七章

第1話 普通の女の子とは①

「白馬!?」


 甲高い声がして、ハッと目を覚ませば、


「あんた……まだ寝てたの!? 靴があるから変だと思ったら……」


 ぬっと目の前に現れたのは、険しい面持ちの母親の顔で。

 しばらく状況が掴めず、ポカンとしていると、


「まさか、あんたがこんな時間まで寝てるなんて……。急がないと遅刻するわよ!?」

「チコク……?」


 チコクとは……なんだったか? 全くもって馴染みのないその言葉に顔を顰めて数秒。

 母親がシャッと勢いよく窓のカーテンを開けるや、ぱあっと神々しいほどの眩い光が視界に満ち、


「ち……遅刻……!?」


 刹那、ようやく脳が覚醒したかのようにを理解し、俺は飛び起きた。すぐさま、枕元に置いたスマホを手に取る。時間を確認すれば、確かに、そこには寝覚めに見たことのない時刻が。


「遅刻……だと!?」

「あーもう、朝からうるさいわね! 何回言うの!? いいから、さっさと用意しなさい」


 ペシリと軽く俺の頭を叩いて、母親はズカズカと部屋を去って行く。それでもなお、俺はスマホに釘付けになって固まっていた。

 いつもならば……五時には必ず目が覚めていた。汗だくで、胸が焼かれるような焦燥感と共に、耐えようのない息苦しさを覚えながら……。毎晩のように悪夢に苛まれて飛び起きていた。それが今朝は――。

 茫然としながら、ふうっと息を吐く。


 ――何も、感じない。


 ずっとそこにあった……胸のつかえのようなものがない。

 あるものと言えば、右手の腕の痛み。慣れない十四ポンドのボールを投げ続けた名残――筋肉痛だ。

 ズキリと痛む二の腕を摩り、何か……言い知れない――感慨とでもいえばいいのか――熱いものが込み上げてくるのを感じて、ふっと失笑していた。


   * * *


 支度をちゃちゃっと済ませると、なんとかいつも通りの時間に。

 ガチャリと扉を開け、「行ってきます」と外廊下に出れば、


「あ……」


 ふわりとまるで空から舞い降りてきたかのように、その小柄な人影が隣の扉から躍り出てきた。

 柔らかそうな短い黒髪。春風にさえ攫われてしまいそうな華奢な身体。ヒラリと靡く緑のチェック柄のスカートからはほっそりとした白い脚が覗いている。

 俺に気づくなり、まん丸にしたその眼は相変わらず、クリッとして愛らしい。


「まりん……」

「ハクちゃ――」


 ポカンとして見つめ合う――間もなく、まりんは何か思い出したようにハッとして、慌てて両手を挙げた。


「ち……違うよ!」

「何がだ!?」

「待ち伏せとかしてないから! 偶然だよ!?」

「え……ああ。分かってる……ぞ?」


 待ち伏せなんて……微塵も思ってもいなかったが。俺でもないのだし。


「そっか。そう……ならいいんだけど。えっと……あの……」とまりんはなぜかモジモジとしだして、ちんまり身を縮めて俯いた。「お……おはよう……」

「ああ……おはよう……」


 そして、しんと静まり返る外廊下。向かい合いながら、お互いに視線を逸らして黙り込んでしまった。

 なんだろう……このぎこちなさ?

 まりんも……だが。俺も――変だ。


 ちゃんとわたしを見てほしい――そう言われたのが、ほんの半日前ほどのこと。


 確かに……と思った。俺は今まで、しっかりとまりんを見ていなかったのだ、と気付かされた。いつだって、俺が見ていたのは、あの日の――俺が殺しかけてしまった(と思ってきた)まりんで。今、目の前で生きているまりんを見ようとしていなかった。顔色とか、息遣いとか、脈拍とか……そんなものにばかり気を取られ、きっと俺はいろんな変化を見逃してきたんだろう。

 ただ、そうやってしか俺はまりんを見てこなかったから。いざ、『一人の普通の女の子として見てほしい』と言われても……正直、どうしていいのやら。接し方が分からないのが正直なところで……。


「あー……とだな」と俺は頭をガシガシと掻いて、歯切れ悪く切り出し、「一つ……確認しておきたいんだが」

「う……うん。――何……でしょう?」

「結局、今の俺たちは何なんだ?」

「何って……!?」


 ぎょっとして上げたまりんの顔は、なぜか、かあっと真っ赤に染まっていた。

 ぎくりとして、思わず「熱か!?」と額に手を当てそうになるのをグッと堪え、誤魔化すように咳払い。気を取り直して訊ねる。


「その……幼馴染に戻ったのか? それとも、まだ『ただの同中』のまま……なんだろうか?」

「あ……ああ、そういうこと……」とまりんはどこか恥じ入るように顔を伏せ、「うん。『ただの同中』からで……お願いします」

「『ただの同中』……?」

「あ、ちが……なんでもないの! 『ただの同中』でお願いしましゅ!」

「お願いしましゅ?」

「きゃあ!? 違うから! 今のはわざとじゃなくて、噛んだだけだから! さすがに、まり――わたし、そんなあざといことしないから!」

「いや……そりゃあ、わざとではないことくらいは分かるが……」


 あざとい……とは? 『お願いしましゅ』がなぜ、『あざとい』になる?

 まるで一人だけ常夏にでもいるかのように、パタパタと手を振り、ひゃあひゃあと顔を仰ぐまりん。顔は真っ赤で呂律は回っていないし、発汗も見られる。今すぐに体温を測りたい衝動に駆られるが……おそらく、それも『一人の普通の女の子』への態度ではないのだろう。

 必死に気を鎮め、「それでは……」と改まって姿勢を正し、


「まりんはエレベーターを使って行ってくれ。俺は階段を使って降りよう」


 しゅたっと右手を挙げて言って、さらば、とばかりに足を踏み出すなり、「な……なんで別行動!?」とまりんが血相変えて俺の腕をガシッと掴んできた。


「なんで、て……ただの同中はお家から一緒に登校したりしないの――と初日に言っていただろう?」


 すると、「あ……」とまりんは俺の腕から手を離し、オロオロと視線を泳がせ始めた。


「そ……そう、言っちゃったね。えっと……じゃあ……その……」


 モゴモゴと何やら口の中で呟いてから、まりんは意を決した様子できりっと表情を引き締め、


「お友達に……なってください!」

「お友達に……!?」


 なんというスピード出世……!?


「い……いいのか!? そんな急にお友達になってしまって……!? 俺はまだ何もしてないぞ!?」

「うん――というか、国矢くんがよければ……だけど」

「もちろんだ! よからぬことがないぞ!」

「ほんと!?」とぱあっとまりんは弾けんばかりに微笑み、子ウサギの如くぴょんと飛び跳ねた。「良かった。じゃあ、今日からお友達だね」

「ああ、お友達だな」


 噛み締めるように言った――その瞬間、まりんがハッと息を呑むのが分かった。ふわりと微笑んでいたその顔が呆気に取られたように変わり、朝陽を溜め込んだ琥珀色の瞳が一段と輝きを増した……ように見えた。

 そのまま、俺を茫然と見つめて固まってしまったまりん。

 一瞬、俺の顔にワカメでもついているのだろうか、とも思ったが。今朝は汁物は食べていない。


「ど……どうした?」


 『お友達』はどこまで心配していいのやら……と迷いつつもおずおずと訊ねると、まりんは今にも泣きそうに顔を歪めて俺を見つめ、「んーん……」と首を横に振った。


「ハクちゃんだあ、て思って……」

「え? ああ……俺だが……」

「うん。そうだね」と感極まったように言って、まりんはふわりとどこか切なげに微笑んだ。「千早先輩のおかげ……だな」

「千歳ちゃん……?」


 なぜ、急に……千歳ちゃんの話に?


「確かに……千歳ちゃんのお陰で、ストライクはなかなか安定して取れるようにはなったが……」

「ストライク……?」


 ん? とまりんは小首を傾げ、ぱちくりと目を瞬かせた。


「ストライクって、野球? 昨日、千早先輩と……野球してたの?」

「いや、ボウリングだ」

「ボウリング……?」

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