4-4
カードをあちこちにかざしながら小走りで進む慈愛の後を、千尋は必死に追いかけていた。
「せ、先生。何やっているんですか? そんなので美香奈の場所が分かるんですか?」
「<綻澱>を探すには、これが一番オーソドックスなのよ。<縁脈>を探って、そこに残っている<綻澱>の痕跡を追跡するってのがね」
「意味分かんないですよ」
「ああっもうっ、確実にクロなんだけどな……。校舎の外に繋がっているって、どういうことよ。こんなことなら、観測者のネットワークを校庭にまで拡げとくべきだったわ」
「先生、ネットワークって」
「いいから、黙ってて」
「…………はい」
慈愛は校舎を出て外へ向かう。校舎の北側、その更に隅の隅。二棟並ぶ、使われていなさそうな倉庫。——ここか。
慈愛は入口の引き戸に手をかけて、その前に中から音がしないかと耳を寄せてみる。
「美香奈がここにいるんですか?」
「気配はないわね。でも<縁脈>はここに続いてるし、<綻澱>の欠片が漏れているわ」
慈愛が倉庫の引き戸を開く。
倉庫の暗い室内に薄く光が射す。
文化祭の看板、大量の暗幕、何度か再利用されているらしい木材、積まれた畳。
その奥に、人の気配。
狭い倉庫なのに、人がいるはずのところまで、光が届いていない。
「千尋くん」
「はい」
「あなたは、ここで待っていなさい」
「え、でも、美香奈がここにいるんでしょ?」
「多分ね。だから、待ってなさい。この場を収めるのは、私の仕事だから」
生徒を巻き込むことはできない、とでも言いたげだった。
慈愛は右手にカードを構えながら、左手でもう一枚のカードを額にかざした。するとその額からは光の角が、その背中からは漆黒の翼が。かと思ったら、慈愛は倉庫の中に一歩踏み込んで、かき消えた。
「ま、待ってくださいよ」
千尋も思わず倉庫に踏み込む。
その瞬間、世界が反転し、凝結した。
胸を掴まれる。頭の奥から記憶が引きずり出される。血の記憶。大切な人が血まみれになっている、はるか過去の記憶。忘れてしまいたい、苦しい記憶だ。
どうしてこんなことを思い出すのだろう。
普段は忘れていられるのに、この前と今と、突然頭が血の色に染まる。綺麗でいたい。汚れたくない。強く思って、手で宙を掻いたら、ピシピシという音がした。
歯を食いしばって顔をあげたら、そこには異様な光景が広がっていた。
倉庫の中には網の目のように糸状のものが張り巡らされていて、そこにこびりつくように灰色の固まりが脈打っている。まるで蜘蛛の巣と、そこに滴る朝露のごとく。だが朝露のような癒しの水などではなく、汚し汚された穢れの澱だ。
千尋の手は、その繊維を引きちぎっていたのだ。
足を踏み出したら、踏み出した靴の底から広がるように、繊維のヒビが広がった。まるで千尋を中心に、蜘蛛の巣が固まり割れていっているみたいだ。
「先生、これ……何ですか」
千尋の声に、慈愛が驚いて振り向いた。
「え?」
「それに先生のおでこと、背中の羽……いったいどうなっちゃっているんです」
「千尋くん、ど、どうして?」
「気がついたら、ここに……ここ、なんですか」
千尋の胸ポケットで、ぼうとした光が浮かんだ。慈愛が渡した名刺が入っている。慈愛がそれに気付いたのか、眉をひそめた。何ごとかを考えているようだったが、この異常な空間を作った相手は相手は待ってくれないし、時間も止まってくれないようだ。
ほら、明らかに誘うような一本の糸が目の前に。
シュッ!
慈愛はその構造をカードで断ち切った。
絡まりあった糸の中に、人の姿が浮かぶ。一つ、二つ、……三人だ。
「美香奈っ!」
叫ぶ千尋を、慈愛は手で抑える。
美香奈の身体は、網に絡まって吊るされていた。その隣に、古賀が立ち、古賀の足下には依里が倒れている。
古賀が不敵に笑った。日頃の地味な様子からは想像もできない、他人を威圧する笑いだ。
「邪魔か! 邪魔をするのか! ハハッ! 俺の邪魔をするつもりなのかっ!」
「だったら、何?」
「先生! 美香奈を返してください!」
「無駄よ。<綻澱>に犯されてしまった人間に、ロジックは通用しないわ。あるのは強烈なエゴだけ」
「そんなのって」
慈愛が、数枚のカードを空中に投げる。宙に浮いたカードは、古賀から一定の距離を置いて回転する。慈愛は更に一枚のカードを額にかざす。
「いい、千尋くん。<綻澱>に犯されてしまった古賀先生の行動は、彼自身の責任ではないかもしれないわ。でも、<綻澱>に犯されるまでの過程では、彼の自我は存在していたはずだし、そういう過程を導いてしまったのは彼の責任としか言えないの」
「ハッ! 返せと言ったか! そんなにこの女が欲しいか!」
「先生、どうしちゃったんですか!」
「先生だと! ああ、先生だな。良い先生、良い人、人畜無害の男、そんな風な呼び方なんか、やめてくれ!」
慈愛は必死に探策した。少しずつ古賀の周辺を把握していく。ぽつり、ぽつりと言葉が口からこぼれだした。
「……そう。婚約者と別れた日に、始めて天城さんと関係を持ったのね。救いを求めたのね。そして……、あなたの歯車も狂ってしまったのね」
——ただ自分は、教師という仕事に真面目に取り組んでいただけだ。
——婚約者をないがしろにすることはあったかもしれない。
——約束を破ることもあったかもしれない。
——しかし、棄てられていいはずがない。
——全部、教師という大切な仕事のためだ。
——他の教師を見ろ。俺のように真剣に仕事をしている奴がどれだけいる。
——女には俺の仕事のことなんか分からないんだ。
——女は俺を尊敬するべきなんだ。
慈愛の言葉が、古賀の歪んだ心を明らかにしていく。
「善良で真面目な教師なんか、やっていられるか! 俺はもっと力が欲しい! 女どもをひざまづかせたい! 俺は女どもに、尊敬されるべきなんだ!」
古賀がゆっくりと手を上げた。
「お前達、俺の前にひれ伏せ!」
<縁脈>が糸のように伸び、触手と化して慈愛と千尋を襲う。慈愛はカードで触手を断つ。
跳ねた触手が千尋に迫るのを、慈愛は背中の羽を拡げてかばう。
古賀の操る触手は、次々と数を増していき、古賀の周囲に展開する。
慈愛は数枚のカードを引き抜いて拡げた。鎖のように連なったカードを鞭のように振り乱し、襲い来る触手を跳ね除ける。
しかし攻めには転じられない。迫る触手から千尋を守っているからだ。
「先生っ! 先生ーっ!」
慈愛の羽に守られた千尋が叫ぶ。
それは救いを求める声なのか、改心を求める声なのか。
そんな千尋の声をかき消すように、古賀の哄笑が空間を埋めていた。
「ひざまずけ! 消えろ! 消えてしまえ! 俺は特別になる! 俺は特別になるんだ! 弱いものは、俺にひざまずけ! 弱い女は、みんな俺の下僕になるんだ!」
笑い、笑い、笑い、笑い。
力を求める声、力を得た声。醜い、ひどく醜い。
それが<綻澱>なのか。人を襲い、人を喰らう、構造の歪み、穢れの吹き溜まり。
千尋は尚も叫ぶ。
「美香奈! 美香奈——————————ッ!」
触手の根源、古賀の隣で、美香奈の身体が震えるのが見えた。
自分を呼ぶ声が遠くから聞こえることを、美香奈は感じていた。
聞こえていたとは表現できない。
ただ自分を呼んでいるという圧力だけが、遠くから自分に向けて届いてくる。
私は何をしているのだろう。やっぱり昨日から変なんだ。自分が何をしているのか、自覚が持てなくなることがある。昼休みに依里に呼び出されて、それから……。
逆らえないという気持ちだけが働いて気がつけば今の状態にある。——今の状態?
今、私はどういう状態なんだろう。なんとなく足下がふわふわする。地面に足がついていない感覚。何が自分を支えているのだろう。
——美香奈! 美香奈!
声……いや、意思が届く。自分に向かう、大切な大切な人の呼び声。
意識の中の身体感覚が、ゆっくりと現実へと降りてくる。
まずは聴覚、次に皮膚感覚。
拘束されている。
身体を動かせない。
やがて光の感覚が戻る。——ゆっくりと目を開けた。
暗い空間の中に、ぼんやりと光を放って浮かぶ網の目。ゆらゆらと揺れる、糸のような触手。空中で敵を狙い、一気に攻める。……敵?
敵って誰?
触手の先に異形の姿があった。光の角と、漆黒の翼。天使のような、悪魔のような。
だけどその顔は、よく知っている顔——慈愛だ。
そして黒い羽が守る先には、もっとよく知っている千尋の顔があった。
触手が千尋と慈愛を襲っている。誰が? 誰が、千尋と慈愛を?
もっと目を開かなくては。
眼球を回す。ぼやけた焦点を必死に合わせる。
自分の隣には、古賀がいた。取り憑かれたような顔をして、笑いながら触手を操っている。
そして、古賀の足下には依里が倒れていた。
そう、依里だ。依里に自分は連れてこられたんだ。その依里が倒れている。ブラウスが乱れている。スカートのホックが外れている。右足の足首のところに、下着が丸まっていた。
依里が!
依里が!
依里が古賀に汚された! ただ女というだけで! ただ、か弱い女性だからという理由だけで!
古賀の声が響く。
「弱い女どもは、俺のものだ! 地を這え! 許しを請え!」
弱い女だから? 弱い女だから、依里はこんな目にあったの?
弱い女だから、自分はこんな目にあっているの?
両腕を動かそうとするが、ぴくりともしない。
非力な自分が恨めしい。
ビクンッ!
身体の中で
それは欲望。汚されたいという欲望。昨日までの自分には決してなかった欲望。誰かによって植え付けられた、穢れた欲望。
徐々に昨夜からの記憶が鮮明になってくる。
許さない。古賀を許さない。力があれば、自分に力があれば、こんな拘束、引きちぎれるのに。
身をよじって、ポケットに手を入れた。カッターの感触。カチリカチリと刃を伸ばし、内側から自分を縛る糸の絡まりに刃を入れる。
プチッという手応え。少しずつ、少しずつ。力が、力が欲しい。
慈愛の角、慈愛の翼。あれが力の印だというのなら、自分にもその力が欲しい。
「先生! 慈愛せんせ————————っ!」
糸の一部を切断。
少しだけ自由になった手の中で、カッターをひっくり返し、更に切り裂く。
触手の先で、慈愛が立ち上がった。手に持った鎖を大きく振って、触手の束をなぎ倒す。翼を拡げて跳躍し、一気に距離を縮めた。
古賀の至近距離に到達、更に間合いを詰めて、腹部に掌底を打ち込む。
古賀が倒れる。
しかし同時に、その背後から触手が伸び、慈愛の右の翼を貫いた。
「ッつ!」
「先生!」
「大丈夫、私は大丈夫だから。それよりも、美香奈ちゃん、無事でよかった」
「先生、私、力が欲しいです。こんなの引きちぎっちゃえる力が」
「そうね、あなたには力があるわ。非力とはいえ、<縁脈>を切断する力が」
「力! 力が!」
「そう、あなたには力があるわ。隠れている力が」
「もっとです、もっと大きな力が欲しいです。古賀先生みたいな、悪い男の人を倒す力が」
「いいわ、私があなたの力を引き出してあげる。あなたに隠れている小さな力を、大きく発動させてあげる」
慈愛がカードを出した。
継承者のカード。冠を渡している二人の人物が描かれている。
慈愛はカードを美香奈の額に当てた。
ぼうという光が浮かぶ。
『沢田美香奈を我が学びの子供とし、八咫鴉として覚醒させしことを記す』
ゆっくりとカードを引き離すと、そこから伸びる光の角。
同時に美香奈の背中が光る。
「あぁっ! あぁ——————っ!」
美香奈は全身に力を込める。
ぷちという<縁脈>の糸が切れる音がする。
美香奈がその力を解き放った瞬間、彼女を拘束していた糸はちぎれて消えた。
地面に降り立つ。
美香奈の姿は、慈愛と同じであった。
光の角と、黒い羽。
ただ一点違っていたのは、その右手に握っている
カッターナイフの刃の部分だけを取り出して巨大化させたような武器。
刃の後ろのほうに垂直に取っ手がついている。中国武術のトンファーを刃物にしたような形状だ。
美香奈はその剣を持ち、両足を軽く開いて構えていた。
古賀が一歩後ずさる。
美香奈は動かない。
静かに古賀の動きを見つめる。冷静な——冷酷な目つきで。
その口がかすかに動く。
「力……、これが力なんだ……、これが私の力なんだ……」
古賀が腕を振った。
「付け焼き刃なぞっ!」
古賀の周囲に糸が集まる。
古賀の周囲の<縁脈>の密度があがり、その存在の圧力が強くなる。
それこそが古賀の存在を構築している構造の力だ。
古賀が腕を降り下ろすと、それに合わせて<縁脈>の糸が美香奈に襲いかかった。
<縁脈>の動きに合わせて、美香奈が刃を一閃。すべての糸が断ち切られ、行き場を失って消えた。
その勢いのまま、古賀に向かって一歩、二歩を踏み込む。
古賀が次の動きに移る前、三歩目の踏み込みと同時に、刃を上から下へ降り下ろした。
古賀の周囲の<縁脈>が完膚なきまでに切断される。
それはすなわち古賀の存在が、周囲から切断されたことを意味する。
「美香奈ちゃん! そこまででいいわ!」
しかし慈愛の声は届かず、美香奈は次の一歩で再度刃を降り下ろした。
「
その一太刀は、古賀の身体を袈裟懸けに切り裂く。
美香奈は止まらない。
二太刀目、三太刀目と古賀の身体に刃を突き立てる。
「おまえがっ! おまえがっ!」
古賀の身体が、その存在が、どんどん削り取られていく。
最後の一太刀で、古賀の存在を構築していた構造は、藻屑のように消えた。
美香奈は地面に膝をついた。
周囲の<縁脈>が徐々に戻っていくのが分かる。
いまの美香奈には、おぼろげながら<縁脈>の構造が見えるようになっていた。
大きく息を吐いた。
その肩に、慈愛が手を置く。
「いいのよ。いいのよ、もう」
良いのか悪いのかなんて、美香奈には関係ない。
ただ自分は、この力で穢れた男達を切り裂きたかった。
それだけだった。
二人で同盟を組んでから、依里は自分の管理を古賀に任せることにした。
自分の管理? 自分の身体の管理? 身体の一部分の管理?
そうやって分解して考えていけば、どんどん自分を貶められた。
穢れた身体に群がる男たちは、更に穢れている。男から穢れを吸い取り自分の空洞を埋める。依里はそれを繰り返した。
受け取ったお金はすべて古賀に渡していた。金銭なんか、依里は必要としていない。古賀が抱いてくれれば、穢れた身体が浄化される。その時の快感といったら!
古賀の体毛をなぞる指先に、神経を集中させる。人差し指が一番敏感になったみたいだ。指を背中に回し、爪を立てる。背中をのけぞらした。
穢れを集めて、浄化されて。これはもしかしたら、食事と排泄の快楽と同じなのかもしれない。
恍惚だったのだ。
千尋はすべてを見ていた。
美香奈が自力で拘束を解こうとし始めたのを見た慈愛が、
「美香奈ちゃんが……もしかしたら、いけるかも。近寄れさえすればだけど」
とつぶやいた。
慈愛のカードの隙間を縫って、触手が飛び込んでくる。千尋は思わず手を出していた。
痛っ!
指の先をかすめた触手が、しかし突然濃墨色になって灰のように崩れて落ちた。
「千尋くん、何をしたのっ!」
「わ、分かりませんよ。でも、これなら僕は大丈夫かも。僕がこの変な触手たちを食い止めるから、先生は美香奈のところに!」
「分かったわ。一か八かだけど、やってみる」
と言い残して、慈愛は古賀の懐に飛び込んでいった。
かと思ったら、今度は美香奈が変身した。角と翼が生えた、慈愛と同じ姿だ。
でも違っていた。慈愛から受ける印象とは全然違い、美香奈は悪魔の使いみたいだった。
その姿も、その行動も。
古賀が放った触手を断ち切り、古賀自身をも断ち切った。何度も何度も、刃を振るっていた。
鬼のようだ。
悪意に取り憑かれた、鬼のように、千尋には見えた。
千尋は美香奈の姿に恐怖した。畏怖なんかじゃない、純粋な恐怖だ。
あれは千尋の知っている美香奈ではない。もっと荒々しく、もっと汚らわしい、何かだ。
嫌だ、あんなの美香奈じゃない。
古賀を切り裂いたあとの美香奈の背中からは、悪意という名のオーラがただよっているように見えて、千尋は近づけずにいた。
こんな空間にいたくない。
そうだ、それよりも手を洗わなきゃ。
千尋は、一秒でも早く、手を洗いたかった。
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