第61話 颯鬼
「魚料理 イソメ」 と書いてある暖簾をくぐると、ほっそりとした美人女将が「いらっしゃい」と色っぽい声で迎えてくれる。
外見は普通の普通の一軒家のようだ。
繁華街の外れにある民家で女将が細々と料理屋を営んでいるのだが、その実、中に入ると大きな生け簀には魚がわんさかと泳いでおり、その中に細い腕を突っ込んだ女将が素手で魚を掴み取るのがちょっとした名物にもなっている。
女将に手伝いの者が二、三人いるが、美人で色っぽい女将、そして新鮮で美味い魚料理と酒を目当ての客で隠れた名店として噂が広がっている。
何よりも魚を切らした事がないのが自慢の店だった。
閉店間際に駆け込んでも魚料理に品欠けがない。
どんなに混んだ週末の夜でも生け簀の中は魚が満杯で、不思議な事に女将が何匹素手で生け捕っても、生け簀の中は少しも減らないように見える。
「あらぁ、いらっしゃいませぇ」
その夜、一際色っぽい声で女将が客を出迎えたので、カウンター席で女将をかぶりつきで眺めていた客が一斉に入り口の方へ振り返った。が、何人かはすぐにさっと元の姿勢に戻って下を向いた。
「颯鬼のだんなぁ、来てくれて嬉しいわぁ」
と女将の磯女が嬉しそうに言った。
銀と黒の混じったような髪の毛に、すうっと整った顔立ち、長身で逞しい体躯。
素晴らしくいい男だが、分かる人間には分かる。
鬼の発する禍々しさ。
颯鬼の姿を見て下を向いた人間は早速鬼の気にやられ、早々に席を立つ。
気分が悪くなり、暖かいはずの店内で全身に鳥肌が立つのだ。
「お勘定してくれる」
「あらぁ。もうお帰り?」
という磯女に未練がましい顔を見せながら、客は「また来るよ」と言いながら帰っていった。
磯女は空いた席を片付け、颯鬼はそこへ座った。
颯鬼が席につき、三十分以内には周囲には人間はいなくなる。
敏感な人間はすぐに、そうでない人間も徐々に颯鬼の気を避けるように帰ってしまうのだ。
それでも磯女にたいした問題はない。人間の客が帰っても、店にはまだ人間でない客がたくさんいたからだ。
「颯鬼のだんな、今日は闇屋のあにさんは?」
と磯女が颯鬼に酒とつまみを出しながら言った。
「勤勉だから、まだ働いてるんじゃないか」
と颯鬼は出された一升瓶をどんぶりのような形の巨大な杯に注いで飲んだ。
それでもう一升瓶の半分は減っている。
「あらあら、真面目ですねぇ」
「そういうお前も毎晩毎晩、人間相手にご苦労だな」
磯女はケラケラケラと笑った。
「あらぁ。だって、人間はお金を持ってるんですもの。お金がないと人間界で生き抜くのは難しいでしょう? あたしは人間の気だけ細々と喰ってるような惨めな暮らしはしたくないわぁ。お金があれば何でも買えるし、欲しい物がいっぱいあるんですもの。住む場所も食べる物も、あたし達だって進化しなきゃ。あの汚らしい鬼熊みたいに人間と一緒に公園や駅のホームで寝泊まりして、仲間の間を彷徨って食い物を恵んでもらうなんて、ぞっとするわ。ここにだって毎週のように来てはただ酒を喰らって帰るんですよ。相手にしなきゃ表で暴れるし」
と磯女が眉をひそめた。
「でも颯鬼のだんなが来てくれたら、鬼熊が怖がって近寄らないから嬉しい」
磯女は嬉々として颯鬼にせっせと酒や新鮮な魚料理を振る舞った。
その合間にも客が来て、注文が入る。
磯女はくるくると働く。
「繁盛して結構なこったな」
と颯鬼が言うと、
「最近はそうでもないんですよ、問題ありなお客さんがいましてね。物騒なもんを連れてくるから敏感な人間は来なくなるし、お仲間の妖も嫌がってるし」
と磯女が言った。
「問題ありの客? 迷惑なら追い返せばいいだろう」
「それがねぇ……あ、ほら」
と磯女が入り口の方を見た。
すぐに扉が開いて、さあっと初冬の冷たい風が店内に入ってきた。
同時に若い女が入ってきた。
すぐにコートを脱いだその下は紺色の事務服を着ていた。
会社帰りのOLだろうと察しがつく。
「いらっしゃい、どうぞ」
と磯女が愛想良く声をかけ、女にカウンターの席を勧めた。
颯鬼が来るまでは鈴なりだったカウンター席はすでに人間の姿はなく、颯鬼を恐れる妖も近寄りもしない。
「はい」
と言ってから女はカウンターの席に座ろうとしてから、はっとしたような顔で颯鬼を見た。
「あ、あ、あ、」
と苦しそうな声を出して胸を押さえ、それから苦しげに、
「す、すみません……今日は帰ります」
「そう……じゃ、ちょっと、待って」
磯女は手早くタッパーに作り置きの総菜をいくつか詰めて、
「これ、おうちでおあがんなさい」
とハンカチに包んで持たせて持たせてやった。
「すみません、おいくらで……」
「いいの、いいの。気をつけて帰りなさいよ」
と、磯女は顔色が真っ青な女を半ば追い出すにして店の外に押し出した。
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