない境界線を引かれて拒絶されたような、あの目が怖かった。

 無趣味と言われてでも拒絶されるよりはましだった。

 毎日顔を合わせる瀬尾君とも授業内容程度の会話しかしてこなかったのも、そう言う訳であった。


「奇遇だね。平田さんもライブ帰り? 誰かと一緒?」


「ううん、一人。一緒に行くような友達いないから」


 私は内心とても焦っていることを誤魔化すように言った。


「あ、なんか悪い」


「いや、友達はいるよ!? ただ、趣味とかそんなに人に話していないだけ」


「そういう」瀬尾君は納得したように頷いた。


「平田さん、こういうのが好きだったんだ。ちょっと意外」


 こんな所で瀬尾君に会ったのは想定外だった。自然に話せているか不安になる。

 ライブの高揚感がまだ残った身体でまた中学のような過ちを犯さないか心配で、奥歯をギュッと噛み締める。趣味のことが露見したのは最早不可抗力だったからせめて、喋り過ぎないように気を引きしめて、瀬尾君に向き直った。


「そんな意外だった?」


「アイドルとか好きなイメージなかったから」


「じゃあ逆にどんなのが好きだと思ってたの?」


 瀬尾君は顎を摘まんで考え込む。

「逆にって言われるとなぁ……なんだろ。流行りの曲をちょいちょい追って流行に後れないようにしながらも特にこれと言って強く推す人はいない感じ」


「やけに具体的だね!?」


 実際、かなり当たっているからぐうの音も出なかった。

「私の事、よく見ているんだね」率直な感想が意識せずに出た。


「いや、割と適当に言ったし。そんな平田さんの事ジロジロ見てるわけじゃないからな!」

 瀬尾君は何故か焦ったように言った。


「それより、私としては瀬尾君がいることの方が驚き」


「俺は妹と、その友達の保護者的な感じで来ただけだった」


「あぁ、妹さん」

 きょろきょろと瀬尾君の周囲を見渡すも、それらしき人はいなかった。

「で、肝心の妹さんとお友達は?」

 私は瀬尾君に訊いた。


 瀬尾君は恨みつらみが籠ったようなため息を溢して、パーカーのポケットからスマホを取り出すと、強く握りしめて私に見せた。【妹】と表示されたトーク画面だ。

『友達と話しながら帰るのでソウは適当に帰って』

『は?』 

『感想語り合うのに邪魔なんだもん』

 『はあ?』

 『帰りの電車くらいわかりますし。じゃ、そういうことなので』

 『はあ?』

 それ以降は既読も付いていない。


「と、言う訳です」


 瀬尾君の顔に影が落ちているのは、きっと街灯のせいではない。


「えっと……なんというか、ドンマイです」


「別にいいんだけどな。アレの子守りするのも疲れたし」

 瀬尾君は呆れ顔を浮かべて、吐き捨てるように呟いた。


「……っと、ほんとゴメン。ライブ終わりだっていうのにこんな愚痴聞かせて」


「別に平気。瀬尾君と話してたら、ライブの余韻全部吹き飛んだから」 


 それが、やけに突き放すような言い方になってしまったと気づく。

「悪い意味じゃないから」と、言い訳がましく付け加える。

「そ、そう言えば、妹さんの付き添いでライブ来たんでしょ? 分かんない曲ばっかりだったんじゃない? 面白かったの?」ぎこちなく、目線を逸らしながら話題を切り替える。

 すると、瀬尾君はスマホを取り出して、見せつけてきた。


「妹から持っているCD借りて、無い分は自分で買って、とりあえず全部揃えて取り込んで予習はしたんだよ」


「ちょっと見てもいい?」


 私は瀬尾君からスマホを受け取ると、アルバム一覧に画面を切り替えた。

「瀬尾君」

「何です?」

「全部って、」

「全部だよ。今まで出たアルバムとシングル買えるだけ全部。妹が意外と持ってなかったから、それなりの出費になった。そりゃあ、初回限定盤とかもう売っていないやつは無理だったけどな」

「ガチ勢過ぎません?」


 私は目を丸くして瀬尾君を見上げた。何がこんなに彼を突き動かしたのか。


「だって、知らない曲出てきたらその時盛り上がれないし。そしたら絶対つまらないのは分かり切っているし」


「気持ちは分からなくはないけど、そういうのを世間一般で馬鹿大真面目って言うんだよ?」


 まして、好きでもないような人の曲を付き添いの為だけに全部聞くだなんて。いや、好きではないとは一言も言っていなかったか。


「聴いているうちに一気にハマったんだよ。妹から借りた分全部聴き終わって気づいたらCDショップで会計済ませていた」


 照れくさそうに言う瀬尾君が、昔の私に少しだけ重なった気がして、それがなんだか、少しだけ嬉しいだなんて思ってしまった。

「平田さんもおんなじ経験ない?」


「えっと……あります。とっても」


「あるよね!?」


 グッと声量が上がって、思わずドキッとする。それに気づいた瀬尾君が周囲を見渡して、気恥ずかしそうにしていた。


「良かった。妹にドン引きされたし、友人連中にもねぇよって言われたばっかりでさ。良かったわ、ちゃんと同士いた」


 その時、スマホが震えた。母から『いまどこ』とメッセージが来ていた。


 もう既に帰りの人の列もまばらになっていて、一人でこの夜道を行くのは少し心細いまでになっていた。かと言って、目の前の瀬尾君を連れていくのも申し訳ない気がする。

 私は母に『まだ会場。今帰る』とだけ返した。


「そろそろ帰らなきゃ。瀬尾君、話せて楽しかった。またね」


 また明日と言って、私は肩にトートバックをかけなおして歩きだした。








「──待って」



「引き留めちゃったし、もう暗いからさ、良かったら駅まで一緒に行かない?」


「そんな、悪いよ」


「いや、こんな時間にまでなったのは完全に俺のせいだし」


「でも、付き合ったのは私だし」


 堂々と押し問答が続く。


「じゃあさ、歩きながらライブの感想語り合うっていうのは?」


 言葉に詰まった。感想の語り合い、甘美な響きだった。誰も見ていないSNSで、壁打ちのようにライブの感想を書くビジョンしかなかった私にとって、生身の人間と語り合うのは夢のようなことだった。

 だが、それを危険視する私がいる。また、嫌われるかもしれない。

 でも、今この誘いを断った方が余計に瀬尾君と気まずくなりそうなのも事実だった。電車の方向も多分同じだ。瀬尾君を拒絶してしまうことになるのではという危惧もあった。

 完全に八方ふさがり。ならば、

「じゃあ、うん。よろしく、お願い、します」


 悪癖のことは自覚している。ならば気を付ければいい話だ。


 数年前よりは成長しているはずだ。ヘマはしない、と高を括った。




















「─────でね!? 顔だけじゃないの! 顔だけならこんなに沼にハマっていない! 歌とダンスが他のアイドルと明らかに一線超えている存在なの! 完成度が違うの、完成度が! 神々しいよ! もちろん顔もいいんだけど、私特定の誰かを推しているわけじゃなくって。あのグループという一つの奇跡みたいな存在を推してるの! 要は箱推しなんです! 分かりますか!?」


 ──終わった。見事なまでのフラグ回収。


 帰りの電車、ライブ帰りの乗客でそれなりに密集している中、気づいたら私は瀬尾君に密着する勢いで迫っていた。物理的距離僅か十センチもない。もしこれが揺れる最中だったらと考えるとゾッとする。停車している時だったのがまだ幸いだった。無意識だった。全く成長なんてしていなかった。


 駅までの道から電車に至るまで、ライブの感想を語り合っていた。セットリストをネットも見ながら確認して、一曲目から順番に、だった。

 最初は話し過ぎてしまわないように、ほとんど聞きに回って、相槌を売ったり、会話を適度に拾って膨らませたりした。友達と話す時と同じ要領だった。そうしていけば意外と何とかなっていたのだ。聞いているばかりではいけないので、途中途中で自分からも話題を出していく。


 だが、ライブ後の高揚感、誰かと面向かって趣味の話ができる嬉しさで徐々に自制心が緩んでいったのは否定しようもない。

 その結果が、これだ。


「平田さん、近い……」


 私はすぐさま跳び退いて中刷りの広告に目を移し恐る恐る瀬尾君を見上げる。

 嫌われた、絶対。明日からの学校生活どうしていこうか考え始めた。気まずさは残るだろうが、会話しなくなるうちにそれも慣れるだろう。哀しいことだが、自業自得なのだから仕方がない。


 ほら、瀬尾君もウザがって……、


「瀬尾君……なんで笑ってるの?」


「……え、いやだって、平田さん面白いから」


 瀬尾君は肩を震わせていた。つり革を握ってる右手がぶらぶらと揺れている。


「面白い? 引かないの?」


 中学のクラスメイトと対応がまるで違う。不可解でしかなかった。


「急に近づいてくるの、最初の授業でもそうだったんだけど、すっごいビックリしたけど別に引くほどでもないし。それに、いつもの大人しいし周囲と壁作っているような感じとのギャップが凄くて、有り体に言えば……ちょっと」


「ちょっと?」


「いや、なんでもない」


「……キモイだとか?」

「そうじゃない」


 そう言って今度は瀬尾君が私から目を逸らした。「ごめん、今の忘れて」


「嫌われるかと思った」


「今の流れでどこにその要素が? むしろ、俺の方が嫌われていていると思っていたよ」


「瀬尾君を嫌う要素がなに一つも見当たらないんですけど?」


「半年関わって授業以外の話をしないって、正直避けられているか嫌われているかとしか思わないよ」


 半年間の自分の行動を顧みて押し黙るしかなかった。身から出た錆もいいところだった。


「それも、そうだね。意識して壁作ってたから」


「どうしてって、訊いてみても大丈夫?」


 平田さんが嫌じゃなければ、と加えながら瀬尾君は言う。それは、純粋な好奇心のようだった。


 ここまでの失態をさらした後だ。今更ひた隠しにできるはずもない。

 私は慎重に言葉を選んで口を開いた。電車が揺れ始めて、私は手すりに力を入れた。


 そして私は、私の嫌いな所を、友達にも話していないようなことを瀬尾君に語り始めた。吐き出すように、何度もつっつかえながら。

 自分の話をするというのはかなり恥ずかしいもので、大した話でもなく、長々と話すような内容でもなかったのに、随分長くしゃべったような気がした。

 言い終えた時には、心臓が破裂しそうだった。穴が無くても自ら掘って、その中に入りたかった。





「なるほど。そりゃ隠すな」

 全部聞き終わった瀬尾君は軽蔑するわけでもなく、揶揄するわけでもなく、窓の外の真っ暗な景色をじっと見つめていた。


「クラスの、平田さんとよく一緒にいる……」瀬尾君が口ごもる。


「詩織とか、蛍の事?」


「そう。その人たちには言っているの?」


 私は首を振る。

「こんな事で嫌うような人たちじゃないって言うのは分かっているんだけどね。中々そういうの切り出す機会もなくって。ほら、雰囲気って、あるでしょ?」

 そう言うと、どうしてか、瀬尾君の口元が緩んでいったような気がした。


「……さて、平田さん」

 瀬尾君が神妙な口調で口を開くから、私も「ハイ」と強張ってしまう。


「明日から学校で月曜日課だけど、確か空きコマない日だよね?」


「うん」


「……てことは、毎時間顔を合わせるわけです」


「そうだね」


「今までずっと話すに話せなかった話題とか色々あるんだけど」


「いや、あの、ホント、ごめんなさい」


「責めている訳じゃないよ!? ただ、ちょいちょい訪れる話題尽きた時の沈黙が気まずくて。今日みたいに色々話せたらいいなって」

「今日みたいに……」


 脳内で反芻する。

「あんまり面白い話とかできないよ?」

「それは多分俺もだから」

 それから、私の最寄り駅に着くまで、半年分の積もる話を消化しきった。

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