第68話 颯鬼 8

 ただ酒もただ飯もいつになったらありつけるのか、期待してやってきた妖達も空腹だし手持ち無沙汰だし、でふわふわと店の中を漂ってはいるが、退屈げである。

「鳴宮、お前、元ホストやろ? あの悪霊憑きの娘、口説いてこい」

 と闇屋が言った。

「ええ? い、嫌ですよ。悪霊憑きの女なんて」

「あの娘を上手く口説けたら、あの悪霊の意識がお前に向くやろ」

「そ、そしたら俺に取り憑くんじゃないんですか?」

「そこを取り押さえたらええやんけ。犬神とか力の強いもんが行ったら」

「大丈夫ですか?」

「知らん」   

「え、えええ。そんな」

(あにさん、それは無理じゃないだろうか。俺が見るにもあの悪霊はあの娘から簡単には離れないだろう。魂の一部まで掴んでいるようだから)

 行儀良く闇屋の足下で座っていた犬神が口を挟んだ。

「魂ねぇ」

(だが挑戦してみる価値はある。あにさん、上手くいったら、三億の借金を減らしてもらえるか?)

 と犬神が言ったので、闇屋は面白そうな顔で、

「ええで。頑張れ」

 と言った。


 犬神はその場で身体を起こして前後にのびをし、シルバーグレーの毛皮をぶるぶるっと振るった。

 カウンターの中で月子が磯女に言われて煮物の鍋を見ていた。

 大きな宴会が始まると聞いて、その準備の手伝いに来ていた。

 店にくれば安田の姿が少し薄くなったり、時には消えて見えなくなる。

 だから月子はこの店に入り浸るようになっていた。

 会社で月子をいじめたお局は怪談から落ちて骨折し、月子を叱った課長は車にはねられた。月子を食事に誘った若手営業マンは大事な書類を無くして、商談を失敗した。

 それもこれも全てが月子と関わりをもったせいだと噂になっている。

 死んだらそれこそ思う壺だと磯女に言われて、自死も思いとどまっている月子にはもうここでそれこそ永遠に隠れているしかない。

 

 この店にはそれ以外にも不思議な事はたくさんある。

 客がいなくても話し声がしたり、奇妙な格好で水槽に手を突っ込んで生魚を捕って食べては磯女に怒られるような得体の知れない客だとか。

 もちろんそんな客ばかりではないようだが、時折正体不明の者がいるのだ。

 そんなおかしな客が多いけれど、それでも月子に憑いた安田よりはマシだった。

 ただじっと月子を見つめている。

 血だらけの醜い姿で。

 安田は月子の気が狂い、自死するの待っているのだ。


「月ちゃん、ちょっとお鍋の火を止めて、こっちへ来てちょうだい」

 磯女に呼ばれて月子はカウンターの中から出てきた。

「この人ね、闇屋のあにさん、刺青師さんなの。こっちはマネージャーの鳴宮ちゃん」

 と磯女が二人を月子に紹介した。

 月子は目をまん丸にして闇屋を見た。

 体中、余すところなく刺青が入っていて見るからに柄の悪そうな男だったので、月子は言葉も出ずにただ頭を下げた。

 この店には磯女と闇屋と鳴宮、そして自分の四人しかいないと月子は思っていた。

 だが足下の狼のような大きな犬がぐるるるると月子に向かって唸った瞬間だった。

 ぱーっと月子の目には大勢の何やら空中をふわふわと漂う者やテーブルの上の爪楊枝を剣のようにして戦っている小さい鬼の様な者達が視界に入った。

「え、え」

 月子は小さい鬼のような者を見つめた。

 いつも側にいる安田の悪霊とは違う。

 えいえいっと言葉を発しながら爪楊枝で戦うその姿は何やらコミカルな感じだった。

「この世の中にはね、人間だけじゃなく、こういう者達も生きてるのよ。悪霊を背負った月ちゃんなら素直に信じられるでしょう?」

 という声に振り返れば磯女が立っていた。

 だがその顔はいつもとは違う、鱗だらけの肌、金色に光る瞳。手の指の間には水かきのような物が見える。

(ここにいるのはみんな仲間だ。人間との共存を選んだ妖は人間を助けたりもする。人間と我々は持ちつ持たれつという関係だ。だからお前みたいな執念と悪意だけの塊の霊魂はお呼びじゃないのだ。諦めてその娘から離れろ)

 と犬神が言った。

 犬神は牙を向いてぐるぐると月子の側の安田に向かって唸った。

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