4-3

「なあ、沢田の様子、変じゃねえのか?」


 長岡が千尋の背中をつついた。


「うー、うん、やっぱりそう思う?」


「千尋を殴りにこないってのが、怪しい」


「それじゃあまるで、僕がいつもおとなしく殴られているみたいじゃないか」


「殴られてるだろ? たまには殴り返せよ」


「え?」


 千尋が心底不思議そうな顔をする。


「どうして殴り返さないといけないのさ」


「これだもんなぁ。千尋が反撃しないから、沢田の奴、調子に乗るんだよ。殴り返さないなら、かわりに胸くらい揉んでみろよ」


「やだよ。そんなこと、できるわけないじゃないか」


「そうか? 東京の高校生は、挨拶がわりに乳タッチしているらしいぜ?」


「そうなの?」


「マジマジ。すげーよな。東京行ってみてえよな」


「それ、三組の玲子ちゃんに言っとくよ」


「沢田みたいなこと言うなよ。それにしても、沢田、本当に悪い病気にでもなったんじゃないか?」


「病気かあ」


 長岡は冗談で言ったのだろうが、千尋にはまるっきり冗談でもないように聞こえた。確かに今日の美香奈は変だ。千尋が避けることはあっても、美香奈のほうが千尋を避けるなんてことは、これまでになかった。千尋が避けさえしなければ、いつも馴れ馴れしいくらいに近づいてきて、殴るは蹴るはで好き放題していたのに。


 二時間目の後の長い休み時間も、すぐ教室の外に行ってしまい、授業が終わって一〇分くらいしてからようやく戻ってきた。英語の女性先生がどうしたのか尋ねると、


「気分が悪かったので、保健室で休んでました」


「休んでなくて平気? 無理しなくていいのよ」


「平気です。楽になったので戻ってきました」


 あきらかに嘘だった。言葉こそしっかりしているものの、目は充血しているし、顔もほてったような色をしている、熱でもあるようにしか見えない。


 だけど美香奈はしゃんとした足取りで自席につき、午前の残りの授業を受けた。だるそうな様子は一切見せなかった。そうなると千尋としても心配するのも余計なおせっかいな気がして、声をかけれずにいた。


 でもやっぱり変だ。いつもの美香奈じゃない。


 午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り終わるのを待った。呼吸を整える。なんで緊張しているんだろ。いつも通りに美香奈に話しかければいいだけじゃないか。うん、全然おかしなことじゃない。


「みかなー、一年の子が呼んでるよー」


 つられて千尋も声のしたほうに顔を向けた。教室の後ろのドアから、クラスメイトが美香奈を呼んでいる。その先の廊下で、天城依里が小さく会釈をしていた。


 美香奈が立ち上がる。軽く手を挙げながら依里のところに行き、何事かを話し始めた。


 依里は無事だったのか、と千尋は安堵しつつも、どうして美香奈なんだろうと思う。


 美香奈が依里のことを気にかけていたのは、千尋も知っている。依里の教室まで行って、相談に乗ってあげようとしていたことも。


 だから、依里がなかなか心を開こうとしないということも、なんとなく聞いて知っていた。


 今、依里が美香奈を訪ねてきているというのは、二人の関係が進んだということなんだろうか。


 千尋からは美香奈の表情は見えないが、依里は相変わらずどこか沈んだオーラを出していた。仲良しの先輩のところに遊びに来たという種類のものではなさそうだ。美香奈の背中もいつもよりも静かだった。


 長岡が千尋に聞いた。


「おい、あの子誰だよ」


「一年の天城さんって子だよ。美香奈の知り合い……って言っていいのかな」


「なんかいいな」


「そう?」


「ああ、なんか、色気があるって感じ。彼女じゃなくて愛人が似合いそうな」


「そんなオヤジみたいなことを……」


「そんなことないって。千尋はそういうのが分かんないのが、お子様なんだよなあ」


 お子様なのは別に構わないけれど、ふうん、そうか他の男子は彼女のことをそういう目で見ているんだと、むしろ驚いた。




 下級生が上級生を呼び出すことは珍しい。そんな上下関係を気にする美香奈ではなかったが、呼び出した依里の姿を見て少しだけ躊躇した。


 でも逆らえない。身体が動けと命令する。


 ゆっくりと腰を上げ、一歩一歩つかえるように歩く。足が重い。だけど止まらない。


 ぎこちなく片手を挙げてみせたが、不自然じゃなかっただろうか。


 一歩、そして一歩。


 依里が顔をあげたが、その目の焦点は、美香奈の背後のどこか遠くを見ているみたいだった。


「先輩……、さっき見ていたでしょう?」


「な、なに?」


「知っているんですよ。倉庫の裏に隠れて、私のこと、見ていましたよね」


「……依里ちゃん、あのね、聞いて。ああいうことするのって、」


「悪いって言うんですか?」


「だってそうじゃない! お金貰ってたでしょ? そんなのって」


「悪いって……言うのですか」


「う、うん」


「本当に? それならどうして、何も言わなかったのですか? 見て見ぬふりをしたくせに」


「それはっ! ……ごめん」


「嘘。本当は悪かったなんで、思ってないくせに」


「依里ちゃん、ねえ、どうしちゃったの?」


「先輩、本当は我慢できなかったんじゃないですか?」


 びくんと、美香奈の身体の中で何かが飛び跳ねた。反射的にお腹に手をやる。平静を装って答えるが、依里の目を見れなかった。


「そんなこと、ない」


「来てもらえれば分かります」


「どこに?」


「先生のところです。先輩は、断れませんよね」


「駄目だよっ。あの先生は、だって、あんなこと」


「先輩? 断れません、よね?」


 駄目だ駄目だと頭の中で思う。だけど別のところから、従えという声もする。依里の言葉に耳を貸せ。依里の言葉に身を委ねろ。そうすれば、きっと、楽になる。


 楽に……なれるの?


「せんぱい?」


「……うん。わかった」


「そうですよ、先輩。先生は、優しいんです。先生はとても優しくて、私を満たしてくれます。先輩もきっと、幸せになれますよ」


 依里が一歩後ろに下がり、身体を回して歩きだす。美香奈はそれについていった。依里の顔はいつも通りの暗い表情だったけれど、口元がわずかに動いたような気がした。




 二人で教室を出て行った美香奈と依里の姿に、なんか変だなとは思ったけれど、それ以上深くは考えようとしなかった。女子のやることにそんなに興味はないし、興味を持っているとも思われたくない。


 それよりも昼食をどうしよう。長岡と食べていると、美香奈が乱入するってのがいつものパターンだったけれど、美香奈は出て行ってしまった。今日は静かに食事ができそうだと思ったら、


「あ、わりぃ。俺、部活の用事があるんだ」


 長岡もまた教室を出て行ってしまう。


 一人だ。


 美香奈と長岡がいないと、千尋は自然と一人になってしまう。他のクラスメイトと仲が悪いのではなく、むしろ如才なくやれているほうだとは思っているが、常に一緒にいるとなるとこの二人くらいになってしまうのだ。


 でも一人は決して居心地が悪いものではない。誰からも同じくらいの距離をとって、教室の中で浮かんでいる感覚。千尋の周囲だけぽっかりと空洞ができているような孤独な感じではなく、無理にイメージを語れば教室の中で動き回る仲間達のみんなから離れて別の次元でふわふわと飛んでいるようだとでも言えばいいのか。これも慈愛の言うところの、構造の一つのパターンなのかもしれない。良いことなのかどうかは、分からないけれど。


 でもそれは、実は教室の中には千尋の居場所がないんじゃないかとも言えるわけで。


 少し考えてから、弁当箱を持って部室に行くことにした。


 昼休みの部室は、部長がいたり、美香奈とゲームをしたりと、日によって発生するイベントが違うポイントなのだが、千尋がドアを開けたら、


「こんにちは」


 見知らぬ女子生徒が、椅子に座って本を読んでいた。本を閉じて優雅に立ち上がり、一礼する。今日は、新キャラ遭遇イベントだった。


「始めまして、百瀬先輩。一年の貴崎果帆子といいます」


 後輩だということに少しだけ安堵して、千尋は部室に入って荷物を置いた。


「こんにちは。ええと、美香奈の後輩?」


「いいえ。慈愛先生を待っていたのですけれど、今日はいらっしゃらないのでしょうか」


「部室にいなければ、カウンセリングルームにいると思うけど」


「あの場所では、なかなか先生が私に相談してくれませんから」


「先生が相談?」


 果帆子は静かに腰を下ろすと、思い付いたかのように手をポンと叩いた。


「そう、先輩にもお話があったのです」


「僕に?」


「先輩はどうして、他の方と距離をとるのですか?」


「唐突だね」


 弁当箱を机に置いた。どうして慈愛の周りには、変な人ばかりが集まるのだろう。もっとも自分もその一人に入ってしまっているのかもしれないけれど。


「百瀬千尋さん、確かに人付き合いに問題はなく、誰からも好かれている方ですね。——でも、先輩自身は本当に皆さんと親しくしていらっしゃいますか?」


「貴崎さん、ごめん、僕これから食事するから。先生に用事なら待っているよりも探したほうが早いと思うよ」


「人と人との繋がり、つまり関係性とは、構造をなしています。百瀬さんはその構造に加わらないようにしているように、見えますわ。構造の中に踏み込むことをしないと、構造の本当の姿は見えません」


「慈愛先生みたいなこと、言うんだね」


「あら、私、先生のこと、尊敬してますのよ。先生にはこれから沢山活躍して頂かないといけませんから。ですから、百瀬さんにも、身の回りの構造のなかに足を踏み入れて頂きたいのです」


「心配してくれて、ありがとう。だけど僕はうまくやれているよ」


「でしたら、どうして隠し事をしているのですか?」


 千尋の動きが止まる。黙ってPCの電源を入れた。追い打ちをかけるように、果帆子が続ける。


「隠し事をしているのはつらいですよね。大人に話さずに、自分の中に秘密を抱えているのは、本当につらいです。私達は子供です。子供が抱えられる秘密の大きさには限度がありますよね。抱え続けるのは耐えられませんよね」


「貴崎さんが何を言っているのか、分からないんだけど」


「天城依里さんは、お金を受け取っていたのでしょう?」


 立ち上がったマシンにログインし、平静を装って返事をする。


「知らないな」


「お金を受け取るなんてこと、子供が一人で考えてできることではありません。誰か仲間か、指図していた人がいるとは思いませんか?」


 我慢できずに立ち上がった。ポケットに手を入れて、手ぬぐいを握りしめる。


「貴崎さん!」


 でも負けだ。果帆子は悠然と座っていた。両手を膝の上に乗せて、背筋を伸ばし、静かに千尋をみつめていた。


「私のところには、ほんの少しだけ多くの情報が集まってきます。しかし私が集める情報は、風の集まりにすぎません。それはそう、人と人との間を流れる川に浮かんで翻弄される、木の葉をすくい上げるように」


 千尋は自分の膝を思いきり叩く。この場にはいられない。でも逃げ出すこともできない。逃げる先なんかありはしない。


 それでも助けを求める先はある。子供で抱えていられないものを、受け止めてくれるに違いない大人は、ゼロじゃない。


 千尋は鞄を持って、部室を飛び出した。




「あら、千尋くん」


 カウンセリングルームには、慈愛一人だった。客はいない。あつらえむきだ。


 千尋は鞄をソファに投げ出す。千尋にしては珍しい乱雑な行動に、慈愛が不思議そうな顔をする。千尋は息を整えながら、慈愛にかけよった。


「先生! ごめんなさい。僕、黙ってました。天城さん、倉坂先生からお金を受け取ろうとしてました。あと、倉坂先生は、古賀先生と自分に任せておくように言ってました。言ったら天城さんを貶めるみたいで、僕、言えなくてっ」


 管理売春という言葉が慈愛の頭に浮かぶ。


 納得できる。倉坂と繋がっていたのは古賀のほうで、古賀が依里に売春させていたということなら、夜の繁華街で二人が一緒だったのも理解できる。援助交際なんてごまかしの表現じゃない、完全な売春だ。


 慈愛は千尋の頭を軽く叩いた。


「千尋くん、話してくれてありがとう」


「ごめんなさい、先生。黙っていて、ごめんなさい」


「いいのよ」


 行動を起こすなら早いほうがいい。古賀を取り押えるか、それとも依里のほうか。次の一手を考えながら、ぐるぐると歩き回る。


「え? 天城さんなら、美香奈を連れてどこかに行きましたよ?」


「美香奈ちゃんが、じゃなくて? 美香奈ちゃんを連れて行ったの?」


「はい。さっき、天城さんが僕達の教室に来て、美香奈を呼んでどこかに行っちゃいましたよ」


「ちょっと!」


 慈愛の歩みが止まった。かと思ったら、机の上の端末に向かって、猛烈にキーを打ち出した。


「それを早く言いなさいよ。昨日の今日で、あの子が美香奈ちゃんに接触したってのは、何かあるに決まっているでしょ! ああっ、もう! 美香奈ちゃん、私の名刺持ってないの? トレースできないじゃない。古賀先生がバックについているなら、尚更よ。っと……天城さんは追跡しようがないわね。教室か……あとは古賀先生の線をあたるか、難しいところね。はい! さっさと荷物持って。行くわよ!」


 慈愛は傍らのバッグを掴んで立ち上がる。千尋の背中をぱんと叩いた。


「黙っていたことは、もういいわ。でも美香奈ちゃんに何かあったら、後から沢山後悔しなさい。後悔したくなかったら、ついてきて。いい?」


 千尋は鞄を胸の前に抱えて、大きくうなずいた。




 二人はまず依里のクラスに向かった。依里がそこにいるとは思えなかったが、どこに行ったかくらいの情報はあるかもしれないと思ったからだ。


 しかし結果は空振り。


 クラスの女子に聞いても、ヘラヘラとした調子で「天城のことなんか、知らないしー」といった答えが返ってくる。


 教室を出ようとしたら、優しそうな感じの男子——手塚が話しかけてきた。途端に女子達の態度がそわそわしたものになり、彼の様子を気にしだす。


「あの……カウンセリングの先生っすよね。天城がどうかしたんすか?」


「どうもこうも、うちの部員をかっさらって行ったのよ! 君はクラスメイト?」


「……そうです」


「天城さんが行きそうなところ、知らない」


「……すいません、知りません。天城は、いつも一人だから」


「じゃあ、用はないわ」


 慈愛が立ち去ろうとするのを、手塚が呼び止めた。


「あ、あの、天城のこと……助けてやってください」


「助ける?」


「あいつ、……多分、大人に振り回されているんです。あいつはおとなしいから、逆らえなくて、好きにされているんです。だから、助けてやってください。お願いします」


「君は、天城さんのことが好きなの? 好きなら君が助けてあげればいいじゃない」


「違います。……違うんです。あいつは誰にも……」


 慈愛は頭を掻く。


 まったく、どいつもこいつも、思春期の男子ってのはこんなにも面倒なものだっけ? これだから子供は嫌なんだ。自分の汚いところも笑ってさらけ出せるような、落ち着いた紳士のほうが私には合っている。


 でも、放ってはおけないだろう。


 手塚の額に人差し指を当て、呪文のように言った。


「出来もしないことをやろうとするのはガキだけど、出来ることをやらないのも、ガキよ」


 手塚は何も答えなかった。黙って拳を握っていた。沈黙が反発なのか納得なのかは分からないけれど、これ以上慈愛がアドバイスできることはないだろう。


 慈愛は、そわそわと気にする素振りの女子の間をつっきるように、教室の出口に向かう。千尋が軽く会釈をして、その後を追った。


 階下に向かう慈愛の背中に向けて、千尋がぽつりと、


「天城さん、一人ぼっちってわけじゃないんですよね」


 つぶやいたが、慈愛は無言のままだった。沈黙には色々な意味がありすぎて、千尋の頭ではその全部を理解することは、到底無理そうだ。


 慈愛はそのまままっすぐに職員室に入って行った。千尋も小声で「失礼します」と言ってから職員室に入る。昼休みの職員室は雑然としていて、慈愛と千尋に注意を寄せる教師なんかいない。


 古賀の机は整理されていて無駄がない。椅子の背もたれにかけられたカーディガンも、くたびれてはいるものの上質なものに見えた。慈愛は自分のバッグからカードを取り出すと、古賀の机の前にかざした。それを見た隣の席の中年教師が尋ねる。


「先生、手カザシか何かですか」


「似たようなものです」


「そうそう、明日教員の懇親会があるんですが、先生も出ませんか。いやあ、なかなか他の教科の先生と話す機会がなかったりするじゃないですか。だからこういう場所を設けてですね」


「じゃあ出ます。はい」


 慈愛は短く答えて、そこで会話を断ち切る。世間話をしている余裕はないとでも言うかのように。


「あ、あの……先生、美香奈は?」


「探しているのよ。古賀先生からの<縁脈>を辿れば、何か……歪みが残っているわね。<綻澱>が所々に足跡みたいに……追跡できるかしら」


 ひとしきりつぶやくと、別のカードを出して古賀の机の上に置いた。


「起点に介入させておくわ。あとは痕跡を辿って……綱渡りだけど、学外ってことはないでしょうから。行くわよ」


 慈愛が走り出す。千尋はあわてて後を追った。彼女が何をしようとしているのか、全然分からなかった。

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