第32話 覚(サトリ)
「銀鬼様が来るぞーー、逃げローー」
と小鬼達が部屋の床をぐるぐると走り回っている。
小鬼達にとって、鬼族の颯鬼は恐怖の対象だった。
颯鬼にしては眼中にも入らない、存在すら気がつかないほどの小さい者達だが、小鬼達にとっては闇屋の工房へ颯鬼が来る時はいつも一大事件だった。
「逃げろーー」
「隠れロー」
と一騒ぎして、小鬼達が消えてしまった後に、空間を割って颯鬼が現れた。
「?」
颯鬼の背後から少年が一人ついて現れてたので闇屋は首をかしげた。
「隠し子か? 雌鬼が怒鳴り込んでくるんはごめんやで」
と闇屋が言った。
人間に近い形態の鬼族は子孫を繁栄する事が可能である。
雌鬼は他種族の妖、そして人間とも生殖行為が可能である事は闇屋の存在が証明している。
「鬼の子ではない。ここで使えないかと思ってな。一族とはぐれて居場所がない」
「はあ? 化け物の面倒事を持ってくんな」
闇屋は嫌そうな顔をした。
「この子は使えるぞ。覚だからな」
「覚って心が読めるやつか?」
「そうだ」
「へえ」
闇屋は興味深そうに覚の少年を見た。
緑色の髪の毛で黒い瞳の少年だった。
「じゃあな、頼んだぞ」
しゅっと姿を消す颯鬼に、闇屋はありったけの悪口を言う。
「なんやねん、ほんま迷惑な鬼や」
闇屋は覚に声をかけるでもなく、すぐに机の方を向いて絵を描く作業に戻った。
側にいた鳴宮は「え」と思ったが、心を読まれるなんて冗談じゃないぞ、と思いながら自分も立ち上がった。
「じゃ、じゃあ、俺もまた……来ますんで……」
闇屋は返事もしない、覚の少年は壁際に膝を抱えてうつむいたまま座り込んだ。
開襟シャツに半ズボン、足は裸足だった。
顔や身体は人間に良く似ている。
「覚、わしは青女房じゃ。これは人間の鳴宮。よろしゅうな」
と青女房が鳴宮の背中から出てきて優しく声をかけた。
覚は少し顔をあげたが、黙ったままだった。
「見た目、人間だな」
と鳴宮が言った。
「そうや、覚は人間に一番近い妖なんや。人や動物の心を読むという技を持ってる。でもそれだけや。心を読むだけや。何も怖い事ない。覚はほんま無害な妖なんや」
そうかな……と鳴宮は思った。
ある意味、人間には一番怖い種類の妖じゃないかな。
心を読まれるなど、一番恥ずかしく恐ろしい事だ。
人生の全てを壊されるかもしれない技だ。
だが他人の心を覗けるとしたら、それは面白い。
そしてそれで人間関係が崩壊するかもしれないという危機感が何とも言えない背徳感ではないか。
「じゃあ」
と言って鳴宮が青女房を連れて闇屋の工房を出て行くと、闇屋はカタンとペンを置いた。
一日中、机に向かって絵を描いていたので体中が堅くなっている。
腕をぐるぐると回し、首をコキコキと鳴らす。
タバコをくわえてから、部屋の隅に座っている覚を見た。
うずくまるように膝を抱えて座ったままだ。
「お前、覚、腹は減ってないんか?」
と闇屋が声をかけると覚はびくっと身体を震わせてから視線を闇屋に向けた。
「覚って何を喰うんやった? ここには人間の食いもんしかないで。人間の食いもん以外の嗜好品は自分で狩ってこいや、けど生もんは外で喰ってこい。ネズミや蛙の死骸やなんかを持って帰ってくんなよ」
覚は闇屋を見て一瞬、驚いたような顔をした。
目をみれば無条件に流れ込んでいる人間の思考が闇屋からは何も感じ取れなかったからだ。
「なんぼ覚でも俺の心は読めんぞ」
と闇屋が覚の気持ちを読んだかのような答えをした。
「あなたは……」
「俺の事は詮索するな。ええな?」
「あ、はい」
素直にうなずいた覚に闇屋は優しい顔で笑った。
それから大声で廣瀬を呼ぶと、足を引きずりながら廣瀬がやってきた。
「はい……」
廣瀬は部屋に入ってきてから闇屋と覚を見た。
覚は廣瀬の醜い容姿を見てまた少し驚いたような顔をして、それから廣瀬から流れ込んでくる悲しみと後悔の気持ちを慌てて遮った。
「廣瀬、こいつは覚の子や、しばらく預かるから世話してやれ。ええな。こいつは妖やけど、多分、暮らしは人間に近いやろ」
と闇屋が言ったので廣瀬はうなずいた。
「は、はい。分かりました」
「三毛猫!! そこら辺にいてるんやろ。お前もこいつの面倒みたってくれや」
と闇屋が言うと、どこからか面倒くさそうなニャーという猫の鳴き声が響いた。
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