3-5
この辺りは、昼間は普通の商店街なのだが、夜になると少しずつ姿を変える。ビルの地下や二階に埋没していた店が、徐々に開店し、派手な照明のついた看板を道に出す。そうして平和な商店街から、滲んで浮かび出るようにして、夜の歓楽街が姿を表すのだ。
しかも派手な看板達は、昼間だったら猫が散歩するだけの脇道にも点々と並んでいる。飛行機の滑走路に灯された誘導灯のように、ストレスにまみれたサラリーマンたちを更に奥の裏道へと誘っていく。
慈愛達が入った中華料理屋は、至極まっとうで健全な店だったのだが、店を出た時間には目の前の通りはすっかり夜の繁華街と化していた。
こりゃ無事に生徒達を連れて帰らないとヤバイなと思った。
途中で見回り中の警官なんかに会ったりしたら、どう説明しようかと思った。
「と、とにかく、私から離れないで歩いてね」
なんて言ってはみたが、最近の高校生にとって夜の繁華街なんて、さして珍しくもないらしく、三人ともがいつものようにそれぞれのペースで慈愛の後をついて歩いていった。
さすがに客引きも制服姿の未成年をカモにしようとは思わないらしく、三人と一人の集団は、ほんの少しだけ注目を集めながら通りを歩く。美香奈が慈愛のところに近づいてきた。
「慈愛先生、あれ」
美香奈が指さした先には、歩調が乱れた背広の集団の向こう側に、男女の姿があった。女性のほうは若い、いや若さというか確実に美香奈と同じ制服で、
「天城さんだよ、この前の」
一緒にいた男は二十代後半くらいだろうか。白いYシャツにカーディガンを羽織っている。慈愛は、男の顔を知っていた。
「あれ、数学の古賀先生だよ」
美香奈に指摘されて、その名前を知る。依里が校門の人垣から逃げ出てきた日、駆け寄って仲裁に入った教師が、古賀だった。依里が、助けを求める顔で何かを訴えて、大丈夫だというように対応していた、真面目な熱血風教師だ。
二人の姿は、通りを横切って、脇道へと消えた。
この間、ほとんど数秒くらい。
「何、あれ」
「先生が分からないのなら、私も分からないよ。追っかけてみるね!」
「あ、ちょっと待ちなさい!」
しかし美香奈は走り出し、酔っぱらいをよけながら二人が消えた先に向かう。千尋と梶山が追いついて、慈愛にどうしたのかと聞いた。
「美香奈ちゃん、勝手に行っちゃったのよ。天城さんと古賀先生が一緒にいるのを見つけて」
「古賀先生ってうちの古賀先生ですか? なんで天城さんと一緒なんです?」
「それが分からないから、美香奈ちゃんが追っかけちゃったのよ。困ったなあ」
「僕達も追いかけましょうよ。分かれて探したほうが効率がいいです」
千尋の言う通りなのだが、高校生を夜の街に放り出すというのも心配だ。子供じゃないようで、やっぱり子供な生徒達。慈愛は考えたあげくに口を開いた。
「じゃあ、一五分だけ探しましょう。一五分後に、この場所に集合。それで見つからなかったら、後は私が探します。いいわね」
「はい」
「先生、俺は手は動かさない主義で」
「女の子探すのにつべこべ言わないの。はい、行くわよ」
三人は三方に分かれて、走り出した。とりあえず目の前の酔っぱらい達が、障害物だ。
千尋はなるべく明るい道を選んで歩いた。
明るくて、キラキラしていて、きらびやかな街なのに、すべてが汚らしかった。
お酒を飲んで歩く大人も、楽しそうに笑うOLも、自分と少ししか年齢が変わらないはずなのに、まるで街の主役のような顔をしている大学生も。何もかもから、距離をとりたかった。
歩く速度を上げる。
自然と顔が下を向く。
そういえば食事をしてから手を洗っていない。
手を洗いたい。今すぐに手を洗いたい。
手近なゲームセンターを見つけ、一階の奥のお手洗いに入った。お世辞にも綺麗なトイレとはいえなかったが、洗面台はある。
備え付けの石鹸をつけて、手を洗った。何度も何度も。こするようにして、手を洗った。
手ぬぐいで手を拭いて、ゲームセンターから出た。汚れが落ちたような気がしなかった。
通りに出て左右を見る。変わらない雑踏、変わらない人の流れ。制服を着崩した、関わりたくない種類の高校生もいる。立ちどまったら、そういう汚いものの一切合財に取り付かれてしまうような気がして、再び歩き出した。
ここまで汚れを嫌悪する自分。美香奈すらも、避けてしまう自分。
こんな自分が美香奈を探したところで、連れて帰るような資格があるのだろうか。
美香奈の笑顔が脳裏に浮かぶ。それは微笑みなんてものではなく、豪快な大笑いで、千尋の背中をバシバシと叩く。色々なことをうじうじと考える自分を、美香奈は笑って受け入れてくれるだろうか。
——なんか、自分の心配ばかりだ。
他人を嫌悪とか、世の中を嫌悪とか、汚れを嫌悪とか。まるで自分の外の世界が悪いかのように思い込もうとしているが、自分は自分のことだけを心配している、小さな人間なんだ。受け入れられるわけないじゃないか。
自分は周囲の半径一メートルが綺麗で安全な場所なら、それで構わないんだ。外の世界は静止して無害で、自分は安全な壁の中にいる。それが液体が満たされた球体だったら、言うことない。液体——羊水がいいな。羊水の味や臭いなんか憶えていないけれど、きっと甘酸っぱいんじゃないかと思う。限りなく透明で、さらさらとした手触り。手を伸ばしても、液体をかくだけで何にも邪魔されない。それでいて安全な球体。そんなものに守られていたら、どれだけか素敵なことだろうと夢想する。
やっぱり自分は小さい人間だ。
だから秘密を言えずにいる。
技術科室の事件の後、美香奈ときちんと話せていないのだが、千尋は慈愛にも隠していることがあった。他の教師にも話していないことだ。
倉坂は「お金は後だ」と言っていたと、美香奈から聞いた。技術科室で、「俺と古賀先生に任せておきなさい」とも言っていた。
この二つが何を意味するのか、千尋には分かりかねていたが、学校の外で依里と古賀先生が会っているということは、やはり何らかの繋がりがあるに違いなかった。
きっと美香奈もそれに気付いていたから、一人で走り出してしまったのだ。だとしたら、自分は美香奈を追わなくちゃ。
——と。
瞬間、世界が反転したような気がした。
ほんの一瞬の短い時間だったけれど、世界が全然別のものになってしまったかのような、不思議な感覚。過去の記憶と血の手触りのフラッシュバック。
以前にも同じ感覚を経験したことがあるような気がするのだが、どこでだったかはっきりと思い出せない。
気持ち悪い、とても気持ち悪い感覚。呼吸が止まる。強烈な吐き気。
胃の中身が口からひっくり返って出てきそうだ。
千尋は頭を振って走り出した。
美香奈を探さなきゃ。
美香奈は自然と拳を握りしめていた。
依里と古賀を追って路地に入り、しかし二人の姿が見つからずに薄暗い道をゆっくり歩く。
依里が男子に媚を売っているとか、男性教師にも媚を売っているとか、援助交際をしているんじゃないかとか、そんな女子達の言葉が頭をよぎる。それに校長先生から依頼された、淫行教師を見つけ出す仕事。
倉坂の口から出ていた、お金という言葉と、古賀先生という言葉が、嫌な繋がりを連想させる。そこに引きずりこまれた依里という少女。
美香奈から見て、依里はあまりにも女の子過ぎるのだ。
陰口を言う子達が女の子過ぎるのと同じくらい、依里は女の子過ぎる。弱い種類の女の子だ。だからつけこまれるんだ。
それが美香奈にはもどかしい。
細い道の左右には、紫や黒色のバーやスナックの店の名前を書いた低い看板が並んでいる。女性の名前だったり、妙に詩的だったりするのが、ちょっと面白い。
こういう店には「女の人」が働いているのだろうなと思う。よく知らないけど。
そういう女の人は、やっぱり女の人すぎて美香奈が苦手なタイプなんだろうけど、テレビのドラマなんかで出てくるママさんはしたたかで強いところもある人だ。
依里もそういうしたたかさや強さを持てばいいのに。ただひたすら小さくなって固まっているんじゃなくて、外に向かう強さを持てばいいのに。
強くならなきゃ。
男の人なんかに流されない、強さを持たなきゃ。
淫行教師なんかの餌食にさせないんだから。
曲がり角に出た。二人はどっちに行ったのだろう。ここまでの途中の店のどこかに入ってしまったのだとすると、見つけるのは難しいかもしれない。制服の女の子が、そういう店に入れるだろうか。
角を左右に見回して、遠くにぼんやりとした看板と、外からは見えないようになっている出入口を見つけた。それがホテルであることくらいは、美香奈にだって分かる。
嫌な予感を感じつつも、そっちに走り出そうとしたら、不意に背後から腕を掴まれた。
「依里……ちゃん?」
振り返ったら依里がいた。普段と同じ精気のない表情で、美香奈の腕を掴んでいる。
「依里ちゃん、ひとり? 古賀先生と一緒にいなかった?」
「ええ、一緒ですよ。ほら、そこに」
え? と、後ろを見る間もなく、背後から羽交い締めにされて、動きを封じられた。
「君も、仲間になりなさい」
腹部を鷲掴みにされる。殴られたような衝撃を腹部に感じて、美香奈は思わず息をとめた。
そこまで、だった。
依里にとって幸いなことは、相談する相手がいたことで、相談したら話は簡単だった。
取り込んでしまえばいい、のだそうだ。
彼女も汚してしまえばいい、のだそうだ。
そっか。
彼はいつも冷静で落ち着いていて、大人の男だった。もし大人に天使と悪魔がいるのなら、彼は天使の大人だ。自分は悪魔の子供だけれど、彼といれば救われる。穢れに満ちた自分の身体を、天使の彼が浄化してくれる。
そんな表現が、依里は好きだった。
美香奈をおびきだせば、あとは彼が穢れを埋め込んでくれる。
依里は彼に任せて黙って見ているだけだ。
美香奈の後を追いかけて、慈愛は角を曲がった。しかし美香奈の姿も、彼女が追いかけた二人の姿もない。
通りを間違えたのかと、一つ手前の角に戻ってみたが、やはり探す相手の姿はない。
ああもう、何やってんだろう。
先生とか師匠ってのは、普段は頼りないような風体でも、いざって時はしっかりと若者を支えてあげれるものなはずなのに。自分ときたら、こんなところで生徒を夜の街に迷わせるなんて。
学校の他の先生達は、どうやって一人前の先生になっていくのだろう。自分は取らなかったけれど、教職過程には先生になるための精神修業なんてのもあるんだろうか。それとも、現場で学んでいく?
教師になるため講座初級編なんてのがもしあるのなら、受講してみてもいいかもしれない。でもそんなものはないのだろう。研究者になるため講座や、大学教授になるため講座がないのと同じことだ。——社長になるため講座は、どこかにありそうな気がするけれど。
講師といいながらもただのカウンセラーでしかないはずの慈愛だったが、いつの間にか教師としてどうあるべきかなんてことを考え始めていた。
さっき、天城依里と一緒にいた男性教師——古賀先生だっけ、彼のほうが実は自分なんかよりもよっぽど教師としては経験豊富の格上で、単に悩める女子生徒の人生相談に乗っていただけなのかもしれないとすら思い始めていた。それならそれで、依里のことは任せてしまえばいい。
だけど美香奈は自分が面倒をみなければならない。
表通りに裏通りと、何度も行ったり来たりしてみたが、美香奈は見つからない。結局一五分がたってしまい、仕方がなく元の場所に戻ってきた。
街の雑踏は相変わらずで、千尋だけが街灯に背中を預けて立っていた。
「ごめん、遅れたわ」
「いえ。でも僕だけです。美香奈は見つけられませんでした」
「私もよ。梶山君はどうしたのかしら」
「まだ来てないです。スマホに電話してみますか?」
「そうね、お願い。——あ!」
二人は同じことに気づいて顔を見合わせる。美香奈にも電話してみれば良かったのだ。
「ま、まあ、今から言ってもしょうがないわね。梶山君に電話してみて」
千尋がアドレス帳から梶山を選んでコールする。何度か「はぁ、はぁ」を繰り返して、電話を切った。
「どこにいるって?」
「家に帰ったそうです」
「はあ? 何やってんの、あいつ。部長でしょ? 説教よ、説教! 後輩が心配じゃないのかしら。明日、見てなさいよ」
「あの……、美香奈はどうします」
「ああ、電話して」
慈愛はややぶっきらぼうに答えた。
千尋は身を小さくして再度スマホを操作する。小さな声で喋りだし、ちらと慈愛のほうを見てから、電話に戻る。
「どうしたって?」
「美香奈、家に帰ったそうです」
「美香奈ちゃんも? あーもう、どの子も好き勝手に行動してくれちゃって! ……まあ、無事なのは良かったわ」
「でも、美香奈の様子が変なんです。いつもより声に元気がないっていうか」
電話の先の美香奈が何か言ったのか、千尋は再び送話口に意識を戻し、「うん、分かった。僕から説明しておくから」と言って電話を切った。
「元気ないの?」
「気のせいだと思いますけれど……。歩いているうちに気分が悪くなって、帰ることにしたって言っていたから、まだ調子が悪いままなのかもしれません」
「でも家にはついているのね」
「そう言っていました」
なら良しとしておこうか。依里と古賀のことは気にはなるが、あっちも教師なんだし、教師としての責任くらいはあるだろう。
「千尋君は、家は?」
「歩いて帰れる距離です」
「そう。じゃあここの飲み屋街を出るところまで送るわ」
慈愛が先に立って歩き出す。慈愛としてはなるべく千尋と離れないようにしていたのだが、千尋は常に一定の距離をとっているような感じがする。
それが彼の他人との関係構築、つまり他者との構造なのかもしれないけれど。
ネオンがなくなったあたりまで来て、千尋が「もう大丈夫です」と言った。
「気をつけて帰りなさいね」
「先生こそ、気をつけてくださいね。女の人なんですから」
「一人前の男みたいなこと、言うのね」
「そんなこと……」
照れるところはまだまだ半熟男子。
千尋が街灯が連なる先に消えるのを、少しだけ見送って、慈愛は繁華街に戻った。
さっき走り回って気づいたことがある。ほんの短い時間だったが、<縁脈>が大きく乱れたのだ。
これだけ雑多な人間が雑多に歩いていたら、そこに生まれる構造なんで滅茶苦茶なものになるのは必然なのだが、そういった乱雑さとは別の歪みの痕跡が残っている。
どこ——いや、誰だろう。この歪みの元は。
繁華街の端から端まで、神経を研ぎ澄ませながら、ゆっくりと歩いてみる。店と店の隙間など、見えないところに観測者のカードを置いておいた。これで街の監視の目を街中まで伸ばせることになる。
観測者の目を伸ばしてみても、分からない。
でも確かに何かの力が、この人混みの中で働いたのだ。川の流れに手を突っ込んでかき回すみたいに、人の流れをかき回して去っていったのだ。
夜の雑踏が、慈愛の耳には不気味なBGMに聞こえてきていた。
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